情に厚くて正義感

「私が一年生で部活に入部したとき、義兄さんは四年生だった。彼は部活を引退していて、時々稽古に来るくらいだったから、あまり話したことはなかったんだ」

 四年生は、一年生とほとんど関わりのないまま、卒業していくのがセオリーだった。

 だが、ある日、事件が起こった。

 練習で、お父さんが叔父さんにけがをさせたのだ。

「怪我に関しては全くの事故で、武道をやっていたらよくあることなんだ。それなのに入院するほどひどくなったのは、まさに私の自業自得だよ。前日に飲み会をやって、かなり飲んだものだから、二日酔いだし眠いしで……全然稽古に集中できてなかったから、普通じゃやらないへまをやったんだ。空手家失格だな」

 叔父さんは全く気にしていなかったが、お父さんは後輩にけがをさせてしまったことにひどく責任を感じて、落ち込んでいたらしい。

 何週間か入院することになってから、お菓子や果物を持って何度もお見舞いに来たので、叔父さんの方が恐縮するほどだった。

 入院中は、叔父さんのお姉さん……つまり僕のお母さんが、身の回りの世話をしに来ていた。


「つまりそこで、お父さんとお母さんは知り合ったってこと?」

 僕の問いに、叔父さんは誇らしげに頷いた。

「そう。だから、私のおかげで、二人が結婚したってことだよね。怪我した甲斐があったってもんだよ」

「へえ……何か叔父さん、やるじゃん」

 僕が素直に褒めると、叔父さんはますますにやっと笑った。

「君が生まれたのも、元をたどれば私の骨折のおかげさ」

「おかげかあ。それで、その後は、どうなったの?」

「どうって、その続き? まあ、それで二人は結婚したんだよ」

「えっ。もう?」

 何故だか、随分展開が早い気がする。お兄さんに、「早くない?」と聞くと、お兄さんはうーんと唸る。

「今の時代とは、違うだろうから、分からないけど……まあ……」

「叔父さん、何か端折ってない?」

「いやいや。病院で私と姉さんと義兄さんの三人で時々話をして、楽しかったなと思ってたら。退院してから久しぶりに会ったときに、結婚するって言われたんだよ」

「ええっ、何それ」

「いつの間にそんなに仲良くなってたんだろうなあ。全然気づかなかったっていうか、そんな感じじゃなかったんだけどな」

「え~っ、叔父さん、それ…」

 ちょっと鈍すぎやしないだろうか。

 おかげだおかげだと言っていたが、特に何かの役に立ったというほどでもない。やるじゃん、と言ったのを取り消したい。

「ほんとに全然気づかなかったの?」

「今思えば、退院してから、姉さんに部活の写真が見たいとか、試合見に行きたいとか言われるようになったんだよな。あと、義兄さんに最近会ったかって聞かれたりとか」

 やっぱり。叔父さん、こういうところ鈍いんだよな。

 優しいのに、時々鈍感だとお母さんが以前ぼやいていたことを思い出して、僕は今更強く同意した。

 さすがのお兄さんも苦笑いだった。


「まあ、その時もう、義兄さんが良い人だっていうことは分かってたから、嬉しかったよ。私が義兄さんと仲良くなったのはそれからだ。男兄弟がいなかったから、新鮮だったなあ。先輩っていうより、義理とはいえ、本当に兄貴って感じでさ」

 お酒を飲みに行ったり、釣りに行ったり。色々なところに誘ってくれて、かわいがってくれた、と叔父さんは言った。

「姉さんとはけっこう正反対のタイプなんだけど、二人は本当に仲が良かったよ。二人とも、一緒にいるといつも笑顔でさ。俺が傍から見てても分かるくらい、幸せそうだった」

 お父さんは、情に厚くて、正義感が強い。思い立ったらすぐ行動に移す。

 僕の知る、現実的でしっかりしている、無駄なことはしないお母さんとはたしかに対照的だった。


「しばらくして、赤ちゃんの君が生まれた。そりゃあ喜んでたよ。よっぽど嬉しかったんだろうな。ご利益があると聞けばどこでも飛んで行ったから、いろいろな神社の安産健康のお守りがたくさん家にあるんだって。お守りって何個も持ってていいものなのかなって、姉さんが笑いながら話してたよ」

 叔父さんは懐かしそうに目を細めた。

「子どもに音楽を聞かせると良いと聞いたからって、弾けもしないハーモニカを買ってきて、姉さんに『そんなの要らないでしょ』って怒られたとか。嫁さんと子どもを大事にしない友達と大喧嘩して改心させた、とかさ」

「そうなんだ……」


「義兄さんはね、今は夜泣きが大変で毎日寝不足だけど、どんどん大きくなっていくから驚いたって言ってたよ。街で子どもを見かけると、うちの息子もすぐあのくらいになるのか、と思わず目で追っちゃうんだ、ってさ。一緒に遊んだり、話したりできるようになるのが楽しみだって言ってたよ」

