あの人は、
「あの人よ……うちに前来た……お父さんがどうとか言ってた」
お母さんは、彼のことをお兄さん、とは呼ばない。当然だけど。
「知ってたんだ、ていうか、何で? どういうこと?」
「叔父さんが教えてくれたのよ、秘密にしてって言われたけど、心配だから一応って。でも悪い人じゃなさそうだし、あんたが気に入ってるみたいだから、好きにさせたらどうかって言われて……たしかに最近いつもより楽しそうだから、何も言わなかったけど」
やっぱり叔父さんだったか。
秘密にしてと言ったことが全部知られていたと思うと、どこか気まずいというか、むっとしてしまう。
でも、今までやめろと言わなかったのなら、このまま公然の秘密という形でよかったじゃないか。
問題は、なぜ急に沈黙を破ったか、である。
「……何で急に、会うなって言うの?」
お母さんは、僕から少し目をそらして答えた。
「最近、ずっと落ち込んでるじゃない……その人に、何か嫌なことでも言われたんじゃないの」
「違うよ!」
そんなんじゃない、僕はお母さんに詰め寄った。
「お兄さんは優しいよ! 嫌なことなんて一回も言われたことない! お兄さんは関係ないよ!」
お兄さん、とお母さんは小さな声で呟く。
「じゃあ何で落ち込んでたのよ。悲壮な顔してたわよ、毎日」
「それは別に、僕の問題だし……とにかくお兄さんは関係ない。お母さんだって、帰って来てから変な顔してるじゃん」
「変って何よ……あのねえ、」
もう仕方ないから言うけど、と眉間にしわを寄せながら前置きをする。
「この前、たまたま……っていうか、待ち構えられてたと思うけど、近所の人たちに話しかけられて。高橋君のお母さんとかだけど」
夏休みに一度遊んだ子の、お母さんだ。
高橋君とはそんなに仲が良いってわけじゃないけど、家が近いから、まあまあの友達だ。
「最近、息子さんが、若い男の人と遊んでるのをどこどこで見た人がいるんだけど、って……子どもたちが、異母兄弟だって言ってるけど本当かって」
いかにも心配している、という風を装って、気になって仕方ないという野次馬根性に目を輝かせて。
そういう人が多いから、近所の人づきあいが苦手だってお母さんは言ってたっけ。僕だって別に、好きではない。
でも、それがなんだというのだろう。確かに、不快ではあるが、決して居心地よくはないが、どうってことない。
そういう人間はクラスでも、習い事でも、どこにでもいる。気にする必要なんてない。
秘密にしろよ、って言ったのに誰も秘密にしてくれないことなんて、もうどうでもいい。
だってよく考えたら、知られたらまずいことなんて僕は何もしていない。
「そんなの、言わせておけばいいじゃん。事実なんだし、そうですよって言えばいいじゃん。そんなことのせいで、お兄さんに会わないとか、ありえないよ」
口を尖らせた僕に、お母さんは頭を抱えた。
苛立ったように、そうじゃなくて、と続けた。
「そんな簡単な話じゃないのよ。変な噂を立てられたりするかもしれないでしょ」
「噂って、何それ。悪いことなんて何もしてないのに。そんなの、知らないよ」
苛立ちを隠そうとして、顔を引きつらせながら、言い聞かせるようにお母さんが言う。
「あのね……異母兄弟がいきなり現れたなんて聞いたら、普通は、離婚だとか、もっと嫌なことには不倫だとかそういう……お父さんの名誉を傷つけるような、恥ずかしいことだって思う人もいるのよ、中には。精子提供なんて、説明されたってそんなの皆知らないんだから。私だって、よく分からないのに」
「何だよ。そんな、人の目なんか気にして、お兄さんに会うなっていうの? そんなのひどいよ。第一、お兄さんも、お父さんも、恥ずかしいと思われるようなことなんて、何もしてない」
