ファンタジーの世界
行きは長く感じた道も、ひとりで歩いていたら、いつの間にか駅に着いていた。
地図がなくても、なぜか少しも迷わなかった。
駅前の古びたベンチに座る。硬くて、お尻が痛い。
何も考えたいと思えなくて、ぼうっとコンクリートの地面に這う蟻を眺めた。
どのくらい座っていただろうか。
お兄さんは息を切らせて走ってくると、僕を見つけた。
「良かった……もう帰っちゃったかと……走るの、速いなあ……」
お兄さんは少し笑って僕を見る。
僕は上手く笑い返せただろうか。お兄さんがすぐに悲し気に眉を下げたので、多分失敗したのだろう。
僕とお兄さんは黙って電車に乗った。
途中、お兄さんは何度か僕に話しかけようとしていたようだったけれど、僕は寝たふりをした。
電車のイスはベンチよりもふかふかで、さらに線路を走る揺れもどこか心地よくて、気づけば本当に寝てしまっていた。
何も考えずに済んで、ちょうど良かったのかもしれない。
お兄さんに起こされ、驚いた。随分長く寝たんじゃないかと思って、遠くに来てしまったと思ったけど、時間にすれば数十分だったらしい。
お兄さんは大学の最寄り駅で先に降りた。
僕の家はその数駅先だ。お兄さんは心配して家まで送っていくと行ったけど、僕は丁重にお断りした。
今はひとりになりたかった。
お兄さんも、その気持ちに気付いていたのか、それ以上は何も言わない。
お兄さんは先に駅に降りると、ホームから僕を見送った。
彼は寂しそうな顔をしていて、僕はやっと、自分の不機嫌にお兄さんを付き合わせてしまったことを申し訳なく思った。
お兄さんは僕のお願いを聞いてわざわざ連れて行ってくれたのに。ショックを受けた僕に代わって、ちゃんと怒ってくれたのに。
あんなことになってしまって、お礼を言うどころか当てつけみたいに黙り込んで。
お兄さんはがっかりしただろうな。
そう思うと涙がにじみそうになった。自己嫌悪でいっぱいになる。
それと同時に、お兄さんがあんなところに連れて行ってくれなかったらよかったのにと、見当違いに腹を立てる気持ちもあった。
最寄り駅で降りて、さびれた駅前に立ったときに、ふと自転車を大学に置いてきたことを思い出した。仕方ないので歩く。
自転車は、次会うときに持って帰ろう。その時に、今日のことは謝ろう。だから、今日のところは勘弁してほしい、と思う。
お兄さんならきっと、許してくれるはずだ。
僕は、お兄さんが好きだった。嫌われたくなかった。
でもすぐに謝りに行かなかったのは、きっと随分お兄さんに甘えていたからだった。
僕はそれからしばらく、お兄さんのところに遊びに行くことはできなかった。
気まずかったからではない、もちろん。
次の日から、雨が降り出したからだ。
なんだか急に天気が悪い日が続くなと思っていたら、台風が来ていたようだ。
しとしと雨が一瞬止んだと思ったら、窓ガラスが割れそうなほどの強い風と雨。家ががたがた揺れた。
どこにも遊びに行けないので、窓をぴっちりと閉めて家に独りぼっちでいた。
さすがのお母さんも、窓を開けられたり外に出ていかれたら困るからだろう、エアコンをつけて仕事に行った。こんな天気なのに、と文句を言いながら家を出ていく。
快適なはずなのに、暇だとずっと考え事をしてしまう。
一人でいると、誰も止めてくれないし、言い返してはくれない。
同じことを繰り返し繰り返し、考えた。
お父さんが生きていたこと。いなくなったこと。事故のこと。
お父さんの犠牲は無駄だったのか。
意味がなかったのか。
ほめられるべきことじゃないのか。
考えてはいけないと、考えたら終わりだと思っていたけど、想像してしまう。
もし、お父さんがあの子を助けなかったら。
あのお姉さんがいなくなって、その家族がとても悲しむ。
代わりに今頃、お父さんが僕とお母さんの横で笑っていたりしたのだろうか。
一緒にご飯を食べたり、お風呂に入ったり。
夏休みには、毎年決まって映画を見に行く。
運動会で走る僕を応援してくれる。
回転寿司で魚を食べずに、納豆やコーンや焼き肉のお寿司ばかり食べる僕を笑う。
一緒にテレビを見て手を叩いて笑う。
ふたりぶんの記憶しかないそこに、お父さんがいたら。
想像しても、それはまるでファンタジーの世界だ。それが、あったかもしれない未来だとすら思えないことが、無性に悲しかった。
だって、覚えている限りずっと家族はふたりだけだったんだから。
でも、それでも考えてしまう。叶わない夢に手を伸ばし続けてしまう。
伸ばし続けている間は幸せだ。ずっと夢をみているようなものだから。
でも、一度、現実に戻ってしまうと。
例えば、突然家の外で、風で何かが倒れる大きな音がした時。つけっぱなしにしていたワイドショーが古い無名の映画になって、耳がキンキンするような悲鳴が聞こえた時。
はっとする。想像との落差にがっくり来てしまう。
静かな部屋。冷たい部屋。手に入らないものをねだる子どもじみた幻想に嫌気がさす。
だからもう夢を見ないで現実にいるか、それとも夢から醒めないようにずっと想像し続けるか、どっちかしかない。僕は、想像し続けることを選んでしまう。
僕はお父さんの姿を知らないので、いつも想像するときは、自然とお兄さんの姿を思い浮かべた。それはお父さんなのか、お兄さんなのか、もう区別ができなくなった。
大きな音で雷が鳴る。電気が一瞬だけ消えて、すぐに元の白い光に戻った。
仕事から帰って来たお母さんは、僕に負けず劣らずの悲壮な顔をしていた。
びしょびしょの濡れ鼠。すぐにシャワーを浴びに行っていた。
仕事が終わると、お母さんはいつもほっとしたように、機嫌が良くなる。
だが、今日は未だ難しい顔をしている。よほど台風が応えたのだろうか。
手を洗ったり着替えたりして一息つくと、じっと僕を見ている。
もしかして、と思う。僕に、何か言いたいことがある。でも、僕は何も悪いことはしていない……はずだ。
「何?」
僕は思い切って自分から尋ねた。
「あんたさあ……」
お母さんは言いよどむ。
「何かあったの」
僕は話を促す。なんだか嫌な予感がする。でも聞かずにはいられない。
「もう、あの人に会うのやめなさい」
「あの人って?」
声がかすむ。口の中がカラカラに乾いていることに気付いた。あの人って、たぶん一人しかいない。
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