向き合って
「そう……」
お母さんは、静かに頷いた。
「今になって、あなたたちが羨ましくなった。私は、私の中で作られてしまった眼鏡を通してしか、あなたを見ることができなかったから。縁あってここに来た、本当のあなた自身と、ちゃんと話をしてみたらよかったのね」
お母さんは、ふっと目を逸らした。
視線の先には、仏壇があって、お父さんの遺影がある。お父さんはいつでも、いつまでもずっと笑っている。
お母さんはまたそこから目を逸らして、俯いた。
「あまりにもあなたが、夫に似ていたから……とても受け止められなかった。向き合えなかった。あなたの言っていることは事実なんだろうと分かったけど、本当に何も聞いていなかったから。無かったことにしたかった。夫に向けたかった苛立ちを、あなたに……前に来てくれた時は、追い返すみたいになってしまってごめんなさい」
お母さんに謝られて、お兄さんはますます恐縮したようだった。
「いや、そんな……それは、自分が突然訪ねてしまったのが悪いので……本当にすみませんでした」
僕は、お母さんの背中にそっと手をやった。
これでいいのかわからないけど、撫でてやる。
お母さんは僕を見て目を細める。
僕は気恥ずかしくって、お母さんから目を逸らした。
「この子と、ずっと二人で暮らしてきてね。あなたがここへ来た時、何故だか、この子を取られちゃうんじゃないかって、そう思ったのよ。実際、この子はあなたにどんどん心を開いていって、私には何も話してくれないし。だから余計に心配になってしまった」
ごめんね、とお母さんが僕に言った。
だったら最初からそう言えばよかったのに、と思ったけど、頷いた。
「何だ。お母さん、もうお兄さんに会わない方がいいなんて言ってたけど、そんな理由だったんだ」
「……でも、前に話したことだって、本当のことよ」
「お母さん!」
僕は頬を膨らませた。まだ、そんなことを言うのか。
お母さんは、申し訳なさそうに、躊躇いがちに口を開こうとした。
「もしかして、僕のことで、何か言われましたか」
先んじて、お兄さんが鋭く言った。
「ここへ来た時、ここの近所の人たちが、僕を見てひそひそ話をしていたような気がして。気のせいかとも思ったけど、さっきも、誰か来た時に、隠れて、って言われたし……」
お兄さんは寂しそうに笑う。
こういうことには慣れている、そういう笑顔だ。
「提供者の人が、自分の子どもに会いたくないって思うのも当然ですよね。偏見も、色眼鏡で見られることも、すごく多い。だから提供は匿名でしか行われないし、僕らのような、本当の親を知りたいって言う気持ちは認めてもらえないんだ」
自嘲的に言うお兄さんに耐え切れず、僕は叫ぶように言った。
「でも、僕はお兄さんに会えてよかったよ! 周りの人が何を言ったとか、全然気にしない。お兄さんに会えなくなることの方が、もっと嫌だ!」
お母さんは、難しい顔をして黙っている。
まだ今も、お兄さんにもう会わない方が良いと思っているのかな。
だが、僕の問いに答えたのはお兄さんだった。
「ありがとう。でも、ごめん……」
もう会わない方がいい、という言葉を予想して、項垂れる。
「今日はその話をしたくて、来たんだ……俺、来月から二年間、留学に行けることになったんだ」
事情が呑み込めず、顔を上げてお兄さんを見つめた。
僕は、随分きょとんとした顔をしているのだろうな、と他人事のように思う。
お兄さんは、噛んで含めるような、丁寧な説明をした。
まるで、僕が泣いたり怒ったりすると思っていたみたいだった。そんなことは僕はしないけれど。
「元々、八月に行く予定だったのを取りやめたって話はしただろ? 今出ていったら、親不孝なんじゃないかとか、そんなことばっかり考えてて、行けなくなった。でも家にいたって、お互いに気を使いすぎて、すごくよそよそしいんだよ。居心地が悪いし、居場所も無いって感じでさ」
前はそんなじゃなかったのに、と歯がゆそうにつぶやく。
