きょうだいとは

 僕は物心ついてから、自分の父親というものに会ったことがなかった。

 僕にとって父親の定義とは、「リビングの片隅に置かれた小さな仏壇にある、小さな若い男の写真」である。

 僕の生まれる少し前に、公園で穏やかに微笑んでいる姿を撮った一枚。

 生前のお父さんの姿をよくとらえたものだというから、きっと遺影としてふさわしいものなのだろう。

 さらに言えば、けっこう男前に撮れているんじゃなかろうか。いわゆるイケメンってやつ。


 お父さんは、僕がまだほんの赤ん坊の頃に、道路に飛び出した子どもを助けて、車に跳ねられたんだそうだ。

 おかげで、青いスモッグを着て走っていたやんちゃなのその子は、かすり傷だけで済んだ。

 代わりにお父さんは、数週間生死の淵をさまよって、結局帰らなかった。

 涙を流して謝罪した子どもの両親も、よく分からないけれど自分が何か大変なことをしでかしてしまったのだと気付いて泣くその子も。

 みんな、お葬式の後にはぱったりと姿を見せなくなり、今ではどこで何をしているのかも知らないという。


 遠くの地方に住んでいた父方のおばあちゃんは、僕の家に来るといつも、仏壇の前でそのことをぶつぶつと話していた。


「命の恩人のことを忘れて、のうのうと生きているのに違いない。あの子は父の顔さえ知らないというのに……」


 おじいちゃんは、そう言うおばあちゃんの背中にいつも手を添えて、じっと黙って俯いていた。

 二人は、僕にとても優しくしてくれていた。僕はたまに会える二人のことが大好きだった。

 それなのに、大好きだったおじいちゃんとおばあちゃんが、その時だけは何故か怖くてたまらなかった。

 僕は二人の、小さく震えるその背中を見ていることができず、お母さんにしがみついた。

 あの時も、お母さんはどんな顔をしていたのだろう。

 思い出せないけれど、きっと悲しい顔をしていたんじゃないかと思う、なんとなく。

 そんな二人も、4年前と2年前に前に亡くなってしまって、もう会うことができなくなってしまった。

 同じ会えない人でも、お父さんのことを考える時と、おじいちゃんとおばあちゃんのことを思い出す時では、僕の感じる気持ちは全然違った。

 おじいちゃんとおばあちゃんのことを思い出すと、すごく昔のことってわけでもないのに、懐かしい気持ちになる。でも、同時に、心臓がしくしくと痛くなる。

 楽しいことだけ思い出せたらいいのにな。これが、寂しいって気持ちなんだろうか。僕にとっては「なんか痛い、なんか苦しい」って感じだけど。

 でも、お父さんのことを考える時は、痛みを感じたことは無い。いつも夢を見ているような感じだった。不思議な夢。ドラマや漫画の主人公が、もし自分だったら、どんなことをしたいだろう、って、考える時と同じだ。



 でも、今の僕の現実は、ドラマや漫画で見たどんな景色よりもヘンだ。

 仏壇の前の、お父さんの写真の前に、そこからそっくりそのまま出てきたような姿の男の人が向き合っている。

 自分の写真に向けて手を合わせているみたいだった。面白いような、むしろ不気味なような。


 さっき、玄関先で、驚きすぎてカチコチに固まっていた僕たち親子に、彼はずいぶん戸惑ったらしい。正直、ちょっと不審者感すらあった。

「突然すみません。自分は怪しいものではないのですが……ええと、あの、どうかしましたか……? あの、決して怪しいものではないのですが……大丈夫ですか? すみません、本当に変な人とかではないんですけど」


 そこでようやくお母さんは我に返って、何が何だか分からないが、とりあえずとその人の話を聞くことにした。

 あまりにもその人がお父さんに瓜二つだったので、他人とは思えなかったらしい。

 彼は、隣の大きな市にある大学の学生だという。

 だから、当然のことだけど、彼はやっぱり僕のお父さんではなかった。

 もちろん分かってはいたんだけれど。本当に、そんなことあるはずないって分かっていたんだけど。でもやっぱり少し、いやけっこう、残念だった。


 お母さんは、彼のことをあまり歓迎していないようだった。警戒していたのかもしれない。

 話していても終始硬い表情で、笑顔を見せることもない。

 僕は、いつも他人には愛想がよいお母さんがなぜ、そのような対応をするのか分からなくて、少し戸惑った。

 一方の僕は、彼がお父さんではなかったことにがっかりしながらも、突然のお客様に興味深々だった。


 彼の話からすると、僕のお父さんと彼は、血が繋がっているかもしれない、らしい。

 事情は聞いていてもよく分からなかったが、そういうことらしい。

 それってつまり、僕とこの人は、きょうだいってこと?

 僕には、きょうだいがいたの?

