叔父さんと
お兄さんは毎日大学にいるというので、僕は都合の良い日に自転車を取りにいくことにした。
といっても、毎日暇を持てあましているので、結局三日後にはもう向かっていた。
校門には、例の怖い顔の守衛さんがいた。いまは、顔はいかめしいが優しい人だと知っている。
助けてもらったことを思い出してお礼をすると、守衛さんは頷き、建物のひとつを指差した。
門を入って右手にある、白い病院のような建物。
白を基調とした室内は解放感があるが、おしゃれすぎて何だか落ち着かない。
だが、人はほとんどいなかったのにはちょっとほっとした。これ幸いと急いで廊下の一番奥に向かう。
廊下に面した入口側の壁はガラス張りになっていて、廊下から部屋の中を見ることができた。
小さな図書室のような部屋だ。大きな本棚で埋め尽くされた壁。中央には広い机がある。
椅子一つ分の間隔を空けて数人が本やプリントを読んでいて、その中のひとりの顔に見覚えがあった。
プリントを見て蛍光ペンで線を引いては、何かを書き込んでいるようだ。今まで見たことのない、真剣な……というよりも、鬼気迫るような顔をしている。
どう声をかけようか、部屋に入っていいものかと廊下で思案しながら見ていると、彼がふっと顔を上げるのがわかった。お兄さんだ。
僕に気付いたようで、急いで紙の束と複数の蛍光ペンを白いキャンバスのバックに突っ込むと、部屋を出てきた。
「すぐに気が付かなくてごめん。わざわざ来てくれてありがとう」
「さっきの紙は勉強ですか、それとも、もしかして……」
「精子提供に関する資料だよ。もし興味があるなら、後で簡単にまとめたものをあげるよ。このままだと難しいし」
僕たちは二人で建物を出て、すぐ隣にある駐輪場で自転車を回収した。
「夏休みに毎日学校に行くなんて、大学生はそんなに毎日勉強することがあるの?」
「いや、快適なんだ。家と比べて……大学は、資料も集めやすいし、何より涼しいからさ」
僕が涼しさを求めて、特に用もなく図書館やスーパーに行ったりしているのと同じようなものだろうか。大人も子どもも考えることは同じなんだなと思う。
自転車を押して十五分ほど歩いて、駅に向かった。
JRが一本しか通っていない、小さめだが普通のなんてことない駅だ。駅名にさっきの大学の名前が使われている。
駅の横の駐輪場が無料だったので、自転車はそこに止めさせていただいた。
駅前にはちょっとした商店街のようなものがあり、全国チェーンのカフェやレストラン、ドラックストア、コンビニなんかがあった。
その中でも、駅前やデパートの一階などでよく見かける、有名な喫茶店が今日の目的地だ。
僕は当然、おしゃれでお高いコーヒーや紅茶には縁のない生活を送っているので、見たことはあれど今までほとんど入ったことはなかった。
店内には、少年には縁のない、都会的な雰囲気が醸し出されていた。
どこか入りづらさを感じて、やましいこともないのにこそこそと身を縮めて中に入る。
黒と茶色を基調とした、大人っぽいおしゃれな壁紙やテーブル。
なんだか落ち着かず、そわそわしてしまう。
奥の方、禁煙席の四人掛けのテーブルに見知った顔を見つけて、僕はすぐに駆け寄った。
「叔父さん!」
僕が声を掛けると、叔父さんはにっこりと笑った。
「おお! 久しぶりだなあ。また背が伸びたんじゃないか」
「まあね。叔父さんはあんま変わんないね」
「ははは。そうだな。それで今日は……」
叔父さんは、僕の後ろにいるお兄さんを見るなり、顎が外れそうなほど口をぱっかりと開いた。
「なんてことだ」
お兄さんは初めまして、と頭を下げた。
呆けたように叔父さんはつぶやく。
「驚いたなあ。まさか本当に……いやあ、本当にそっくりだなぁ……」
叔父さんはお兄さんをまじまじと見つめている。
お兄さんは、少し居心地が悪そうに身じろぎをした。
僕は小さい頃から叔父さんが好きだった。
叔父さんは優しくて、僕をまるで弟のように扱ってくれるし、一度も怒ったことがない。
その性格を見込んで、僕は叔父さんに連絡を取った。
お母さんに電話を借りたが、もちろん話の内容は秘密だ。お母さんは、自身の弟と僕が仲良くすることが嬉しいようなので、微笑ましく眺めて特に詮索はしてこなかった。
