うれしかったんだ
嵐は過ぎ去って、台風一過で外は晴れて。台風が来る前よりも暑くなった気がして、台風ってほんとに嫌な奴だって思って。
そうして毎日を過ごしていけば、気づけば、やかましい蝉の声は随分少なくなっていた。
かわりに、夏の終わりを告げるような寂しい虫の声が増えていく。
あの日から、お母さんはずっと優しかった。僕に申し訳ないと思っているようだった。それと、何かをじっと考え込む事が多くなった。
僕は、あれからお兄さんに会いに行っていなかった。
もう、以前のように気軽に遊びに行ける間柄ではなくなってしまったような気がしていた。
お母さんのことを思うと、僕はもう、お兄さんに会わない方がいいのかもしれない、そう思っていた。
僕もお母さんのように、考えないように、思い出さないようにしていれば、心から幸せだと思う日が来るのだろうか。
何かを忘れたいのか、忘れたくないのか、もうわからない。
僕は、あと少しだけ残っている宿題をやろうと思いつつ、何もしない時間をだらだらと過ごしていた。
ドリルのページを開いて、問題を見てはいた。でも、本当にただ見ているだけだった。
何も頭に入ってこないが、形だけ視線を滑らせている。時間だけがのろのろと進んでいた。
どのくらい時間が経った時だろうか。
チリンチリン、と涼しげな音がした。
窓の外から。自転車のベルの音。
控えめに、三回ほど続けて聞こえる。
何かの用があって鳴らされているような。
部屋の窓は、駐輪場に面している。何かあったのだろうか。
僕はカーテンの隙間からそっと外を覗いた。
「あっ……! お兄さん!」
お兄さんが、手を振っている。僕が、大学に置きっぱなしにしていた自転車を持って。
嬉しそうに、にっこり笑った。
随分久しぶりに会ったような気がした。でも、記憶の中と全く変わらない姿に、なぜだか胸をかきむしりたくなるほど、ひどく安堵した。
僕は急いで玄関に向かった。
いつものサンダルを足に引っ掛け、ドアを開ける。
一応振り返って、テレビを見ているお母さんに「ちょっと出かけてくる!」と叫ぶやいなや、僕は走り出した。
もしかしたら、さっきのは、残暑と僕の願望が見せた蜃気楼かもしれない。そんなことを思ったりもしたが、心配する必要はなかった。
駐輪場には、最初にここへ来た時と同じように、少しきちんとした風の服装のお兄さんが立っていた。白いシャツと黒いズボン。
古いアパートの駐輪場には似合わない風貌で、やっぱりどこか現実感がない。
でも、僕はもう、お兄さんがどんな人かってことも、ひとりの人間だってことも、少しは知っている。
「忘れ物を届けにきたんだ」
「ありがとう! 僕、あの、台風とかいろいろあって、行けなくなっちゃって……」
僕はあわてて返事をした。言いたいことがたくさんあるのに、口がうまく回らない。
「気にしないで。むしろいきなり来てごめん。連絡先も知らないものだから」
「いや、毎日暇だから全然大丈夫だよ、」
言ってしまってから、しまった、と思う。
お兄さん、暇ならなんで来なかったんだよって思うかな。今まであんなに暇さえあれば遊びに行ってたのに、不自然だ。
どう話したものかと考えていたが、お兄さんが先に、実は、と話を続けた。
「ちょっと、話したいことがあったから」
お兄さんは話を続けようとしたが、その時、遠くから何人分かの話し声が聞こえてきた。誰かがアパート前の坂を上ってきたようだ。
僕はお母さんの言葉を思い出した。僕は慌てて自転車を置いて、お兄さんを引っ張った。駐輪場から、アパートの裏にまわる。
「どうかした?」
お兄さんが空気を読んで、小声で聞いた。
「ちょっとね……よし、いなくなった。もう大丈夫だ」
アパート裏は日当たりが悪く、いつもじめじめしている上に、気持ち悪い草や虫がなぜか多い。用がなくなればできるだけ長居はしたくないので、すぐに駐輪場に戻る。
「もしかして……俺が……」
お兄さんが何かを言いかけた時、今度は上の方から声がした。
「どこ行くの?」
急いで上を見上げると、お母さんの首から上が窓からにょっきり出てきていた。不思議そうな顔をしている。
僕から目線を外すと、驚いたように目を見開いた。
そして、戸惑ったような、悲しいような、複雑な表情をした。傷ついた表情、とも言えそうだった。
僕の後からは、お兄さんも駐輪場に戻ってきていた。
お兄さんはお母さんの顔を見て、どうしよう、と戸惑ったような顔を一瞬だけ浮かべた。
しかしその後すぐ、何かを決心したかのように口を引き結んだ。そして頭を下げる。
お母さんは、カーテンを指でぎゅっと握っているようだった。
お兄さんに軽く会釈すると、再び僕の方へ向く。そして、入口の方に向けて目配せをした。
僕は、直感的に理解した。これは、お兄さんを家に連れて来いと言っているんだ。
もしかしたら都合の良い解釈かもしれなかった。
でも、きっとお母さんだって、お兄さんと話してみたいと思っているんじゃないかな。
