生きていた証ってやつ

 その後、僕は好奇心に負けた。お母さんが風呂に入っている時にこっそり、手紙を盗み見たのだ。

 狭い家なので、隠し場所はすぐにわかった。キッチンの食器棚の引き出しだ。

 手紙には、どれも「おめでとう」や「ありがとう」といった言葉がいっぱい書いてあった。「愛してる」なんて言葉を見かけてぎょっとして、手紙を慌てて閉じた。

 今さらになって、ようやく僕は気付いた。これ、今の時代には珍しい、いわゆるラブレターってやつだ。お父さんが、お母さんに書いたのか。

 思わず顔が赤くなる。急いで元の通りに棚に戻す。申し訳ないことをした。というか、正直気まずい。


 手紙はもう見なかったことにして、記憶からもいっさい消すことにして。僕は再び、引き出しにあった遺品を探索し出した。

 すると、一通だけ、さっきの手紙たちとは別のファイルに挟んで保存してある手紙を見つけた。

「この手紙は見ていいやつ?」

 ちょうどお風呂から上がったお母さんに、ちゃんとお伺いを立てると、何とも言えない複雑そうな顔をされた。

「見ちゃダメなやつ?」

「うーん……」

 お母さんは言いよどむばかりで、さっきのように強く止めはしない。

 話すか迷っているのか、何かを言おうとしてやめるように口をはくはくと動かす。

 言葉にならない息を何度か吐いてから、いつもと同じ声色で話し出した。


「それは、お父さんが助けた子の家族から来た手紙よ」

「そうなんだ!」

 お母さんは、手紙をしげしげと眺める僕を見て、少し安心したように見えた。

 そしておもむろに「お父さんは立派よ」と言った。僕もそう思った。

 なにしろ、人ひとり、それも子どもの命を救ったのだ。普通はできることじゃない。

 おばあちゃんたちはその子どもたちを恨んでいたのかもしれないが、僕は不思議と、そんな感情を抱いたことはなかった。

 お父さんの行動は、ヒーローみたいですごいと尊敬してすらいた。

 でも、お父さんの話を聞いて、遺品を見て、お父さんにそっくりなお兄さんの姿を見て。

 少しだけ、自分の父親がどんな人だったのか、分かったような気がしてからは、別の気持ちも湧いて来た。


 前みたいに、写真の中にいるだけの人ではなくなって、お父さんがいたらこんな感じだったのかな、なんて考えるようにもなって。

 でも、知れば知るほど、考えれば考えるほど。

 お父さんはもういないのだとわかってしまった。

 思い出とか、持ち主不在の古びたものとか、色褪せたものしか残っていない。

 なんだか寂しかった。

 死んでしまったら、たったのこれしか残らないのか。

 お父さんは、本当にこの世界に存在していたのかなあ。そう疑問に思ってしまうくらい。

 だから、今この瞬間にも、未来に向けて息をして動いているような。そういう、「生きた証」みたいなものが、あったらなあって思った。

 お父さんが助けた子どもが、今も幸せに生きていてくれるなら。それこそ、お父さんが生きていたことのしるしなんじゃないか、なんて。



 翌日、僕はまたお兄さんのところへ向かった。

 お兄さんは既にバドミントンのラケットを準備していて、「今日もやるか」と肩を回していた。

 やる気になっているところ申し訳なかったが、僕が「今日はちょっと相談があるんだ」と真面目な顔で言うと、お兄さんは何事かと僕の顔を覗き込んだ。

 僕はリュックから一通の手紙を取り出した。

 お兄さんは封筒の裏、送り主の住所が書かれたところをじっと見て、僕を見て目を細めた。

 それは笑うためなのか、涙をこらえるためなのか、はたまた小さな文字にピントを合わせようとしただけなのか、よく分からなかった。

 けれども、笑ったように目が細くなればなるほど、僕の知る写真のお父さんによく似ているんだ。


「次は、この人に会ってみたいのか」

 僕は静かに頷いた。

 僕は、この手紙を見て初めてその子の名前を知った。

 お父さんが助けた人。おじいちゃんとおばあちゃんが、ずっと恨んでいる人。

 今はどうしているのだろう。

 手紙は、その子どもの家族から送られた唯一のものだった。

 お葬式で会ったことと、手紙をもらったこと以外は、一度も連絡をもらったことがない、とお母さんは言っていた。

 お父さんが生きていたこと、今もお父さんの残した何かが続いてること。

 それを知って初めて、僕は本当の意味で、お父さんが生きていたことと、お父さんがもういないことの両方に、ちゃんと向き合える気がしていた。

 


