気持ちがわかる

 帰り道、自転車を押しながら、大学に向かってぶらぶら歩いた。

 空はまだ明るいけれど、昼の暑さが嘘のように涼しい夕暮れだった。


 わざと遠回りな道を歩いて、僕とお兄さんは他愛もない話をした。

 いま、学校で流行っている遊びや芸能人のこと。

 夏休みは毎日やることもなくて退屈なこと。

 それなのにぼんやりテレビを見ているとなぜかお母さんに怒られること。

 僕は理科がキライなこと。お兄さんは英語が好きなこと。友達のこと。叔父さんのこと。お母さんのこと。


 ふと、思いついたことがあった。

「お兄さんの家族ってどんな人なの?」

 話には出てくるが、実際にどんな人だったのかな。

 気軽に聞いてしまったが、今思えば僕はまったくの考え無しの無神経人間だったのかもしれない。

 お兄さんは言葉を探すように黙った。

 僕は遅ればせながら、もしかして聞いてはいけないことを聞いてしまったのだろうかと気づき、内心焦った。

 他の話題をしようとしたけれど、こういう時に限って何も思いつかず、僕は黙り込んでしまった。

 それでも何かを言おうとして、意味を持たないただの音が口からひねり出されたとき、静かな声でお兄さんは言った。


「やさしい人たちだよ。普通の親、って感じ」


「そうなんだ」

 僕はそれしか言えない。

 お兄さんの声は静かで、淡々としているけど、どこか冷たい感じさえした。

 お兄さんもそれに気づいたのか、取り繕うようにやや明るい声を出した。

「でも、あまり似てないんだよね。両親は小柄で、音楽が得意な芸術畑の人間なんだ。僕は背も高いし音痴だし、スポーツとか、体を動かす方が好きなタイプだし。容姿もまあ……この通りだしね。髪がくせっ毛なのは母親譲りなのかもしれないけど」

 ごく普通の世間話のはずなのに、何だかどぎまぎしてしまう。

 一部の事情を知っているからといって、勝手に推測するのはよくないと分かっているのだけど。

「親父は、『見た目より内面を褒められる人間になれ』っていうのが口癖だった。良い言葉だけど、今思えば、俺があまりにも父と似てないから、面白くなかったんじゃないかと思うんだよ」

 お兄さんはそう言って笑っていたけど、僕は少し複雑な気持ちだった。

 僕の欲目もあるけど、お兄さんは多分、かっこいい方なんじゃないかと思う。

 容姿を褒められているのを、お兄さんの父親は、どんな顔をして見ていたんだろう。

 自分とは全く似ていない大人に成長していく、自分の息子を。


 僕はといえば、お父さんにはあまり容姿は似てなくて、背の順で並んでも前から数えた方が早い。

 写真を見ている限りでは、あまり、いや全く、似てるとは思えなかった。

 だからお兄さんのこと、いいなあ、うらやましいなあと思うし、気の毒だとも思う。

 うまくいかないなあ、って。

 本当は僕じゃなくて、お兄さんこそがお父さんの本当の息子なんじゃないか。そんなことまで思った。


「お兄さん、音痴なんだね」

 言いたいことはそれじゃないだろう、と思いながらも僕は言う。

「そうだよ。カラオケ行っても、タンバリン叩き職人になってるし」

 お兄さんは、ほっとしたような、でも何か言えずに飲み込んでしまったような顔をして微笑む。

「ピアノを習ってみたこともあるけど、すぐに辞めちゃった」

「僕も、空手習ってたけど辞めたんだ。お母さんに、何ですぐ辞めるんだって、めっちゃ怒られた」

「どうして辞めたんだ?」

 お兄さんに聞かれて、僕は迷った。

 話していいのかな。分かってもらえるのかな。

 大したことではないのに、誰にも話したことが無かった。

 でも、本当は誰かに聞いてほしかったように思えた。

 そしてもし聞いてもらえるなら、他でもないお兄さんに聞いてもらえるなら、なんだかしっくりくるような気がした。


「本当は、サッカーか野球がやってみたかった。同じチームの子たちがすごく仲が良いから、うらやましくて。でも、お金もかかるし、お母さんが送り迎えとかいろいろ、手伝わないといけないんだって」

 僕の家庭では当然難しいことだと分かっていた。でも、別に、どうしてもやりたかったわけじゃないから、いいんだ、別に。

「で、お母さんが近所の空手の道場はどう、って。月謝安いし、お父さんも空手部だったから、僕にもできると思ったんじゃないかな。でも、乱暴な奴が多くて僕には合わなかったよ」

 僕には合わなかった、という簡単な言葉でまとめたけど、この件は僕の中ではいまだに消化できず、ぐるぐると渦巻いている記憶だった。


 そこの道場は、見た目だけは仙人みたいな、よぼよぼのおじいちゃんの先生が教えるところだった。それは、別に良い。

 でも、行ってみればそこは、近所でも悪ガキとされるクラスの乱暴者のたまり場だったのだ。

 おそらく、悪さをする子どもに困り果てた親の間で、あの道場ならどんな子どもも受け入れて根性を叩きなおしてくれる、なんて武道によくあるイメージに基づくウワサが広がっていたのかもしれない。

