命の恩人

 大学の最寄りの駅から十分ほど電車に乗って、別の電車にに乗り換えた。

 その路線にはほとんど乗ったことがなかったので、どこか新鮮だった。

 古い車両の中は、ゆったりしていて、穏やかな雰囲気だ。活気が無い、ともいえるか。


「三十分も乗ればじきに着くよ。問題は、この広い住宅街の中から、目的の家が見つかるかどうか……」

 お兄さんは地図に目を落とす。

「全く土地勘がないからなあ。君はどう?」

「僕も、この辺には来たこと無いと思うけど……」

 でも覚えていないだけで、昔はあったのかもしれない。

 もしかしたら、僕とお母さんとお父さんと三人で、この電車に乗ったこともあったのかもしれない。

 僕は、正面に座っている家族連れに目をやった。

 ベビーカーから覗くむっちりとした小さな手。母親が笑いかけている。隣にいる父親は、子どもに何か話しかけている。

 もしかしたら、僕も……隣に座るお兄さんの横顔にも、目をやった。

 ちょうどそこで、揃いのユニフォームを着た中学生くらいの人が大勢乗りこんできた。にわかに車内は騒がしくなる。

 僕もお兄さんも大きな声を出さないと会話が聞こえなくなったので、少しの間、沈黙。



 間もなく目的の駅に着いた。

 改札の外には駅ビルもなく、小さなバスロータリーがあるのみ。閑静な住宅街が広がっているようだ。

 お兄さんと僕は連れだって歩き出した。

「僕の家の近くに似てる。田舎だ」

「そうでもないよ。田舎っていうのは、もっとこう……」

 午後の日差しは斜めから顔を照らすので、とても眩しい。太陽と距離が近くなったような気がして、いつもより暑く感じる。

 途中、木々が生い茂る公園を抜けた。葉っぱでできた日陰が多くて少しほっとする。

 アブラゼミよりももう、ひぐらしの声がよく聞こえた。

「何か寂しい感じの鳴き声だよね、このセミ」

「夏休みも終わりって感じ。あー、もっと遊べばよかった。僕、一体何してたんだろう」

 僕がそう愚痴ると、「夏休みって、だいたいそんな感じだよな」とお兄さんは頷いた。

「お兄さんは、夏休みやり残したことないの?」

「んー……本当は、留学に行こうと思ってたんだけど、行けなかったな」

「え、すごい! 何で行かなかったの?」

「……今はまだ、時期じゃないかな、と思って」

「どういうこと?」

「……俺がいなくなったら、崩れそうな感じがしてさ。家の雰囲気が」

「それって……」

 躊躇いがちに聞くと、お兄さんは小さく笑った。無理しているような、寂しそうな笑顔だった。

「両親ともずっと、申し訳ない、って顔してるんだよ。二人とも、精子提供を受けて俺を生んだことに、後ろめたさを感じてる。もし俺が留学に行くなんて言ったら、もう親だと思われてないんじゃないか、縁を切りたいんじゃないか、なんて気に病んじゃいそうでさ」

「そうなんだ……」

 僕は何を言ったものかと迷っているうちに、お兄さんは唐突に話を変えてしまった。

「まあ、俺は九月も夏休みだから。まだ時間はあるんだけどな」

「えー! ずるい!」

 僕の頭はすぐに切り替わった。

 そうだ、僕の夏休みはもうすぐ終わる。夏休みが終わったら、もうお兄さんとはこんな風に遊べなくなるのだろうか。

 今まで、まったく考えていなかった。

 けれど、お兄さんが、まだ夏休みなら。

 もしかしたらだけど、いや、もちろんそんなことないと思ってるけど。もしかしたら、お兄さんは九月もまた、一緒に遊んでくれるかもしれない。そういうことも、あるかもしれない。

 かといって、お兄さんにはできもしない社交辞令の約束はして欲しくなかった。

 僕だけが真に受けて連絡を待ち続ける、なんてごめんだ。

 お兄さんは大人だから、子どもの僕と遊んでる暇なんてないかもしれない、僕は自分にそう言い聞かせた。だからもし、会えなくなっても、がっかりするな。もちろん、悲しいとは思うけれど……


