お兄さんと
目が覚めると、真っ白な布団の中にいた。
自分に何が起きたのか、そして今どこにいるのか、何もかもが分からず混乱した。
真っ白で清潔な、でもシップのような独特のにおいがする布団と、目隠しのカーテンを見て、小学校の保健室かと思う。
でも何かが違う。何かおかしい。
……そうだ、今は夏休みだから小学校は休みだ。
僕の首や頭には保冷剤がくっつけられていて、ひんやりしていて大変気持ちが良かった。
起き上がると、物音で僕に気付いたのか、カーテンの外から「大丈夫?」と声がかかった。
カーテンが開いて、白衣を着た女の人が現れた。
お母さんと同じくらいか、少し下か、そのくらいの年齢に見えた。下がった目じりと笑い皺が、優しそうな雰囲気を感じさせる。
「ここは大学の保健室。あなた、門のところで倒れたから、守衛さんがここに運んでくれたの。熱中症じゃないかな」
僕は、暑い中自転車を漕いできたせいで、熱中症になったらしい。
なんと、これが熱中症ってやつなのか。たしかに思い返せば、汗もすごい量だったし、すごく疲れたし、頭がぼんやりしていた。
夏休み前の終業式で学校の先生が口を酸っぱくして言っていた、熱中症の怖さ。思いがけず、身をもって体験してしまった。
これからは、どんなつまらない話でも、先生の言うことはちゃんと聞いておこう。次の始業式までには忘れそうな誓いを僕は心の中で立てた。
「飲み物持ってるよね? 飲んだ方がいいわよ」
「あ、持ってます」
保健の先生は、僕のリュックからスポーツドリンクを取り出して、渡してくれた。
ペットボトルは中心だけが凍っていて、周りが溶けていたので、ちょうどよく飲むことができた。
ひんやりとしていて、またいつもよりも甘く感じて、疲れた体に沁みる。
水分と糖分が脳までいきわたると、ぼうっとしていた頭がかなりすっきりと冴えてきた。
「さっき、あなたの身元が分かるかと思って、リュックを開けさせてもらったの。ごめんね」
「いや、大丈夫です」
いきなり訪ねてきた子どもが倒れては、プライバシーも何もあったものではないので、文句は言えない。
人の良さそうな笑顔を浮かべながら、保健の先生は思いがけないことを言った。
「お兄さんに会いに来たの?」
「えっ」
突然のことで、驚いて口ごもる。何で知ってるんだろう。
そんな僕の様子に気付いていないのか、先生はにこにこと笑いながら話し続ける。
「親御さんの連絡先が分からないと困るところだったけど、ちょうど写真を持ってきてくれていて良かったわ。古い写真みたいに見えたけど、最近はあんな風に加工して撮るのが流行っているのかしら」
意味が分からなかった。僕が黙っていても、先生は勝手に話している。
「お兄さん、夏休みなのに毎日のように大学に来てるから、守衛さんが顔を覚えていたのよ。勉強熱心なのね」
「ええと……」
そうだった。何かの役に立つかと思って、僕は仏壇からお父さんの写真も持ち出していたのだった。
それを見て、先生はお父さんをあの人と勘違いして……え、ということは、先生はあの人を知っているってこと……?
頭の中でぐるぐると、必死で考えていた時。
ちょうど保健室の引き戸が開いた。
入ってきたのは怖い顔の門番、いや守衛さんだ。
その後ろにいた人を見て僕は思わずあっ、と声を上げた。
あの人だ。
お父さん、じゃなくって、この前家に来た謎の人。
彼も、僕を見て大変驚いた顔をしている。
僕たちは顔を合わせるたびに、お互い驚いてばかりなのだ。
「ああ、良かった! 今日も来ていたのね。この子、熱中症で倒れたのよ。お兄さんだと思ってあなたを呼んだのだけど。親御さんと連絡取れるかしら」
先生はほっとしたように「お兄さん」に話しかける。
先生は全く悪意も疑いもないのだろうが、僕の目には、彼がどう答えたものかととても困っているように見えた。
「あー、そうなんですか。それは大変だ……でも俺は、親戚っていうか、知人っていうか、なんていうか」
僕は先ほどから考えていた口上を述べて、助け船を出そうとする。
「あの、僕、お兄さんに会いに来たんです、親戚の」
嘘ではない。というより、ほとんど事実である。複雑な事情がある故に。
ちなみにこの「お兄さん」は、若い男性という意味で親しみを込めて使わせてもらった。
会って早々に兄貴扱いしたわけじゃないってことは、後で言い訳させてもらいたいと思う。
「お母さんは仕事なので、しばらく連絡は取れません。僕、一人で帰れます。いつもは自転車に乗ってて体調が悪くなったことはなくて、今日はたまたま……だから大丈夫だと思います」
お母さんを心配させたくないし、何より絶対に怒られると思うので連絡は遠慮したい。
それに、いざ「お兄さん」と相対してみると、話しかけるどころか、僕は何も言えなくなってしまった。
明るい室内で立っている彼は、ごく普通の大学生のお兄さんという感じで、ほんとうにごく普通の、ひとりの人間だった。
あの日玄関で見た、蜃気楼のように消えそうだった彼とは、別人なのかもしれないと思うほどだ。
だから、戸惑った。ただの大人の男の人となんて、何を話せばいいのだろうか。
いきなり訪ねておいて、倒れるなんてへまをして迷惑をかけてしまったし、もう帰ったほうがいいはずだ。
「いや、熱中症を舐めてはいかん。一人で帰ってまた何かあったら大変だ。ちゃんと迎えに来てもらった方が良い」
そこで急に、部屋に入ってからずっと黙っていた守衛さんが声を挙げた。顔に見合った、渋く低いが張りのある声だった。
「そうねえ。心配だわ」