 お母さんは、近所の人とあまり話さないから、そのことを知らなかったのだろう。


 実際のところは、先生が仙人的なのは見た目だけ。子どもはみんな、みんな先生の言うことを聞かず自由に暴れまわっていた。

 そんな奴らと週に二回も丸腰で殴ったり蹴ったり、気の優しい僕には当然難しかったんだ。

 僕は一ヶ月も経たないうちに、「辞めたい」と言った。理由は、「つまらないから」と言って通した。

 僕は、自分が奴らよりも弱いことを認めたくなかったからだ。

 それに、「あいつの母ちゃんはシングルマザーだよ」なんてわざわざ道場中に言いふらしてくるやつがいることだって、絶対に言いたくなかった。


 お母さんは、「自分でやりたいと言ったのに、もう辞めるって言うなんて!」と言って怒った。

 けれども僕は頑固に「でもやめたい」と言って聞かず、初めての習い事は終わった。

 いざやめてからは、お母さんは僕に何も言わなかった。

 でも、後から叔父さんに「姉さん、君が空手習うって言ったの、けっこう嬉しかったらしい」と聞いた。

 まだ始めたばっかりなのに、予習のために、空手の試合のテレビ放送日程を調べたり、試合の応援に行くのを楽しみにして有休の残り日数を確認していたとか。

 僕は悲しくて不甲斐なくて、自分のことが少し嫌いになった。

 お父さんが空手をやってたって聞いてからは、余計にそう思う。


「お母さん、怒ってたしがっかりしてた。だからもう、何かやりたいなんて言えないよ……」

 口に出したら後悔に沈みそうになったが、少なからず怒りや理不尽さも湧いてきた。

「でもさ、僕は別に空手がやりたいなんて言ってないんだよ。なのに、自分でやるって言ったのに! って怒るのは違うと思わない?」

「うんうん。本当に……期待に応えられなかったって記憶、何か忘れられないよな」

 お兄さんはしんみりと頷いた。


 僕はお兄さんをすがるように見つめて、腕をつついた。

「お兄さぁん、この気持ち、わかってくれる?」

「分かるよ。俺も、似たような感じで辞めたクチだから。小さい時に、親にピアノ勧められて始めたけど、すぐ辞めた。練習は面倒だし、なかなか上手くならないし、親にも先生にも怒られるし」

 お兄さんは顔をしかめ、やれやれ、とでも言うように首を振った。

「両親には『自分でやると決めたら、最後までちゃんとやれ』って散々怒られたんだけどさ。多分俺は、『やりたい』って言ったら、二人が喜ぶと思ったんだよ。本気でやりたいわけじゃなかった」

「そう……そうなんだよ! やりたいって、言わされたようなものなんだよね!」

 僕は、ぱっと視界が開けるような、もしくは難しいテストの答えがようやく分かったような、そんな気がした。そうだったんだ、と。

 喜んで欲しかった。だから、頑張りたかった。でも、頑張れなかったんだ。その気持ちだけでも、本当はわかってほしかった。

 だから僕は、腹が立って、でもすごく悲しかったんだ。


「で、期待されてたって自分でもよく分かってるのが、尚更きつい。俺の両親は、音楽サークルで出会ったくらいだから、二人共音楽が大好きでさ。ピアノ辞めたときのがっかりした顔は、軽くトラウマ」

 そうなんだ。期待されてたって、分かってた。

 できることなら、本当にほんとうに、その気持ちに答えたかったんだ。


 お兄さんは、寂しそうに笑った。

「今でも、いつか誰かが弾くかも……って、俺しかいないんだけどさ、たくさんの楽器が埃被ったまま置いてあるの見ると、ちょっと辛くなるよ」

「お兄さん……」

 お兄さんは何故か、自分よりずいぶん低いところにある僕の頭に、そっと手を置いた。

 僕はうれしかった。

 僕は、お兄さんの気持ちがよくわかった。お兄さんは、僕の気持をよくわかってくれた。お互いの気持ちが分かるって、こんなに楽しいことなんだ。

「僕だけかと思ってた……そういうのって。みんないつだって『お母さん一人で大変なんだから』って言うし、その通りだと思うし。あんまりこういう話、できないからさ」

 そう、きっと大人がこの話を聞いたら、僕がお母さんを責めているように感じるだろう。

 そういう気持ちが無いとは言い切れないけど、僕はただ、そう思ってたんだよって、分かって欲しいだけで。

 絶対言わないけど、お母さんのことは、大事だと思っているわけだし。


「だいたい大人は、二言目には『親に感謝しろ』って言うからなあ。『ここまで育ててもらっておいて』とか『他の親に比べたらどれだけ恵まれてるか』とかね。まあ事実なんだけどさ」

「そうなんだよ~~お兄さん~~」


 お兄さんは僕を見て微笑んだ。

 そして不意に、目を見開く。「お、夕焼け」と、前方を指さした。


 明るかった空から、夕日が沈んでいる。

 きれいだった。どこか懐かしくて。

 それで少し、切なかった。


 僕は前にもいつか、こんな風に、誰かと……例えばそう、お父さんと……夕日を眺めたことはあったのだろうか。

 嫌なことも良いこともいろいろあるけど、まあ仕方ないよなあって。そんなことを言ってくれているような。

 今日という日を良い一日として締めくくってくれるような、そういう夏の夕暮れを。

 僕はこの景色を、そして今日一日にあったことの全てを、いつまででも覚えていようと思った。

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