お兄さんは恐縮しながら家に上がった。
お母さんとお兄さんは、四人掛けのダイニングテーブルに向かい合って座った。今回は僕も、お母さんの隣に座った。
お母さんは、よく冷えた麦茶を三人分出してくれた。僕はそれをちびちびと飲んだ。
「この前は、突然の訪問を、すみませんでした。ずっと、もう一度ご挨拶にうかがわなければと思っていたのですが、こんなに遅くなってしまって……そればかりか、自分の身勝手な行動で、お二人を傷つけてしまって、申し訳ありません」
最初の訪問だけでなく、助けた子どもに会いに行ったこともお兄さんは気にしているのだと、僕にはわかった。
「やめてよ! お兄さんは何も悪くないんだって! 全部僕が、一緒にやろうって言ったから……」
僕はお母さんを上目使いで見る。
雨に濡れた子犬のような目、というわけにはいかないが、健気な可愛い息子ですよ、怒らないでください、という感じは出そうと頑張った。
すると、お母さんは笑った、穏やかに。お兄さんは驚いていた。
「息子がお世話になったようで、ありがとうございました。この子、そんなに友達が多くないからちょっと心配していたんだけど、あなたに遊んでもらえて、毎日すごく楽しそうでした」
まるで僕が子どもみたいな言い方はどうかと思った。事実、子どもだけれど。
さらに、友人が少ないと思われていたことも心外だった。そうでもないのに。
でも、お母さんが、僕の心配をしているなんて思っていなかったから、少し驚いた。
お兄さんは恐縮して頭を下げた後、僕の方を見て笑った。
「お礼を言わないといけないのは俺の方です。短い間だったけど、本当に楽しかった……」
お兄さんは僕に、ありがとう、と言った。
「自分の出生のことを知ってからずっと、自分は一体誰なのか、そればかり考えていて……自分の中に流れる知らない人の血が、怖くて仕方なかった。今まで自分が人生でしてきた選択が、もしかしたら全部誰かの遺伝子にさせられたものなんじゃないか、って思って。今までの自分が、全部消えてなくなってしまうような、まったく別の人間に変わってしまったような、そんな気がしてました」
お母さんは、お兄さんの話に真剣に耳を傾けているようだった。
お兄さんの話を、ちゃんと聞きたいと思っていることが、よく分かった。
苦しい話を聞いているはずなのに、僕はそれを見ていて、心の中がぽかぽかするようだった。
「僕がこうして悩んでいること自体、周りの人には理解してもらえなかったんです。出生の時のことなんかで、今更そこまで悩む必要ないのに、って。いろんな人に言われました」
お母さんは、躊躇いがちに、静かに聞いた。
「ここに来たことを、ご両親には……?」
「……何十年もうちで育ったんだから、お前は本当の息子なのに。そんなこと調べて何になるんだ、って言われました」
お兄さんは、ははは、と乾いた笑いを溢した。
痛々しい笑顔だった。
かなしい。お兄さんも、お兄さんの家族も、どっちもうまくわかりあえなくて、かなしい。
「でも俺は、今までの家族の思い出とか、そういうの、全部嘘だったんだって思ったんです……だって、両親は、俺が精子提供で生まれたことをずっと隠してた。ただの不妊『治療』だと思ってるなら、そんなことしない。俺は、親が恥ずかしいと思うような方法で生まれてきたんです」
諦めたように話すお兄さんに、僕は、そんなことないよって言いたかった。
生まれてくることに、恥ずかしいとかないよ。
でも、僕がそんなこと言っていいのかな。わからないよ。
大事だと思えば思うほど、僕は何にも言えなくなってしまうよ。もう誰も傷つけたくなんかない。
でも、お兄さんは、しっかりと僕の目を見た。
彼のこわばった表情が、一瞬で、爽やかな風を受けた瞬間のように緩む。
「……でも君は、俺のことを、まるで本当の兄弟みたいに、真っ直ぐに慕ってくれた。それが本当に嬉しかった。自分のことすら何も見えない、暗闇の中を歩き続けていた俺のことを、わかってもらえたような気がして……」
僕だって。
僕がどれだけ、本当に楽しかったんだと言いたかったか。
それなのに、照れくさくて、恥ずかしくて、目を逸らしてしまった。
だって本当に、うれしかったんだ。
お兄さんの力になれたこと。お兄さんのこと、本当の兄弟みたいに思っていたのを、ちゃんと分かってくれてたこと。
「それでようやく、分かったんです。俺はただ、こうやって生まれて、こうやって悩みながら生きてきたんだってことを、誰かに受け入れてほしかったのかもしれない。それで、ありのままの自分のことを、俺自身が、受け入れたかったんだ」
お兄さんは控えめに笑ってみせた。
もうその笑顔は、痛々しくも、無理をしていそうでもない。
寂しそうだけど、どこかすっきりとした、晴れやかな笑顔だった。
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