「それは私だって分かってる。でも、そういう人がいる以上、仕方ないじゃない。あんただってクラスで何か言われたら嫌でしょ? ただでさえ父親がいないって、偏見持ってる人だっているのに……その上精子提供だなんて……」
「そんなのおかしいよ!」
おかしい、絶対おかしい。間違ってる、と思う。
でも、上手く言えなくて歯がゆい。間違いなく、絶対おかしいのに。
「そんな、そんなのって、ないよ。だって、お父さんが精子提供したから、お兄さんは生まれて来れたんだよ。それって、良いことでしょ?」
そうよ、と俯きながらお母さんが言う。
「そもそもそれが……おかしいのよ」
「なんで?」
「だってそうでしょ。どうして知らない人の遺伝子を使ってまで、子どもを産むのよ。お父さんは結婚してたのに。ちゃんと子どもがひとり、ここにいるじゃない」
「それは、僕が生まれるより前の、大学生の時に先生に頼まれたからだって、」
「じゃあ結婚した時に、私に言うべきでしょ。何で言わなかったのかしら。後ろめたかったんじゃないの?」
「そんなこと……」
「そんなこと、あるわよ。だいたい、何も知らないのに、あの人が家に来て、私がどれだけ驚いたか。おまけに、あんたをそそのかして連れまわして、人の家族のことを嗅ぎまわって……おかげで、近所では変な目で見られて、恥ずかしいったらない。非常識にも程がある」
「お兄さんのこと、悪く言わないでよ!」僕は叫んだ。
「悪いのは、お父さんよ!」お母さんも負けじと大声で言った。心臓が、止まりそうだ。
「いつも勝手なことばっかりして、調子が良くて、尻拭いをするのはいつも私。でも大事なことは何一つ話してくれなかった。私の言うことなんて、何一つ聞いてくれなかった。あの事故だって……小さい子どもを助けていなくなるなんて……もっと小さい、自分の子どもがいたのに……何が英雄よ。何が命の恩人よ。私たちを不幸にしておいて、そんな肩書なんの役にも立たないじゃない。そのうえ、他に子どもがいるなんて……」
お母さんは顔を覆った。肩が震えている。
「お父さん、間違ってたの?」
思った以上に、迷子のような情けない声が出た。
「分からない……正しいことをしたって、思いたいけど……」
お母さんの声も、同じように震えている。
僕は、お父さんが助けた子どものことを思い出した。
感謝されている、とは思えなかった。むしろ、傷つけられたと、忘れたいとすら思われている。
そんな人たちを、自分の命も、お母さんや僕やみんなの幸せも犠牲にしてまで、助けた意味ってあるの?
浮かび上がった意地悪な考えを、頭を振って追い出そうとする。
それでも、確かに僕の中には、認めたくない感情が燻っている。
心を囚われたくはない。祖父母二人の小さい背中が思い浮かぶ。誰かを憎むなんて、怒るなんて。そう思っても、一度見えてしまったら、もう無視はできない。
「あの人が家に来た時、言ってた。自分の父親が誰なのか、本当は分からないって聞いた時、本当に怖かったって。今までの自分が無くなっちゃったみたいな気がしたって。だからどうしても、本当の父親がどんな人だったのか知らないと、生きていけないって。精子提供なんてしなければ、あの人はあんなに苦しまなかったのかも……」
でも、お父さんが精子提供をしなければ、お兄さんは生まれて来なかったのに。
僕はそう言い返そうとして、愕然とした。
お兄さんは……お兄さんは、それでも生まれてきて良かったんだって、そう思っているだろうか。
こんな風に生まれてきたくなかったって、本当は思ってるかもしれない。
絶望的な気持ちになった。
お父さんのせいで、お兄さんはあんなに苦しんでいるの?
いつかたくさんの人を傷つけるかもしれないとわかっていてしたことなの?
どうして、誰にも何も話してくれなかったの?
どこかで生きているかもしれない自分の子どものこと、少しも思い出さなかった?
精子提供も、子どもを助けて死んだことも、全部全部、余計なことだった?