叔父さんは最初、僕のあまりに突拍子もない話に半信半疑だったが、丁度数日後のこの日、仕事の合間の数時間だけなら、近くまで来て話を聞くと約束してくれた。
こうして、それぞれまったく年代が異なる奇妙な男三人組が、喫茶店の小さい席で膝を突き合わせて集合することとなったのだ。
とりあえず、僕はアイスミルクティー、お兄さんはアイスコーヒーを注文した。
ミルクティーは家で午後に飲む二リットルペットボトルのそれとは違って、全く甘くなかったので、僕はガムシロップを二つも入れてストローでかき混ぜた。
お兄さんは、アイスコーヒーを一口だけ飲むと、緊張した様子で口を開いた。
「今日は、お時間を作っていただいてありがとうございます」
叔父さんはいえいえ、と軽く頷いた。
「自分の母は十九年前、××大学病院で、非配偶者間人工授精……つまり、匿名で精子提供を受けて、僕を出産しました。父は無精子症で、子どもができなかったんです。自分は二年前にそのことを知ってから、遺伝上の父親を探しているんです」
叔父さんは、とりあえずは何も言わずに話を聞くことにしたようだ。静かに頷くと、お兄さんに話を続けさせた。
「両親は提供者のことを何も知りませんでした。だから自分でいろいろと調べてみたけど、提供者に直接つながる情報は何も得られなかったんです。ただ、精子提供を研究していた教授が、××大の空手部の顧問をやっていた。その教授は亡くなっていたので、当時空手部の学生だった方を探して訪ねてみたら……」
お兄さんはそこで言葉を切ると、ちらりと僕を見た。
突然訪問してお母さんを困らせてしまったことを思い出したのか、申し訳なさそうな顔をした。
叔父さんは、いつになく真剣な顔で何度もうなずいた。
「なるほど……実は私も××大の空手部出身でね。義兄さんの後輩だったんだ」
義兄さん、というのは僕のお父さんのことだ。
叔父さんはお母さんの弟だけど、お父さんの大学の後輩だった、と前に少しだけ言っていたことを僕はちゃんと覚えていた。
だから、何か知っていることはないかと期待して、わざわざ会いにきたのだ。
しかし、その期待は一瞬で裏切られた。
「たしかに顧問は医学部の偉い教授だった。でも、部でそんなことをしていたなんて、全く聞いたことがない。そんな治療技術があることすら知らなかったよ。義兄さんも先生にも真実を聞けないから、信じがたい気持ちだけど……」
これだけ似ているとなあ、と叔父さんはつぶやく。
そうなのだ。
ありえない、と否定する前に、感覚的に認めさせられてしまう。
お父さんのことをほとんど覚えていない僕はともかく、お母さんや叔父さんでさえそう思うほど、お兄さんの容姿はお父さんの遺伝子を感じさせたのだ。
じっと顔を見つめている叔父さんから、少し視線をそらすと、お兄さんは答えた。
「その教授が、空手部の学生の中から、品行方正、健康優良な学生に、提供者にならないかと個別に打診したのではないかと思って。他の病院でも、教授の教え子が提供者になった例があるそうなので」
叔父さんと僕は少しだけ目を見合わせて、ニヤッとした。
叔父さんはその基準とやらに、全て当てはまらなかったことだろう。
学生時代は、お酒タバコ麻雀と、「大学生っぽい」ものには一通り手を出していて、品行方正とは言えない学生だったらしい。
「どこの病院でも共通して、匿名性を確保するために、提供者の情報は一切伏せられています。自分たちのような、精子提供で生まれた子には、自分の出生を、遺伝上の親を知る権利が全く保障されていないんです」
でも、とお兄さんは、僕の方にちらりと目を向けたように見えた。
とりあえず僕は、お兄さんの言葉を肯定するように力強く頷く。
お兄さんは、今度は、真っ直ぐに叔父さんの目を見据えた。
「そんな中で、出生につながる手がかりが見つかった。これは奇跡といってもいいほど、珍しいことなんです。どうか、少しでもいいので、彼のことを教えていただけないでしょうか。彼が本当に俺の父親なのか、どうして提供者になったのか、知りたいんです」
お兄さんは叔父さんに向かって頭を下げた。
僕はこの時、お兄さんの抱える、出生の事情の難しさを、ちゃんと理解できてていたわけではなかった。
