嘘はつかない
「夏休みの宿題、ちゃんとやってるの」
お風呂から出て、扇風機の前でごろごろしながらアイスを食べていたときだった。
大して面白くもないテレビのバラエティー番組も終盤になったころ。
お母さんはこうして時々、思い出したように宿題の進捗を尋ねてくる。
真偽のほどは置いておいて、僕はいつも通り、やってるよ、と一言で返す。
お母さんはいつも、その答えで満足するのか、興味を失うのか、それ以上のことは聞いてこなくなる。
おそらく、僕の夏休みの宿題などには本当に興味がないのだろう。仕事や税金や家事など、母親には他にやるべき重要なことがたくさんあるのだ。
僕に声を掛けるのは、一応夏休みの母親らしいことを行ったという自己満足なのか、僕に宿題を思い出させるための確認なのか。
今回は珍しく、お母さんが「どんな風にやってるの」とさらに質問を重ねてきた。
「どんなって……普通にだよ。いつも通り」
不思議に思って、声がした方に僕は顔を向けた。
お母さんはダイニングテーブルで、水道代や電気代の紙を見て顔をしかめている。
少し待ったが何も言わないので、再び僕はテレビに視線を戻す。
「お父さんの話、聞いたんだって?」
何の話だ。
思わずお母さんを二度見して、溶けかけたアイスをフローリングの床にこぼしかける。
間髪入れずに「落としたならちゃんと拭いて」と注意され確認するが、ぎりぎりセーフだった。
何で知ってるんだ、という驚きよりも、お母さんの口から「お父さん」という単語が出てきたことの方が驚きが大きかった。
物心ついてから、この家の中では、「父」という単語は、暗黙の了解で禁句になっているようなものだった。
お母さんは、お父さんのことを本当に「お父さん」と呼ぶのか。そんな当たり前なことすら僕は感慨深く感じてしまったほどだ。
その一言の衝撃に少しの間気を取られていたが、さっきの言葉を頭の中で繰り返してみて、慌てた。
「何で知ってるの? 誰に聞いたの?」
「そんなの一人しかいないでしょ」
叔父さん、何で話しちゃうんだよ……内緒って言ったのに。嘘つき。次会ったら絶対怒る。
僕は心の中で毒づいた。まったく恩知らずのがきんちょだ。
「叔父さんから、お父さんのこと、ちゃんと話してやってくれって言われたのよ……わざわざ叔父さんに聞きに行くなんて。どうして私には何も聞かないの?」
驚いて僕は目を白黒させる。
お母さんが変だ。
いつもの様子からは考えられないことばかり言う。
僕は夢でも見ているんじゃないだろうか、それとも明日めちゃめちゃに天気が悪くなるのか、これが天変地異の前触れなのか。本気でそう思った。
お母さんは僕をじっと見て、答えを待っているのか、何も言わない。
仕方なく僕はしどろもどろになりながら言葉を紡いだ。
「だってさ、嫌そうだったから……お父さんの話するの。小さい時から……」
何も聞くなって顔してた、小さい声でそう言うと、お母さんは俯いて小さく息を吐いた。
ため息なのか、ただの呼吸なのか、僕には分からなかった。
「そんな風に思ってたのね……私、そんな顔してた?」
まあ、子どもの僕でも分かるくらいには顔に出ていた。
お母さんは僕の無言の肯定を受けて、少し笑った。
「聞きづらかったかあ。それはごめん。でも、お父さんの話するのが嫌なわけないよ。単に、ずっと忙しくて、機会がなかっただけ。何か聞きたいことがあるなら、話すけど」
お母さんがこんなことを言ってくれるようになるなんて、もしかして叔父さんのおかげだろうか。
再び心のなかで、今度は謝罪と感謝の気持ちを持って、叔父さんを思い浮かべる。まったく変わり身が早い僕である。
「何でもいいから、話してよ。別に、機会がなくたって、生活しててふと思い出したこととかを言ってくれればよかったのに」
「なるほど。そういうものなのね」
お母さんの目と口が、にこりと弧を描いた。
でもさ、と言葉を続けると、口元は笑みを湛えたまま、黒い瞳ががゆらりと揺れた。
「本当にね、今までずっと、何かを隠してたわけじゃない。何も聞かれなかったから、言わなかっただけ。ずっと興味がないのかと思ってた……だってあんたは何も覚えていないからさ。それなのに色々話されても困るかと思って……」
話さなかったのは僕のせい、というような言い方には少し腹が立った。
言わなくたって気になるに決まっているじゃないか。
それに、言わなかったんじゃなくて言えなかった、もっと言えば言わせてくれなかったのはお母さんの紛らわしい態度のせいだ。
