そんなのはいやだ
家まで徒歩五分のバス停にたどり着く。
お兄さんは、二人分のバス代を払って僕と一緒に降りてくれた。
僕は今日、まったくお金を持ってきていなかったからだ。小学生ってやつは後先考えずに行動するから、こんなことになるんだ。
お兄さんが用もないのにわざわざ僕を送ってくれたことを、途端に申し訳ないと思った。
お金の貸し借りはいけないと、いつも厳しく言われている。僕の部屋の貯金箱には、お年玉の残りがまだ入っていたはずだから、すぐに返そう。
ついでに家に上がってもらって、冷たい麦茶を出そうと思った。甘くて冷たいものが食べたければアイスも。
「バス代を返したいから、家に上がっていってください」
僕はそう言ったが、お兄さんは固辞した。どうやら、バスの中で話したことを気にしているらしい。
「君が会いに来てくれただけで、もう十分だよ。本当に嬉しかった。嬉しくてつい、いきなり変な話をたくさんして……申し訳なかった。俺のことはもう、忘れたほうがいい。君の家族も、それを望んでいるはずだよ」
お兄さんは、その場に根が生えたかのように動かない。完全に、僕を見送る構えだった。
このまま、何もなかったかのように帰る。
一晩寝て、明日の朝には、夢でも見ていたのかなと思うようになる。
平凡で平和な毎日がまた始まる。
それでいいのだろうか。
ここで背を向けたら、もう二度と、彼には会えないような気がする。
僕はたしかに嬉しかったんだ。
それなのに、この人はどうして申し訳ないとばかり言うのだろう。
分からないことばっかりだ。
お兄さんのことも、お父さんのことも。
本当は僕、お兄さんに、お父さんはこんな人だったんだよって教えてあげたかった。お父さんは、血が通ったあたたかい人間なんだよって。
でも、できなかった。
僕が知っていたのは、お父さんがもうこの世にはいないっていうことだけだったから。
寂しかった。悔しかった。
僕、自分のお父さんのこと、なんにも知らないんだ。
それで、このままだ帰ったらまた、何も知らないままでいなきゃいけない。
そんなのはいやだ。
「あの!」
突然大声を出したから、お兄さんは不思議そうな顔をして、僕を見た。
「僕も、お父さんのことを何も知らないんです。誰も、なんにも話してくれない」
僕は、頭をフル回転させながら、必死になって言った。
「でも僕だって、知りたいんです。お父さんがどんな人だったのか。お父さんのしたこと、せいしていきょうっていうのも、なんなのか」
お兄さんは僕と同じだ。
自分が誰なのか、何なのか、靄がかかったかのように見えなくなっている。
誰から、どんなふうに生まれて、どう育ったか。
それを知らないと、僕らは自分自身のかたちすら、思い描けなくなってしまうような気がする。
「お父さんのこと、一緒に調べませんか。話、聞いてみたいんです」
お兄さんは驚いたように目を瞬かせた。しばらく黙りこんだ後、戸惑うようにしながら、言葉を紡ぐ。
「気持ちは嬉しい、すごく嬉しいし、正直魅力的な申し出だけど……君が、お父さんのことを知りたいって気持ちも分かるし……でも、迷惑だよ。勝手に、部外者の俺がそんなことをするのは」
歯切れの悪い返答に僕は焦れる。
賛成だと即答してくれると思ったのに。
「でも、僕もお兄さんも部外者じゃないよ。お父さんの子どもなんだよ。なのに何も知らないなんて。それに、僕一人だったら、また熱中症になったりするかもしれないよ」
熱中症、と聞いて保健室での僕の姿を思い出したのか、お兄さんは心配そうに唸る。
これをきっかけに、僕はしつこく粘った。
「熱中症になった時、すごく怖かった。もう二度となりたくないよ」
「でも一人だと自転車で出かけるしかないからなあ。子どもだけでバスとか電車に乗ったらお母さんに怒られちゃうかもしれない」
「それに、お父さんのこと聞くの、すごい勇気がいるんだよなあ。一人で行くのは不安だなあ」
「大人が一緒だったらどこに行くのも安心なのに」
お兄さんはついに一言「……わかったよ」と言って、折れた。
でも嫌そうな感じじゃなくて、どこか嬉しそうにも思える。
「また改めて、ちゃんと君のお母さんにも話しに行かないとな」
お母さんに納得してもらうのは難しいかもなぁ、と思いつつ、僕は頷く。
「……じゃあ、いずれ僕から話しておくから。それまでは何も、言わないで欲しいんです」
「絶対だよ。ちゃんと説明しておいてくれないと、申し訳ないよ」
僕は、お兄さんからは少し目をそらした。
話をするタイミングはいずれ、そのうち、とりあえず先送りにしておく。何とか方策を考えておこう。
「でも、お父さんのことを調べるって、一体どんなことをするつもり?」
「ひとつ、話を聞けそうなあてがあるんです」
にやっと僕が自信ありげに笑って見せると、お兄さんはくすくすと笑った。
「別に、敬語じゃなくていいよ。年が君より上ってだけで、俺は偉くも何ともないし。行動力なんかは君の方がよっぽどあるくらいだ」
お兄さんは、「改めて、よろしく」と言って右手を差し出した。
どういう意味なのか分からず一瞬戸惑ったが、慌てて僕も右手を差し出した。
線が細くて肌も白い、華奢なイメージだったが、お兄さんの手はごつごつしていて大きい。
こんな、大人みたいに握手をするのは初めてだった。
この人は僕を子どもじゃなくて、ひとりの人間として見てくれているんじゃないか。柄にもなく僕はそんなことを思った。
この日、この時から、僕とお兄さんのふたりの夏休みが始まった。
僕はこれから、きっと何度だってこの夏の日のことを思い出すだろう。
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