ふと、お兄さんが毎日大学に来ていたのは、家には居場所が無かったからだったのかなと、そんなことを思った。
お兄さんが寂しいと思っていた時、もしも僕が少しでも力になれていたなら、嬉しいと思う。
「だから一度、少し距離を取った方が、ちゃんと向き合って考えられるんじゃないかって思ったんだ。俺、両親を前にすると、怒ったり、悲しくなったり、冷静でいられなくなるし。これから先も、家族として一緒に過ごすために、今は時間が必要だと思う。両親にもそう言って、納得してもらった」
「そうなんだ……」
「留学に行く国も変えた。精子提供とか、出生を知る権利が進んでいる国を探してさ。一度断っちゃったし、いろいろ頑張って、最近ようやく決まったんだ。でも、なかなか君に言いに来れなかった……寂しくてさ……」
最後の一言をかみしめるように呟く。
お兄さんは、大きな体を丸めてそっとこちらを見る。
許してくれる?とすがるような瞳は、まさしく子犬のようだったので、ちょっと笑ってしまった。
「そんな顔しないでよ……そっかあ……海外行きたいって言ってたもんね。本当に、良かったよ。頑張ってね、」
別に無理をして言った訳じゃなかった。
居場所が無いと思っていたお兄さんが、行きたい場所を見つけたのだ。僕も心の底から、嬉しいはずだった。
お兄さんとお母さんは顔を見合わせて、くすりと笑った。
何故かはわからなかった。多分、少しだけ、僕の言い方が頑なだったからかもしれない。
「何で笑うんだよ」
僕が口をとがらせると、「ごめんごめん」と言って笑った後、お兄さんは急にしょんぼりと肩を落とした。
僕も遅ればせながら、ああ、お兄さんとはもうお別れなんだという実感がじわじわとわいてきた。
寂しくないとは、嘘でも言えなかった。
「ねえ、お兄さんと二人で話してきてもいい?」
いいよ、とお母さんは、いつものようにあっさりと返事をした。
リビングを出ると、二人でもう一つの部屋に向かった。
「暑くて申し訳ないけど……」
「いやいや」
並んで、窓の方を向いて座った。わずかな風が、レースのカーテンを揺らしている。
静かだった。二人とも、しばらく何も言わなかった。
「……お父さんがさ、」
口からぽろりと言葉がこぼれ出た。
続けるべき言葉を、迷う。考えながら、続けた。
「お父さんがしたことは、正しかったと思う?」
「正しいに決まってるよ」
即答だった。驚いて、お兄さんの顔を見た。
「だって、君のお父さんが助けたあの子は生きてる。お父さんのおかげで、今も幸せに暮らしてるんだよ」
「でもさ……もう、そのことは思い出したくないって言われちゃったし……お母さんや僕やみんなのことを悲しませてまで、そんなことする意味、あったのかなって……」
上手く説明できなくて、歯がゆい思いがした。でも、お兄さんはそっと僕の背中をなでてくれた。
悲しいけど、あの子のお母さんが言っていた通りかもしれない。忘れていた方が幸せなのかも、あの子も、その家族も。
だって、思い出すことは、つらい。覚えておくことは、かなしい。
お父さんはもういない。
だから、お父さんじゃなくって、生きている人こそが、幸せになれるようにしないといけないんだ。
お父さんだってきっと、自分が助けた子どもがいつまでも泣いていたら嫌だろう。
でも、なんだかすごく、虚しい。寂しい。
正しいことだって思いたいのに、思えない。
お母さんやおじいちゃん、おばあちゃんがあんなに悲しんでいることを、僕はもう知っていたから……
「そうか……そうだなあ、難しいなあ……でも、間違っているはずがないよ。少なくとも、助けた子どもは感謝してるはずだ」
「何でそう言い切れるの?」
「あの日、君に追いつくまでに、時間が掛かっただろ。実はね、話したんだよ、その子と。わざわざあの子が追いかけてきたんだ」
僕は目を見張った。
「あの子は、事故のことをぼんやりと覚えてたみたいなんだ」
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