僕の兄さん

 黒い服を着た大人がたくさん。

 お気に入りの青い服がよかったのに、初めて見る真っ黒なワンピースを着せられた。

 青い服はどこ、と言うとしーっと指を当てられた、唇の感触。

 虚ろな顔で赤ちゃんを抱く女の人。赤ちゃんの顔が見たかった。

 誰かが大きな声で怒鳴っていて、お母さんが泣いている。

 ずっと眠っているおにいさん、起きない。

 箱みたいな四角いベットがあるお部屋。



 そういう、断片的な場面。

「でも、その話をする度に、周りの大人から『早く忘れなさい』って怒られるから、何も言わないようにしたんだって。そしたらみんな安心した顔をしてたから『これでよかったんだ』って思って、考えないようにしてたらしい」

 毎日楽しく過ごしていたら、次第に思い出すこともなくなっていった。

「でも、中学生になって、自転車で学校に通うことになって。お母さんが随分心配してて、毎日玄関で帰りを待ち構えてるのを、うっとおしく思ってたらしい。同じころ、交通安全教室で、交通事故のリアルな映像を見たんだって。そこで、あれ、って思ったんだってさ」

 なんだか頭が痛くなってきて、最初は、ビデオや周りの声がうるさいからだと思った。

 でも次第に、確信に変わった。

 見たことがある。この音を、この光景を知っている。

 奇妙なことに、その日から、ビデオで見た事故の映像が、繰り返し、夢に出てくるようになった。

 夢では、砂埃と金属のにおい、口の中に広がる鉄の味まで、鮮明に再現された。


 唐突に、関係ないような場面に変わる。

 あの夢だ。

 小さい頃に早く忘れろって言われた、あの場面。

 まるで、お葬式みたいなその記憶が、何故だか無性に気になった。

 起きている時も、夢で見た映像のことを考え込んでしまうようになった。

 娘の様子がおかしいことに気付いた両親は、何かに怯えているようだった。

 何かを隠しているとは感じたものの、なかなか聞けなかった。

 言ってはいけないこと、聞いてはいけないことだと、心のどこかで強く感じていたから。


「あの日、夢に出てくるおにいさんと、俺の顔がそっくりだったから、本当にびっくりしたって。話そうとしたら、お母さんに家に押し込まれたけど、気になって後から追いかけてきたんだってさ」

 本当のことを知りたんです。何か知っていることがあったら、教えてください!

「そう言われてさ。迷ったよ。部外者の俺が話すのもなあ、って思うし。さっきの子どもが、夢に出てきた人の息子で、俺は親戚みたいなものだって、それは言った。俺たち、怪しい奴じゃなくて、君が元気にしてるか気になっただけなんだって」

 ただ見てるだけ、って、それも怪しいけどな。お兄さんはそう言って笑った。

「とにかく、本当に知りたいことは、両親からちゃんと聞いた方がいいと思うって伝えたんだ。もし、教えてもらえなくても、大事だと思うことは聞き続けろって」

 つい熱くなっちゃってさ、と照れたように頭をかいた。


「俺、あの子の気持ちが分かる気がしたんだ。何か変だなって思うことがあっても、聞くに聞けないのとかさ。もっと早く言って欲しかった、本当のことが知りたいって、ずっと思ってたし」

「お兄さんは、精子提供のこと、どうして教えてもらったの?」

「親父が病気で入院したのがきっかけ。今は回復して元気なんだけどさ。遺伝性の病気だったのに、俺は検査しないのは何でか聞いたら、はぐらかされて。もしかして再婚したのかもって疑って追求したら、まさかの話が出てきたわけ」

「そうだったんだ……でも、精子提供のことなんか知らなかったら良かったのに、って思わない?」

「そりゃ何度も思ったよ!」

 お兄さんはすぐに、大きく頷いた。


「でも、もし本当のことを知らずに一生過ごしてたら、って考えると、やっぱ怖いよ。提供を受けても、子どもには最後まで隠し通すって人もいるみたいだけどさ。何か変だなって感じはまでは、やっぱり隠せないと思うんだよ。ほら、親の隠し事を察知する能力みたいなの、子どもにはあるじゃん」

「たしかに……」

 お母さんが隠そうとしたことに限って、何か引っかかって見つけてしまう、っていう経験には、僕にも覚えがあった。

 それでも、僕は、あの事故のことを思い出すことで、誰かが不幸になるかもしれないと思うと、すごく怖かった。


「でも、本当のことを知ると、傷つくかもしれない。聞かなければよかったと思うかもしれないよ……」

「それでも、聞いてみなければ何も分からないんだよ。もうすでに、何も疑問を持っていなかったときの自分には戻れないんだから。知る必要があった、知れてよかったと思える日が来るまで、進み続けるしかないんだよ、きっと」

 そうなのかな。そういうものなのかな。

「……僕のせい、じゃない?」

 お兄さんは、不安そうな僕の問いに、静かに頷いてくれた。

「それが、自分自身が生きていくために必要な戦いなんだ。他の誰のせいでもないし、誰も代わってあげられない。もちろん、君のせいでもないし」


 あの子にとって、自分が誰かに助けられたって知ることは、大切だった。

 それなら、いつか、あの子も、僕のお父さんのことを、心の中で思ってくれるかもしれない。

 そう思うと、それだけで僕は、すごくうれしい。

「君もそうだろ? 君にとっては、あの子に会うことがその、必要なことだったんだ」

「……うん。きっとそうだ」

 僕にとっても。そうなんだ。

 お父さんのせいで生きられた人、傷ついた人、そんな人がいるなんて知りたくなかったと思うこともあった。


 でも、お兄さんの言う通り、それが僕にも必要なことだった。

 お父さんのこと、ちゃんと知れてよかったって、きっとそう思える。

「君のお父さんがしたことの意味は、きっとあったよ。忘れられてないし、消えない。あの子がああして歩いて、考えて、生きていることは、お父さんが何もしなかったら、ありえなかった未来なんだ」