 僕の沈黙を、暑さで参っていると勘違いしたのか、お兄さんが心配そうにこちらを見る。

「体調悪い? 少し休む?」

「いやいや、ぜんっぜん元気だよ……ちょっと暑くて」

「うん、暑いなあ。でもそろそろのはず……お、このあたりか」

 地図から顔を上げると、二人で同時に声が上がった。

「うわあ」

「嘘だあ」

 到着を喜んだのは一瞬。同じような形の家がわんさか密集している。見たところ、住宅街はかなり広そうだった。

「これはなかなか難しそう……」

「表札で絞れるかなあ」

 とにかく僕とお兄さんは、住宅街を見て回ることにした。

 日差しがきつくなってきたからか、外にいる人は少ない。

 すれ違ったわずかな住人はたいてい、歩いている僕らにちらりと目を向けてくるので、ちょっと気まずい。目を合わせないように歩いた。

 家や表札をじろじろ見るのも不審なので、僕らはさながらスパイのように目当ての家をこそこそと探した。


 表札の苗字から絞り込み、候補の家がまずひとつ見つかった。

 家の前に小さな子ども用の三輪車がある家だ。キャラクター柄のバケツにスコップ、小さなビニールプールが干してある。

「一見、中学生がいそうには見えないけど、何とも言えないな。妹か弟がいるならあるいは……」

 お兄さんが呟く。まるで探偵のようで、様になっている。

 数件先にもうひとつ。さっきの家とは外壁の色が違うけれど、形はよく似ていた。

 さっきの家と違って、外に物はほとんど置かれていない。白い外壁に、花壇に咲く僕の背丈ほどもあるヒマワリがよく映えていた。

「ここも何とも言えないね」

 表札を見ながら、お兄さんの真似をしてそういうと、突然キキッという高音がすぐ近くで鳴った。

 自転車に乗った女の人。

 さっきのはブレーキ音だったのだろう。制服を着ているので中学生か、高校生か。どっちかはよく分からないが、僕からすれば女の子というよりはお姉さんって感じに見える。

 自転車の速度を落として、すぐ近くに止まった。

「何かご用ですか?」

 無愛想に聞かれた。僕らをじっと見ている。

 顔は全く笑っていない。僕らを見つめる瞳からは感情がまったく読み取れないが、目力が強くて意志の強そうな雰囲気があった。

 彼女が警戒しているから、余計にそう感じるのかもしれない。

 僕は慌てた。不審者だと思われて警察が来てしまうかも……

 なんでもないです、と言おうとした僕を押しとどめ、お兄さんは目配せをする。

「ちょっと知人の家を探してるんですが……」

 お兄さんがそう言うと、お姉さんは彼の顔をますます見つめている。

 まさか嘘でも見抜こうとしているのだろうか……はらはらしながら見守っていると、女の人が唐突に言った。

「私、あなたに会ったことありますか?」

 えっ、とお兄さんは戸惑ったようにお姉さんの顔を見た。

「いや、ないと思うけど……」


 その時、僕らが立っている家の玄関から、ふっとおばさんが顔を覗かせた。僕らの声が聞こえたのだろうか。

 何事かという顔で外に出てくると、何かに気付いたのかはっとした顔になる。

「早く家に入って!」

 おばさんが駆け寄ると、お姉さんを家の方に引っ張った。

「ちょっと何、急に、まだ自転車が……」

「いいから!」

 お姉さんはおばさんの気迫に押されて、自転車を玄関前に置く。僕らを気にしているのかちらちらと振り返りながら、家に入って行った。

 もしかして、今のが……そう思って後ろ姿を追う僕の視界をふさぐように、おばさんが立ちはだかった。


「……あの事故の、親戚の方ですよね」

 驚いて、おばさんの顔を見上げた。

 僕より少し背が高い。意志の強い、しっかりしているように見える雰囲気が、さっきのお姉さんによく似ている。

 年齢からみても、さっきの人のお母さんと見て間違いないだろう。  

 あの事故、といった。お兄さんの顔を見て。やっぱり本当に……

 僕は嬉しくなった。話しかけてみようとして、


「今更、何のご用ですか?」


 ぞっとするほど冷たく、とげのある声。

 戸惑った。

 この人は今、何と言ったのだろう?