「お父さんは、僕が生まれたばかりの頃に、道路に飛び出した子どもを助けて事故にあったんだって」

 おばあちゃんが言っていた話をそのまま、けれど彼らとは違って、憎しみを感じさせないように、できるだけ淡々と話す。

「そうだったのか。会えなくて残念だとは思ってたけど、そんな事情が……」

 お兄さんは驚いた様子だった。事故にあった、ってことしかお母さんに聞いていなかったらしい。

 お父さんが命を懸けた人に会ってみたいとか、ちゃんと無事に成長していることを知りたいとか、説明する言葉を準備してきたけど、どれも少しずつ僕の心とはずれている気がした。

 結局、僕が言えたのは、これだけだ。

「ただ会ってみたいっていうか……お父さんが生きていた証、ってやつを、確認したいんだよ」

 だいぶキザな言い方になってしまって、僕は少し後悔した。でも、一度口に出してしまったならもう仕方がない。

 お兄さんには、本当に僕がほんとうだと思ったことしか言いたくなかった。

 お兄さんは、ただ一言「うん」と頷いた。

「特に、何かを話したいとか、お礼を言われたいとかじゃないんだよ。一目見るだけで、いいんだ」

 言い訳のように付け加える僕に、お兄さんはもう一度「分かるよ」と言った。

 右手を僕の肩に置いて、ほんの少しだけ、とても小さな力でそっと握った。

 上手く言葉にできない僕のこの感情が、お兄さんの手のひらから伝わっていてほしいと思った。


 いま、お兄さんは、初めて僕の家に来た日のことを思い出しただろうか。

 あの日お兄さんが抱いていた気持ちと、僕が今持っている気持ちは同じものだろうか。

 同じではなくても、似ているかもしれない、そうだったらいいな、と思う。



 お兄さんは早速、手紙の住所を調べてくれた。

 地図上では、そこはごく普通の住宅街のようだ。

 今も同じ場所に例の子が住んでいるのかは分からないが。

 代わりに、その子どもの名前をインターネットで調べてみた。

 すると、その地域の書道コンクールの入賞者に、同姓同名の人物が出てくることがわかった。

 その子は僕の三歳上、今は中学生だった。

 僕は勝手に、元気いっぱいの幼稚園児を想像していたので驚いた。

 でも、当然だよね。その頃赤ちゃんだった僕がこれだけ大きくなっているのだから、その子だって同じだけ大きくなっているはずだった。

 もしかしたら、その子はいまだに、手紙に書かれた住所と同じところに住んでいるかもしれない。

 僕はお兄さんと互いに頷きあった。

 その地域は、今いるところからもそれほど遠くない。

 電話番号などは分からないので、突然のアポなし訪問である。

 かといって、この前のお兄さんのように、突然チャイムを鳴らしたりはしない。

「ちょっと近くまで行ってみて、怪しまれない程度に、遠くからこっそり見るだけでいいし」

「とにかく行ってみよう、それでどうするかは行ってから決めよう」

 僕たちはそんなことを言い合った。

 僕が、「人生には、時にはそういう無計画さが必要なんだ」と言うと、お兄さんはにやっと笑った。

「十数年しか生きていない僕が、人生を語るなんて……って思った?」

 僕がそう指摘したら、お兄さんは「いやいや、」と笑って否定した。

「本当にその通りだと思ったんだよ。無計画さは年を取るたびに失われていく。大人にこそ必要なのにな」

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