 だから、とお兄さんは続ける。僕の目を真っ直ぐ見つめた。

 嘘偽りのない、ごまかしのない瞳。

「お父さんのしたことが正しいとか正しくないとか、決められるのは、それを知っている俺たちだけだ」

 僕も、お兄さんの目をじっと、見つめ返す。

「いなくなった人を生き返らせることはできないけど、お父さんのしたことを信じて、じゃあこれから、自分はどうすべきかと、考えることはできる。今生きている人間が、その人を活かし続けることができる。俺たちはそうやって、生きていけるんじゃないかな」


 僕は、目頭が熱くなったのをぐっとこらえた。泣くもんか。

 お父さんのしたことは正しかった。家族を悲しませただけの人じゃない。ただ僕を 残して死んでしまった人じゃない。

 僕がそう思っていれば、そうなんだ。

 お父さんの生きた意味は、消えたりしない。


「僕、お父さんがしたこと、正しいことだと思う。誰かが覚えてなかったり、忘れようとしたりしても、僕は絶対、覚えてる」


 お兄さんは、僕の肩に手を置いた。僕より大きな、力強い手を握る。

 僕を頼らせてくれる、堂々としたその姿に、思わず聞いてしまった。


「お兄さんはさ、お父さんのせいで自分が苦しんでるって、思わない?」

 うーん、とお兄さんは迷った末に、答えた。

「全く思わないと言えば、嘘になるかもしれないけど……でも、それは精子提供に関わった大人たち皆に思っていることでさ。今までは『精子提供がなければ、あなたは生まれて来なかったのに』って言われても、『俺は生んでくれなんて頼んでない』って、本気で思ってた。心の中でね」

 でも、とお兄さんは続ける。

「君のお父さんは自分なりに、それが正しいことだって、誰かを救うことだって信じたからこそ、精子提供をしたのかなと思ったんだ。そういう気持ちの下で生まれたってことは、やっぱり俺は冷たい試験官の中で作られた人間ではないのかもしれない。今は、そう思えるようになったよ」

「うん……そうだね。僕もそう思う。絶対、そうだよ」

 僕も心の底から頷いた。

 お兄さんは、嬉しそうに、にっこりと笑った。


 しばらく、この笑顔を見ることができないと思うと、せつない気持ちだった。

 外国なんて想像もできないけれど、お母さんに頼めば、手紙を書くことや、電話をすることはできるのかもしれない。

 けれど、僕らはそれをしないだろう。何故かそういう確信めいたものがあった。

 しなくても、きっともう、大丈夫だから。

 寂しいけれど、大丈夫なんだ。だってもう、たくさんもらった。

 そう思うと改めて、寂しさで涙がこぼれそうになる。


「お兄さん……ありがとうね。いろいろ……」

「こちらこそ、本当にありがとう。年上だからって、説教みたいなことばかり言ってしまって、ごめん……でも、君にだけは、聞いてほしいと思ったんだよ」

 お兄さんが、僕を見た。澄んだ瞳に、僕が映る。

「君が僕にくれた言葉と君と同じくらい、君のことを思って考えた言葉を伝えたかった。君に何かしてあげたかった。それが俺にとっても嬉しいことだったから。君のこと、まるで友達のようにも、弟のようにも……息子のようにも感じていたから」

 ありがとう。

 その言葉は、僕の口から出たのか、お兄さんの口から出たのか、もはや分からなかった。

 ただ、握手をした。

 あたたかくて、大きな手。僕の手を、ぎゅっと包んでくれた。

 それが僕らの、別れの挨拶だった。




 僕とお母さんは外に出て、坂の上からお兄さんを見送った。

 お母さんに「頑張ってね」と言われて、お兄さんは元気よく「頑張ります!」と返事をしていた。

 お兄さんは、坂道を歩いて下りながら、何度も振り向いて、何度も手を振った。

 僕も、お兄さんの姿が少しも見えなくなるまで、何度も何度も手を振った。


 僕はふと、隣にいたお母さんに問いかけた。

「ねえお母さん、お兄さんのこと、どう思った?」

「いい人そうだったわね。優しくて、真面目で。お父さんとは、全然似てなかったなぁ」

 僕たち二人とも、顔を見合わせて笑った。

 それはそうだろう。いくら見た目がお父さんに似ていたって、お兄さんはお兄さんなんだから。

 初めて会った日から、今日までのことを思い出す。

 些細な言葉まで、鮮明に思い出せる。

 きっとこれからも、僕はこの夏のことを、何度も何度も思うだろう。

 僕を本当の弟みたいに思ってくれた、たったひとりの僕の兄さんのこと。

 僕は絶対、忘れない。



 でもさ。最後の一瞬、握手をしたあの一瞬だけは。

 もしかしたら。もしかしたらさ。

 お父さんが、お兄さんの姿を借りて、僕のところに会いに来てくれたんじゃないかなんて。

 そう思ったことは、誰にも内緒だ。


(了)

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死んだはずの父が帰ってきた話 ~お兄さんと僕の夏休み~ 日野月詩 @hinotsukushi

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