自転車漕いで

 次の日の朝、お母さんは仕事に行って、僕は家で一人になった。

 一見、僕は彼のことをまったく忘れてしまったように振る舞っていたが、本当は探求心と冒険心がむくむくと湧き上がっていた。

 平凡な少年の前に現れた、死んだ父親そっくりの謎の男。

 一人っ子だと思っていた僕には、血のつながった兄がいた。

 こんな物語のような展開を見せられて、暇な小学生が黙っていられるはずがない。


 お母さんを見送り、例の細すぎる棒アイスを一本食した後に、僕はリュックに、家の鍵、昨日から凍らせておいたスポーツドリンクを詰めた。

 着替えたらいつも通り仏壇に手を合わせ、金属のおわんのようなあれをチーンと鳴らす。いつもはしないのに、ふとお父さんの写真を手に取ってみたりして。

 窓のカギ、ガスの元栓をしっかり確認して、玄関にもきちんとカギを掛けてから、家を出る。

 鍵っ子生活が長いので、家を留守にする際の決まりには慣れたものだ。


 青い空に太陽が燦燦と輝いているおかげで、外は相変わらず蒸し暑かった。

 上からの熱に加え、地面のアスファルトからも熱気が襲ってくるようだった。サンダルが焼けこげてしまいそう。

 これでも午前中だから、昼過ぎよりも暑さはきっとましなはずだ。そう自分に言い聞かせながら駐輪場に向かった。

 前後に子ども用のイスがついた自転車の隣、駐輪場の一番端が僕の自転車の定位置だ。

 去年の誕生日に買ってもらった濃い青色の自転車は、もう大人用と変わらない大きさで、どこまででも漕いで行けそうだと思う。


 ふとアパートの方を振り返り、自分の部屋を見る。

 この距離なら、視力が良ければ窓の方までよく見える。彼にも、もしかしたら僕の顔が見えていたかもしれないと思った。

 僕は自転車を漕ぎ出した。

 蝉の声に追われながら坂道を駆け下りていくと、いくらか体に風を感じて少しだけ気持ちが良い。

 風で少し頭が冴えたところで、大学までの道のりを思い出す。


 謎のお客様の彼の話によると、彼はこの近辺ではよく知られているあの大学に通っているという。

 その大学で、秋にはにぎやかな学園祭を行っていることは、僕でも知っていた。

 学園祭の日はたくさんのお店が出て、有名人がゲストで呼ばれることもある。僕も焼きそばやチョコバナナを食べようと、友達と一緒に何回か遊びに行った。

 そこはとても優秀な大学で、毎日何時間も勉強しないと入れない場所なんだと、高校生の兄を持つクラスメートが言っていた。自分のことでもないのに、なぜか偉そうに話していた。