保健の先生も同調する。
だが、僕も母に心配はかけたくないので、と遠慮しているように見せて連絡先を言うことを頑なに拒否する。
そこで、通称「お兄さん」がおずおず、といった感じで切り出した。
「あ、じゃあ、俺がバスで送りましょうか。住所は知ってるし。自転車は置いといて、また今度取りに来ればいいし」
それなら大丈夫だろう、と保健の先生と警備員さんが納得したので、僕もそれに同意した。
僕はお兄さんに、ありがとうございます、よろしくお願いします、とぺこりとお辞儀をした。
お兄さんはなぜか「こちらこそありがとう」と言って、ちょっと笑った。
自転車で走った誰も居ない道路が嘘だったかのように、バスにはたくさんの人が乗っていた。
ほとんどのバス停に止まりながら、バスはゆっくり走る。
僕とお兄さんは、二人掛けの席に並んで座り、ちいさな声で話をした。
お兄さんには、突然家に押しかけて申し訳なかったと謝られた。
「今まで、提供者を探して、いろいろなところを訪ねてたんだ。普段はちゃんと事前にアポ取るんだけど、君の家は大学のすぐ近くだったし、電話番号も分からなかったから、どうせ空振りだし良いかと思って。それがまさか、本当に……」
見つかると思ってなかった、お兄さんはそう小さくこぼした。
「正直、もうほとんど諦めてたんだ。普通に考えて、見つかるわけないし。だから本当に、びっくりして……でも、君と君のお母さんは、もっと驚いたよな。傷つけてしまって、本当にごめん」
お兄さんは、辛そうな顔で頭を下げる。
「いや、傷ついてなんか全然ないです。たしかに、すごく驚いたけど。まあ、お母さんはあんな感じだったけど、お父さんの話のときは、いつもあんなだから」
つまり僕は、気にしなくていいと言いたかったのだが、彼は余計に気にしてしまったようだった。俯いて、自分の足元に目を落としながら言った。
「歓迎されないのは当然だと思う。他に訪ねた人たちも皆、嫌がってたし。そんなこと知って何になるんだって言われたこともあるし、その通りだと思うけど……それでも、本当のことが知りたくて、じっとしてられなくて……」
お兄さんは、そこまで言うと、ふいに黙り込んでしまった。
まだ言いたいことはたくさんあるのに、言葉にならないような、そんな苦しそうな顔をしている。
「歓迎されないのは当然」、彼はそう言った。
本当に、そうなのだろうか。僕にはわからない。
だって、実は会ったことのない兄弟がいたなんて話、そりゃあすごく驚くだろうけど、でも面白いと思わない人間なんて、いないんじゃないかな。
僕は一人っ子だ。
兄弟がいたらどんな感じかなあと考えることは、正直、あった。
でもそれは、明日の朝起きたらクリスマスになってたらいいなとか、学校の水道からジュースが出たらいいのにとか、そういう類の話と同じ。
僕にはお父さんもいないのだから、現実には絶対にありえない話だった。
そんな夢物語が、突然形を取って僕の前に現れてきて。
本当に本当に驚いて、意味が分からなくて、半信半疑で、正直今だって夢なんじゃないかと疑っているくらいなんだけど。
でも僕は間違いなく、
「うれしかったよ」
思わず、言葉が口をついて出た。
「お兄さんが来てくれて、本当は兄弟がいるって知って、本当にうれしかった。いや、兄弟って言っていいのかな、わかんないけど……」
お兄さんは驚いたように目を真ん丸にして、そして、ふわりと笑った。
切れ長の目が優しそうに細められた。
あ、この顔見たことあるな、と思ったが、それはきっと勘違いだ。
多分、あの写真の表情とよく似ていたから。ほんとうに、この人はお父さんとそっくりなんだ。
「俺も、今日、君が会いに来たと言ってくれたとき、本当に嬉しかった。本当はずっと、もし血のつながりがある兄弟がいるなら、会ってみたいと思ってたんだ……」
お兄さんも、僕と同じことを思ってたんだ。
二人の共通点を見つけた気がして、こそばゆいような、誇りに思えるような、ふわふわした気持ちがした。
もちろん、ここで「僕を本当の弟だと思って」だとか、「僕は君の兄なんだ」なんて会話は出てこない。
安いドラマと違って、繊細な心を持つ僕たちは、会ったばかりでそんな不躾なことは言わないのだ。
安っぽいセリフの代わりに、僕は聞いた。
「お父さんに会えたら、どんなことが知りたかったんですか」
これも何だかありきたりな質問だったかな、と思ったけど、お兄さんは真面目な顔で考え込みながら答えてくれた。
「……やっぱり、どうして提供をしたのかとか、自分の提供で生まれた子どもをどう思うかとか、聞きたかったな」
窓ガラスから、昼間の日差しが直に差し込む。
光に照らされて、お兄さんの顔がはっきりと見える。
家で見た時以上に、お父さんの写真と瓜二つで、どきりとさせられた。
「でも一番は、どんな人か知りたかった、っていうだけ。自分はちゃんと、血が通った人間から生まれたんだと知りたかった。試験管の中で作られた人造人間なんかじゃないんだって、確認したかったんだ」
人造人間。
その言葉につきまとう冷たさといったら。
僕は何故だか、涙がこぼれそうになった。
その後、お兄さんとは一言二言話をしたはずだった。
でも、この言葉ひとつが、僕の頭の中をぐるぐると旋回し続けていたおかげで、他のことはあまりよく思い出せない。
バスはゆっくりと、それでも自転車よりはるかに速いスピードで、僕とお兄さんを連れていった。
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