認めたくなかった。認めたら、終わりだと思ってた。
「お父さんのこと、みんな……」
嫌いなの。憎んでるの。続きの言葉は続かなかった。
代わりに、僕は、お父さんが助けた子どもの様子を見に行った話をした。
お兄さんが、住所を調べて、一緒に行ってくれた。
その子のお母さんは、僕を見て、それで……
その先は、また言えなくなってしまった。目をぎゅっとつぶるけど、隙間からどんどん涙があふれ出てくる。
鼻をすする僕を見て、何が起きたか察したのだろう。
お母さんは「そんなことまでしてたのね」と、驚いたように、でもすごく寂しそうにそう言った。
「お父さんのせいじゃないのよ。せっかく助けたのに、恨まれちゃったのは……おじいちゃんとおばあちゃん、いつもお仏壇とか、お墓の前で、いろいろ言ってるでしょ。お葬式のときもね、助けた子とそのご両親に、二人ともすごく怒って……大事な一人息子で、しかもあなたが生まれたばかりだったから、余計に悔しかったんだと思う。正直、私だって……」
僕は、あの背中を思い出す。
僕にとって、誰かを憎むこととは、ふたりのあの後ろ姿のことだ。
優しいおじいちゃんやおばあちゃんを変えてしまう、憎しみが、僕は怖い。
それ以上に、僕の中に、誰かを憎む心があることが、それが僕を変えようとしていることが、ずっとずっと怖かった。
「親御さんたち、子どもにまで土下座させて、すみませんすみませんって、ずっと謝ってた。感謝の気持ちよりも、申し訳ないって罪悪感に押しつぶされそうになってたみたいだった」
あの場にいた人はみんな、傷ついてたのよ。
お母さんは、小さく呟いた。
「でもね、子どもが助かって良かったって気持ちも、本当に、たしかにあったのよ。私にも、おじいちゃんにも、おばあちゃんにも。あの時、私がちゃんと、そう言えてたら、何かが違ったのかなって、今は思う……」
ぼんやりと、焦点の合わない目。
僕は、その中に、お母さんの絶望を見た。
「でもその時は、何も考えられなかった。まだ小さい赤ちゃんを抱えて、ひとりっきりになった。早く寝たい、寝て起きたら全部夢になっててほしいって。ずっとそんなことばかり考えてた」
どこかで、子どもの泣き声が聞こえた気がした。
あれは僕だろうか。それとも、お母さんの心の中の、傷口から聞こえる声なのかもしれない。
「寂しかった。悲しかった。周りの幸せそうな親子連れが、羨ましかった。助かった子の家族のことも、うらやましくて……」
ひとりぼっちで泣いているお母さんのことを思って、僕も苦しかった。
悲しくって辛くって、息ができない。
「私、お父さんのこと、大好きだった。今でもずっと、大好きよ。忘れたことなんて、一度もない。だから本当は、お父さんのしてきたこと、否定なんてしたくない……」
その言葉は、ほんの少しだけ、僕の心にあたたかな火をともしてくれた。
あたたかくて、かなしい火だ。
でも、そうなんだ。お母さんは、お父さんのこと、大好きなんだ。きっとそれだけで、僕は本当に嬉しかったから。
「でもお父さんがいなくなってしまったら、一人で何でもやるしかなくて。いろんなことを考えないようにして、思い出さないようにしないと、頑張れなかった。二人だけでも幸せになれるように、ずっと、がむしゃらに頑張ってきたつもり」
知っていた。お母さんが僕のために、身を粉にして働き続けてくれていたこと。
でも、見ないふりをしていた。他の家と比べてどうだとか、そんなことばかり気にして。
僕はどこまでも、ただただ、甘えてばかりの子どもだったんだ。
「そうしたら、二人で静かに、穏やかに、生きていけた。ああ今幸せだって、心からそう思うようになったのに。それなのに、いきなりあの人が来て、勝手にいろんなことに向き合わされた。ただ提供しただけで、息子なんかじゃないってことくらい、分かってたのに……どうして……どうして、あんなに似てるのよ……」
気付けば、お母さんは泣いていた。
大粒の涙が溢れて、頬に線になって流れ落ちていく。
お母さんは僕の前で泣いたことが無くて、だから涙が枯れているのかも、なんて思っていた僕はばかだ。
僕は今まで、お母さんの気持ちを考えていたようで、本当の意味で思いやったことなどなかったんだと、ようやく気付いた。
お兄さんに会うことで、お母さんのことを傷つけていた。
お母さんが、お父さんに、そしてお兄さんに持つ強い思いに僕は気付こうともしなかった。
今の僕が何を言っても、お母さんを傷つけてしまいそうだった。
胸が苦しくて、息が止まってしまったようだった。
お母さんは、誰かに言い聞かせるように言った。
僕にか、自分自身にか。
「あの人は、あんたの兄弟なんかじゃないの」
そんなの、わかってる。最初から、分かってたよ。
「あの人は、お父さんじゃない」
そんなこと、わかってたはずだった。
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