 全部、僕が知らなかったことだった。

 お父さんも、お母さんも、僕が生まれ、成長することを心待ちにしていたこと。

 自分が、そんな典型的な、幸福で温かい夫婦のもとに生まれていたこと。

 現実感がない夢の世界のようだった。照れくさくて、恥ずかしくて、でも心の中がじんわり暖かくなるようだった。


 叔父さんは最後に、付け加えた。

「本当に、良い人だったんだよ。他人の為に、自分ができることを何でもやる、そういう人だったんだ。さすがに精子提供をしてたとは思わなかったけど……でも、それが誰かを救うことだから、と頼まれていたのなら……今となっては、もしかしたら、とも思うね」

「そっかあ……全然知らなかった。ありがとう、教えてくれて。何か面白かったなあ」

 僕が心からそう言うと、叔父さんは笑って、僕の頭にぽんぽんと数回手をのせた。

「面白かったか。そんなに喜んでもらえるなら、もっと早く話しておくんだったなあ。他にもエピソードはいくらでもあるから、また聞きたくなったらいつでも言ってくれ」

「うん。また遊ぼうね」

 叔父さんは、まるで肩の荷が下りたように、ほっとした顔をした。すっきりした顔、かもしれない。


 叔父さんは、お兄さんにも声をかけた。

「こんなことしか話せなくて、申し訳ない。私も何か義兄さんから聞いてたらよかったんだけど」

「いえ、ご家族のプライベートなところに踏み込んだ上、お話まで聞かせていただけて……自分の父親かもしれない人が、あたたかい人間だったんだって、それだけでも分かって本当に良かったです」

 叔父さんは、お兄さんにどんな言葉を返すべきかと、思案しているようだった。

 しみじみと、言葉をかみしめるように言う。

「本当に、不思議な縁だなあ。きっと義兄さんも、自分のことを知りたがってる人がいるってことを、喜んでくれると思う。息子にすら、何も知られないまま、忘れられていくのは、寂しいことだからね……」

 叔父さんは、残りのコーヒーをぐいっと飲み終えてから、続けた。

「姉は君に失礼な態度を取ってしまったかもしれないが、それはきっと、急なことで驚いて、余裕がなかったからだと思う。でも心の整理がついたら、もしかすると、もう一度君に会ってみたいと思う日が来るかもしれない……もしそんな日が来たら、また訪ねてあげてくれないか」

「いえ、提供者の方の家族が、嫌がるのは当然です……傷つけてしまうと分かっていたのに、いきなり会いに行ってしまって、本当に申し訳ないことをしました」

「……きっと義兄さんも、君に会えていたら、そりゃ最初は驚いたと思うけど、でも、来てくれたことを喜ぶんじゃないかと思うんだよ」

「……そうでしょうか」

「うん、絶対そうだ」

 自信のありそうな叔父さんとは対照的に、お兄さんは、そうは思えない、という顔をしていた。叔父さんは続けた。

「信じられなければ、とりあえず今は、そういうことにしておけばいい……君が、後ろめたく感じる必要なんてないんだよ。君はただ、生まれてきただけなんだから」


 叔父さんはまた仕事に戻るというので、僕らは店の前で別れた。

 叔父さんはいつものように、これから仕事が忙しくなるという。またしばらく会えなくなるだろう。帰り際、叔父さんに僕はそっと耳打ちをした。

「あのさ、今日のこと、お母さんには……」

「ああ、やっぱり、彼のことをよく思ってはいないのか。そうだよなあ……内緒にしておいた方がいいのかなぁ……」

 僕は、なぜお母さんがお兄さんを良く思っていないことが「やはり」なのか「そう」なのかは分からなかった。

 でも、叔父さんの言葉には、とにかく何度もうなずいてお願いした。

「でも、お父さんの話を聞かせて欲しいって、一度お母さんに頼んでみるのも、たまには良いかもしれないよ。私よりもずっと、いろいろなことを知っているだろうし」

「でもさあ、お母さん、嫌そうな顔するよ、絶対」

 僕がしかめっ面をして見せると、叔父さんは苦笑した。

「でも、良い機会になったな。彼のおかげで、こうして義兄さんの話ができたんだから。本当に、不思議な縁だよ」

 なんとなく、お兄さんと一緒にいることを、きっとお母さんはよく思わないだろうと僕は感じていた。

 怒られるかもしれないし、接近禁止なんて言われることも、ないとは言い切れない。

 何より、自分のこの行動が、お母さんを傷つけるかもしれないという罪悪感が、たしかにあった。何故か分からないが、予感していた。だから、秘密にしておきたかった。

 でも、その罪悪感を押し込めて、見ないふりをしてでも、僕はお兄さんと話がしたかった。

 いや、むしろ僕は罪悪感があったからこそ、父の面影を探す自分に酔っていたのかもしれないね。

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