いや、きっとどれだけ年を取っても、お兄さんの苦しみのすべてを理解することなど、できやしないだろう。
でも、お兄さんが、父親のことを知りたいと思う気持ちは、わかると思った。分かりたいと思った。
お兄さんは何度も申し訳なさそうに頭を下げている。自分の気持ちが、周りにとって迷惑なことだと思っている。
きっと、そう理解せずにはいられない状況を、経験してきたからだ。
そのことに気が付いた僕は、胸が苦しくなった。
僕も、ずっとそう思っていたから。でも誰にも言えなかった。
お父さんを知りたいという気持ちは、理解してもらえないんじゃないかって。誰かを傷つけてしまうんじゃないかって。
頭を下げたままのお兄さんの姿に慌てたように、叔父さんは言った。
「君が提供者のことを知りたいという気持ちはわかった。でも私は、義兄さんが本当に君の父親なのかも分からないし、どうして提供者になったのかも、大事なことは何も知らないんだ」
そして、叔父さんは言いづらそうに付け加えた。
「それに、君も知っていることとは思うが、義兄さん本人から話を聞けないのに、これ以上調べても……それに、君には育ての両親がいるわけだし、わざわざ義兄さんのことなんて知らなくとも……」
僕はそこで思わず立ち上がった。
違うよ。
「お兄さんは、自分が人造人間なんかじゃなくて、血が通った人間から生まれたんだって知りたいだけなんだよ!」
気づけば、言葉が口をついて出て来ていた。
一気にまくし立てる。
「わかるんだ。だって、僕もそうだから。誰も、お父さんのことを教えてくれない。どんな人だったのか、何が好きだったのか、僕のこと、どう思ってたのか。お父さんのことを知れたら、自分がどうして生まれてきたのかってことも、少しは分かる気がするんだ。僕たち、お父さんのことを通して、自分のことを知りたいだけなんだよ! ちゃんとした正解なんかなくても、ただ知りたいだけなんだ!」
何故だか急に目頭がかっと熱くなって来て、慌てて手のひらでこすってごまかす。
心臓がどきどきする。僕は何でこんなことを言ったんだろう。
いつから、こんなことを考えていたのだろう。
分からないけど、感情が高ぶっていて、涙が出そうになるのを必死にこらえる。
叔父さんは、目を見開いていた。その大きな瞳が、次第に潤んでいくのがわかった。
くたびれた地味な色のハンカチで、ごしごしと自身の目元を拭う。
そういえば、前に一緒に子ども向けのアニメ映画を見に行った時も、同じようにそのハンカチで涙を拭いていたことがあったっけ。僕は全然泣いてなかったのに。
「そうか。そうだよなあ……」
叔父さんは静かに呟いた。
「当たり前のことなのに、気づいてあげられなくてごめんな……ずっと、気を使わせてたよな。それに甘えて、何も話さずに、ここまで来てしまったんだな……でも、姉さんのこと、責めないであげてほしいんだ」
「わかってる。お父さんのことが大事だったから、悲しくて話せなくなっちゃったんだよね」
僕はすまして答える。
思わず熱くなって話してしまったけど、結果オーライだ。
叔父さんは甘いから、こうなれば僕の言うことなんて何でも聞いてくれる。
「私に話せることなんて、たかが知れてるけれど。どんな人だったか、そんな些細なことだけでもいいのかい?」
お兄さんは静かに頷いた。
僕はお兄さんと、小さくハイタッチをする。
彼は小声で僕に、ありがとう、と言った。
叔父さんと同じように、お兄さんの目にも、一瞬だけ、光を反射する涙の膜が張っているようにも、見えた。
涙が出るほど嬉しかったのかなと思ったけど、それは思いあがりすぎか。気のせいだったような気もしてきた。
叔父さんは、過去を語る大人特有の、ぼんやりとした、けれど幸福そうな表情で語りだした。遠くを見ているようで、何も見ていないような。
「私が知っているのは、姉さんと義兄さんがどれだけ仲の良い夫婦だったかってこと。それと、君が生まれて、二人がどれだけ喜んでいたかってことさ……」
叔父さんが話してくれたのは、僕の知らないお父さんとお母さんの話だった。
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