「お金なら払いました。謝罪もしました。もう十年以上も前のことです」

 言葉を失った。

 言葉はちゃんと聞こえているのに、意味が分からなかった。

 耳は正常だけど、思考と感情が上手く働かない。

 何も返事ができない。返す言葉がなかった。


「そんな言い方はないでしょう」

 ぼうっと立つ僕の代わりにお兄さんが返事をしたらしい。

 お兄さんの、怒ったような言葉が聞こえる。すぐそばにいるのに、どこか遠くの国から言っているような気がした。

「こんな、いきなり来られても困るって言ってるんですよ。どうせ、人殺しだとか、忘れるなんて許さないとか、そういうことを言いに来たんでしょう。前もそうだったものね」

 僕はようやく気付いた。

 この人は、僕たちを歓迎していない。

 いや、むしろ、憎まれている。

 そうだったんだ。知らなかった。

 お兄さんはショックを受けたように一瞬言葉を詰まらせた。

 それでも、すぐにお兄さんは言い返した。

「謝ってほしいとか、感謝して欲しいとか、そんなこと少しも思っていません。この子は、自分の父親が命を張って助けた子どもがどうしているか、知りたかっただけなんです。そんな風に思ったら、いけませんか? この子には、その権利がある。貴方たちにとってあの人は、命の恩人じゃないんですか!」

「そんなこと分かってます!」

 お兄さんの言葉に被せるように、悲鳴のような声があがった。


「あの方のおかげで助かったって、命を救われたってことを、忘れたことなんてありません! でも、今はもう、あの子は何も覚えていないんです!」

 おばさんは、堰を切ったようにわっと話し出した。

「あの子は小さい時、罪悪感で死んでしまいそうでした……私を助けておにいさんが怪我しちゃったって、毎晩泣いていたんですよ! 事故の恐怖からも回復していないのに、それをあなたたちが、あんな小さい子どもや私たちを責め立てて……ようやく、何もかも忘れて、幸せに生きられるようになったんです!」

 おばさんの目には涙が浮かんでいた。僕は動揺する。

 そこで初めて、僕の存在に気付いたように、おばさんはこちらを見た。

 目が合う。わずかに見開かれ、悲し気に歪む。

「申し訳ないって思ってます……私も夫も、ずっとそう思っています……代わりにいくらでも私が謝りますから、だから、あの子にはもう何も思い出させないで、お願いします……もうこれ以上、あの子を傷つけないで……」

 体を震わせながら、何十歳も年下の僕らに頭を下げる。見ていられない。

 ただただ、悲しかった。


「突然、すみませんでした……」

 随分小さくて弱い、へろへろな声しか出てこなかった。それを恥ずかしいと思う余裕もなく、僕は背を向けた。

 一刻も早く、この場を立ち去りたかった。

 もう、あんな言葉も、あんな姿も、絶対に見たくも聞きたくもなかった。

 僕はゆっくり歩きだした。

 走ろうと思ったけれど、足が鉛のように重くて持ち上がらない。早くこの場を離れたいと思ったけど、体はついてこなくて、のろのろとしか動かない。

 まあ、別に。もうどうでもいい、と思う。

 後ろの方で、お兄さんの話し声がした。

 途切れ途切れの言葉が、風に乗って流れてくる。

「忘れることが良いことなのか、僕には分かりません。だって、どれだけ親が隠そうとしても、子どもは結局、何かがおかしい、何か隠されていると、気付いてしまうと思うから……」

 僕は耳を塞いだ。

 もう何も聞きたくない。何も見たくない。何も。何も。

 僕は走った。走って走って、今日のことが全部無かったことになればいいのにと、本気で思った。

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