 それほど優秀な学生なら、夏休みも毎日学校で勉強しているかもしれない。そもそも、夏休みなんてないかも。

 だから、とにかくその大学とやらに行ってみて、彼に会ってみようと思った。

 それ以外に方法なんて思いつかなかった。彼のことなんて、他に何も知らなかったのだから。


 いつもなら、隣の市まではだいたい三十分から四十分というところだろうか。

 自転車に乗ってしばらく経つが、いつまでたっても進んでいる気がしない。

 見える景色はアパートの近くにもある、濃い緑の葉っぱの木ばかり。

 聞こえる音は、アブラゼミとツクツクボウシが交互に鳴くやかましい音だけ。

 この暑さでは外に出ている人もほとんどいなかった。蝉の声は大きく響き渡っているのに、人の気配がないから辺りは静かだった。


 聞こえるのは僕の自転車の機械的な音だけ。

 何度も何度も顔の汗を拭っている途中に、ふと気付いた。 

 いつも自転車で行って不便を感じなかったのは、学園祭の日だったからだ。

 学園祭はいつも十一月で、気候が良くて涼しいくらい。だから自転車で出かけるのにちょうど良かった。

 いつも行く時とは時期が違うのだということを、拭いきれない汗の水滴が目に入るようになって、やっと思い出した。

 同時に、隣の市まで続く国道は、緩やかな上り坂が長く続くこと、大学への近道は急な上り坂になっていることも思い出し、僕は自分の考えの足りなさをひとり呪った。

 しかし家に帰っても何も面白いこともないし、これまでの努力が無駄になる。他に行きたいところもない。

 仕方なく、太陽にじゅうじゅうと焼かれながら、がしがしと漕ぎ続ける。


 国道を抜け、最後の難関だったきつい坂を超えたら、ついに目の前に、工場のような白い大きな建物の群が見えてきた。

 正直けっこう、いやかなり疲れた。

 汗もひどく、足も疲れて、満身創痍。たったの数十分自転車に乗っただけでこれだ。僕は自分の体力のなさにショックを受けた。

 やっぱり運動不足だろうか。

 僕がそう言うと、お母さんはいつも、子どもらしくない、外で遊んできなさいと言う。

 でも、僕はもう外で走り回って遊ぶような年じゃないんだ。クラスの他の子みたいに、習い事もしていないし。運動不足になっても、仕方ないと思う。


 僕だって昔は、クラスみんなで鬼ごっこやらドッチボールやらで遊んでいたんだ。運動が得意な奴も苦手な奴も、みんなで集まって。

 しかし、小学校高学年にもなると、いつの間にか休み時間は、教室で過ごすことが多くなった。話題は漫画やアニメ、アイドル、担任の先生の噂話とかそういうものだ。

 外で遊んでいるのはサッカーとか野球のクラブに入っているような、運動神経の良い奴らばかり。

 何も習っていない、運動も得意じゃない僕みたいな奴は気後れしてしまって、外で遊ばなくなる。


 夏休み、クラスの子たちはスポーツクラブの大会に行ったり、家族で旅行に行ったりして、きっと忙しく過ごしているんだろうな。

 確証はないが、そんなことを思うと、誰かを遊びに誘うのは面倒になる。

 僕は携帯電話を持っていなかったし、家には固定電話もなかった。

 友人に連絡を取るためには、家に行くか、お母さんの携帯で電話してもらう必要があった。

 学校で遊ぶ友人は何人もいた。でも、夏休みにそこまでして遊びたい友人はいなかった。

 だから、夏休みが始まってからは、僕はほとんど家にいた。

 一人でいると、何もやる気が起きず、日がな一日ぼうっとして過ごすことになる。

暑いからかもしれない。無気力で、退屈だった。

 小学校だって別に毎日楽しいというわけでもなかったが、話し相手もやることもあった分まだましだった。


 今までは感じたことがなかったが、最近何かずっと心の中がもやもやしている。

 やりたいことも、楽しいこともない。

 子どもなら何でも真面目に無邪気に楽しむものだと言われてもそう思えなくって、大人たちからは子どもらしくないと失望される。

 でも、どうすれば、前みたいに何も考えずに、何もかも楽しく過ごせるのか。考えても答えは出ない。僕には何も分からなかった。


 しかし、そんな僕でも、いや、だからこそ、か。今回の事件にはさすがに心が躍った。

 生まれて十数年にして初めてその存在を知り、僕の前に現れた兄。

 彼が何か面白い事件を運んでくれるんじゃないかと、正直僕はわくわくしていた。

 子どもらしくないとかなんとか言われても、結局僕はまだ子どもで、お母さんや彼の考えてることなんてよく分からない。ただただ、楽しかった。


 大学の正門らしきところに着くと、人が二人並んで入れるくらいの広さで門が開いていた。

 自転車から降りて、手で押しながら門をくぐる。

 門のすぐ横には小さな小屋があって、中には厳めしい顔つきのおじさんが座っていた。

 おじさんの鋭い眼がギラリと光り、僕を見た。

 もしかしてこの人は、門番というやつなのか。

 なぜここに来たのか、理由を説明しなくてはならないのかもしれない。

 何から話せばいいのだろうか。頭が上手く回らず、言いたいことがまとまらないままとにかく小屋に近寄ると、おじさんが慌てて立ち上がるのがわかった。


 そこで僕は自分の頭がぼうっとしていることに気付く。

 手に力が入らず、自転車を倒してしまった。

 あわてて自転車を起こそうとしてしゃがんだら、立ち上がれなくなってしまって、地面に座り込んだ。

 アスファルトは熱くて硬いけど、なんだかそこにうずくまりたくなって体を丸める。

 おじさんが僕のそばに来て、何か言っている。

 何も聞こえないし、聞きたくもない。

 頭ががんがんする。まるで、インフルエンザになった時みたいだと思う。

 視界が白くなったり、黒くなったり。

 混乱する。何が起きてるんだろう。怖いよ。

 何も分からないまま、僕は意識を失った。

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