でも、と思う。その言い訳の裏を、想像してしまう。
多分、お母さんが言ったことは嘘ではない。嘘ではないが、核心ではない。直感でそう思った。
お母さんは明るい声で、淀みなく、話をつづけた。
「いろいろ思い出話を聞いちゃうと、お父さんに会いたくなるでしょ。でも、何を言ったって結局、会えないから……」
一瞬どきりとさせられるような、ともすれば残酷な言葉。
僕にはお母さんの明るさが、不自然なもののように感じられた。まるで、無理をして自分の感情を押し込めているような。
お母さんは悲しいとか、寂しいとか、そういうことを言わない。普段からそうだ。泣いてるところを、見たことが無い。
叔父さんが以前、「思い出すと悲しくなるから何も話せない」と言っていたことは、僕しか知らない。
でもその見立ては、かなり近いのかもしれなかった。
思い出すことが悲しいことだと思い知って、話さないように、見ないようにすれば涙は枯れるのかもしれない。
僕が、こうしてお母さんの気持ちを推測しては黙っていること、きっと気付いてもいないだろうな、と思う。
お兄さんのことを思い出した。お兄さんもきっと同じように、両親の気持ちをずっと推し量りながら生活してきた、のかもしれない。
聞いてもいないのに、何故か強くそうだと思えてならなかった。
そうしていると、結局、何だかお互いに話しづらい雰囲気になってしまった。
するとお母さんは、仏壇の下の引き出しを開けた。
いじってはいけない、と小さいころから言われ続けていた引き出しだ。お母さんがそこに触れていたところは、見たことがなかった。
「お父さんの使ってたもの、見る?」
「え、見たい!」
引き出しはひっかかりもせず、すんなりと開いた。
文房具、キーホルダー。何に使うんだかよく分からない古い機械。紙、紙。
一見、古いがらくたばかり。しかしセピア色のそれらは、僕にとっては博物館の恐竜の化石よりも、一億円の美術品よりも価値があった。
ひとつひとつ手にとって、興味深く眺めた。お母さんはそれぞれに、ひとことひとこと簡潔に解説をした。
新婚旅行で買ったおみやげ。大学の時の授業ノート。普段からよく使ってた、両親からの誕生日プレゼント……
僕は説明を聞きながら、特に書類に手を伸ばした。
色あせた写真、時代遅れのノート、安っぽいデザインの賞状。
例えば僕に宛てた手紙とか、精子提供に関する資料とかがあるといいなと思ったけど、さすがにそんなドラマティックなものは見当たらない。
ただただ、十数年前に、一日一日を生きていたひとりのにんげんの持ち物。
自分の未来に何かが起きるかなんて、思ってもいなかっただろう。本当なら懐かしいなあと言って一緒に眺めていたかもしれない。
手紙の束を手に取ろうとすると、何故かお母さんは慌てて取り上げ、必死で隠そうとする。
「見せてよ!」
「別に、面白いものじゃないわよ」
「じゃあ何で隠すのさ!」
僕が文句を言うと、お母さんは突然「そういえば!」とやや大きな声を出した。
「それにしても、どうして急に、お父さんのこと調べようって思ったの」
ついに来たかと身構える。
この話になってから、いつかお兄さんの話題が出るに違いないと踏んでいた。
お母さんもおそらく、お父さんを調べるきっかけとして、お兄さんのことに思い当っているに違いない。
叔父さんはお兄さんの話もしただろうか。ここまで話しておいて、そのことだけ隠してくれることがあるだろうか。なぜお母さんは、その話題を出さないのか。
本当に知らないから聞いているのか。それとも、知っててわざと僕の口から何かを語らせようとしているのか。
思惑が分からない。だから安全かつ無難な、石橋を叩いて渡る答えを探す。
「いや、お父さんのことはずっと前から気になってたから……僕ももうこの歳だし、ちゃんと知りたいなと思って、この機会に」
「この歳って。まだまだ子どもじゃないの」
僕はお母さんの目をじっと見た。嘘ではない、嘘はついていないが隠し事をしていることがばれないように。
言葉にはごまかしが入っても、態度はごまかさず堂々とした様子を作って見せる。
上手くできているかは分からないが、これが僕のうそ技術の精一杯である。
嘘はつかないのに、本当のことも言わないところは、きっと僕とお母さんのよく似たところの一つだった。
「まあ、好きにしたらいいけど」
お母さんはそれだけ言うと、手紙の束をそっと撫でた。
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