現実はどうだろう


 それからしばらく、僕はお兄さんのところに入り浸った。

 お兄さんが文句ひとつ言わないのをいいことに、大学内の生協で安いアイスを奢ってもらったり、大学の隣の公園で遊んでもらったりして楽しく過ごした。

 お兄さんの研究室には、バドミントンのラケットとシャトルが何故か二つずつ置いてあったので、それを拝借した。

 卒業論文を書くときに、時々バドミントンで気晴らしをしながら頑張るのが研究室の伝統なのだそうだ。

 二人だと鬼ごっこやら競争をしてもつまらなかったので、結局いつも遊びはバド一択だった。

 暑くなったら、涼しい室内でガリガリする少年向けのアイスを食べて休憩して。また遊ぶ。

 他にはスポーツ道具が無かったのが少し残念だった。ボールがあればもっと遊べる種目の幅が広がったのだが。


 僕たちは以前のように家族の話をせず、どうでもいい話をたくさんした。

 お兄さんの話は面白かった。

 お兄さんは英語や海外の文化を専門に勉強していて、いろいろな国の文化や食事に詳しかった。僕の知らないことをたくさん教えてくれた。

「いつか海外で暮らすのが夢なんだ。たくさんの国に行きたい。できるだけ遠くの国に」

 お兄さんはそう言って、楽しそうに笑った。


 僕は、お兄さんと一緒に、不思議な遺跡や、美しい街並み、楽しいお祭りや、不味いごはんを想像しては、楽しんだ。

 お兄さんは、僕のどんなくだらない話も熱心に聞いてくれた。お兄さんは、僕の叔父さんに少し似たところがあると思った。


 唯一の残念なことは、僕があまりにもお兄さんのところにばかり遊びに来るので、学校に友人がいないのではないかと心配されたことだ。

 直接言われたわけではないが、会話の端々からそう感じられた。

 例えば、お兄さんは、流行のテレビ番組、芸能人、遊び、キャラクターなどいろいろな分野の話を聞きたがった。そして、僕のような今の時代の少年と、自分が同じ年の頃を比べて面白がる。

 でも本当は、比べることが目的じゃなくて、流行の詳しさを知って、僕のクラスでの立ち位置や友人関係を推測する面もあったんじゃないだろうか。これは、我ながら名推理だと思う。


 だから、心配をかけないように、僕はよく自分の友達の話をした。

 夏休みはあまり学校の友達と遊んでいなかったのだが、珍しく近所の子たちに遊びに誘われたときは、お兄さんへの話題作りくらいの気持ちから遊びに行ったくらいだ。

「その時、友達に、お兄さんの話をしたよ」

 そう言うと、お兄さんは驚いたような、照れ臭いような複雑な顔をしていた。「何て言ってた」とお兄さんは聞いた。


 最初は、お兄さんが血のつながった兄だということは伏せて、最近初めて知り合った親戚の人とよく遊んでいると友人たちに話した。

 何で今まで知らなかったの、と聞いたのは幼稚園の時から知り合いの同級生だ。

 もったいぶって「秘密の事情がある」と言うと、当然その場にいた僕以外の五人全員から言え言えとなじられた。

 僕はにやにやしながら黙っていたのだが、その中の一人、高橋君が急に「作り話じゃないか」なんて言ってきた。

 僕がむっとして「本当だよ」と言うと、「秘密を話さないと信じない」と返されたので、結局僕は根負けして秘密を話した。

 仕方ないなという体で語ったが、正直なところ、本当は誰かに冒険話をしたくて僕はうずうずしていたのだ。

 案の定、彼らは予想どおり、そんなことがあるのかと、と驚きどよめいた。

 にわかには信じがたい話だっただろうが、僕の詳細な語りには真実味があったのだろう。

 精子提供という技術の仕組みはよく分からなかっただろうが、とにかく血の繋がった兄が突然現れたのだという衝撃はしっかり彼らに伝わったらしい。

 絶対他の人には内緒な、ここだけの秘密だぞ、僕がそう念を押すと彼らは神妙に頷いた。

 正直、彼らとはとても仲が良いというわけではなかったが、秘密を共有することで、前より大事な仲間になれた気がした。


 お兄さんにそのように話すと、少し安心したような顔をしていた。

 やっぱり僕に友達がいるのか心配していたのだろう。疑いが晴れて良かったと思った。

 僕は学校に友達がいないわけじゃない。

 休みの時にまで遊びたいと思うような友達がいないだけだ。

 誰に言うでもなく、こころの中でそう呟く。

 僕は、学校の他の子たちとは違うんだ。

 心のどこかで、そう思っていたからだ。


 それは、良い意味でも悪い意味でもあり、勘違いかもしれないけれど、僕のプライドでもあった。

 いつか、いつかは自分がすごいってことが、他の人と違うってことが皆に認められるはずだ。ずっとそう思っていた。

 現実はどうだろう。

 勉強も運動も中くらい。テストで連続で百点満点を取ったり、授業中に元気に手を挙げたりできるように頑張る力はないし、頑張り方さえ分からない。

 かといって、勉強を放棄して、授業中も自由に遊んでばかりの不良になる勇気もない。

 ドッチボールでボールを取るのも苦手だし、クロールで息継ぎをすると鼻と口に水が入りそうになる。

 努力なんてしたこともないくせに、努力したって無駄だと気付いてる。

 人より優れたものなんて何一つ持ってないし、人より夢中になれるものも知らなかった。


 だから、お父さんのことを知ったら、もしかしたら何かが変わるんじゃないかと思った。

 退屈な毎日が、特別な何かに。


 実際、叔父さんに話を聞いてみて、なんとなくお父さんの人となりは分かった気はした。嬉しかったし、面白かった。

 それでもどこか、自分の「父」であるという感覚は薄くて、今は亡きある人物の、ごく普通の人生を紹介されたかのような、他人事な感じは拭えなかった。

 まるで、テレビで人物紹介を見ているみたいな、そんな感じ。


 要するに、それを知っても、僕の生活には何の影響もないって分かったんだ。

 最初から分かっていたことだが、何を聞いても考えても、お父さんが何を思って精子提供を行ったのか、今を生きている息子たちのことをどう思っているのか、そういうドラマティックな真実のようなものはきっと、分からないままなのだから。

 一番事情を知っていそうなお母さんだって、多分お父さんから何も聞かされていなかったのだろう。あの日のお兄さんへの対応を見れば、それがよく分かる。


 だから、お母さんには、お兄さんと会っていることも、叔父さんに話を聞いたことも、何も話していなかった。

 じゃあなんでお兄さんとずっと会っていたかというと、僕はお兄さんが大好きだから。

 でもそれだけじゃないことにも、本当は気付いていた。きっと僕は、彼と一緒にいることで、自分が特別な存在になったような気がしていたんだ。

 これだけ年上の友人がいる小学生は、周りには僕以外にいなかった。ましてや、その人が、突然現れた、血の繋がった兄弟だなんて。

 結局僕は、お兄さんのことを、周りに見せびらかせる自慢のアクセサリーみたいに扱っていただけなのかもしれなかった。

 そのことに気付かない、きっと気づいても悪いことだとすら思わなかった、無邪気で小憎らしい僕を、お兄さんはどう思っていたのだろう。

 あるいは、その無邪気に罰が当たったのだろうか。

 結局、僕が周りの人たちのことを傷つけてしまったのは。

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