 どういうことなのか、気になって気になって仕方ない。


 しかし無情にも、お母さんに他の部屋に追い立てられた。

「あんたはあっちに行ってなさい! 早く!」

「え……でもさあ」

 もちろん僕は渋った。

「いいから! 早く!」

 しかし、いつもと違うお母さんの様子に気圧され、渋々、僕はリビングを出て、廊下の右手にある部屋に入った。

 その部屋は、主に僕が一人で使っている部屋だった。

 エアコンがついていないので、夏は暑く冬は寒い。

 部屋に入ったとたんに、Tシャツの下から汗が噴き出てくる。僕は扇風機のスイッチを入れて、風量を最大にした。

 追い出されてはしまったが、僕はこのままただ大人しくしているつもりはなかった。


 部屋と廊下の間のドアを少し開ける。

 廊下に顔を出して、会話を盗み聞きしようと耳をすませた。

 しかし無情にも、リビングのドアはぴっちりと閉められていて、話し声も冷気も全く流れてこない。

 次に部屋の壁に耳をくっつけ、何か一言でも聞こえやしないかと考える。

 この安アパートは壁が薄いので、普段はリビングのテレビの音や笑い声はもちろん、隣人の鼻歌でさえ聞こえたものだった。

 しかし、今日は二人とも静かに話しているのか、それともただじっと黙っているのだろうか、物音一つ聞こえてこなかった。

 僕はがっかりして、深々とため息をついた。


 仕方なしに、僕はさっきのお客さんが話していた言葉を思い出した。

「自分はせいしていきょうを受けて生まれて……」

「遺伝上の、本当の父親を探していて……」

 せいしていきょうって、一体なんだろう。他には、なんて言ってたっけ。

 そう考えていた時だった。

 ぎしぎしと軋む音がする。

 リビングのドアが開いて、軋む廊下を歩く二人分の足音だ。

 僕は慌ててドアを閉めた。心臓が、ドキドキしている。

 え、もう帰っちゃうの?

 ほんの少しだけドアをあけて、そっと廊下の様子を伺った。

 お母さんは、じっと黙っている。


 彼はお母さんに何か言いたげだったが、お辞儀をして、外に出ていく。

 ドアが閉まる直前、彼がちらりと、こちらを見たような気がした。

 目があったかもしれないと思って、どきりとする。特にやましいことがあったわけではないが、なぜか。


 外の光が入ってきて急に明るく、騒がしくなった廊下が、ドアが閉まるとまた薄暗く静かになる。

 玄関を開ける前よりもなぜか、影が色濃くなったように感じた。

 じっと廊下に立ち尽くすお母さんの背中が、そう感じさせたのかもしれない。


 僕はお母さんから視線をそうっとはがすようにして、窓の方へ向かう。

 このアパートは、小高い丘のような場所にあった。

 僕の部屋からは駐輪場と、丘から降りるための坂道が見える。ゆるやかに右にカーブしている道の両脇には、濃い緑の葉が生い茂る木が立ち並んでいる。

 外を観察していると、彼らしき人物の後ろ姿が現れた。

 駐輪場に止めていた自転車にカギを差して、坂に向かう。

 坂の直前で、彼はアパートを振り返り、たくさんの窓が均等に並ぶ壁に視線をさまよわせた。


 もしかしたら、僕の部屋を探していたのかもしれない。

 僕は、カーテンで顔を隠して、なんとか目だけを外に向けていたから、多分僕の姿は見えなかったと思う。

 彼は自転車を漕ぎだした。

 長い坂道を、自転車は滑るように走って行く。

 何度も何度もこちらを振り返るから、いつか転ぶんじゃないかと心配で、僕は曲がり角に消えていく彼を、見えなくなるまで見守っていた。



 その後、お母さんと僕は、何事もなかったかのように過ごした。

 僕は、謎のお客様について聞きたかったが、できなかった。

 お母さんは明らかに「何も聞いてくれるな」というオーラを体全体、毛穴の一つ一つから放出しているものだから、僕は遠慮してしまったのだ。


 お母さんは、お父さんに関する話になると、いつもそういう態度を取る。

 どうしてお母さんは、お父さんの話をしたがらないのかと、以前、叔父さんにこっそり聞いたことがある。

 叔父さんはお母さんの弟だ。仕事で出張があると、いつも僕にお土産を買ってきてくれるような、やさしく楽しい叔父だ。

「お母さんは、お父さんのことが、嫌いだったのかな……」

 深刻な顔で聞いた僕に、叔父さんはいつものようにやさしく、けれど寂しそうに言った。

「君のお母さんは、お父さんのことが本当に好きだったから……きっと今でもお父さんのことを思い出すだけで、辛くて悲しくなるから、何も話せないんだと思うよ」

 もう何年も前のことなのにな。

 そう言った叔父さんの目は微かにうるんでいた。

 いつも明るい叔父さんまでもが、あんなに寂しそうな顔をするのだと知ってから、僕はお母さんにも、他の誰にも、お父さんのことを聞かなくなった。


 だから、僕はお父さんのことを、ほんとに何も知らないんだ。

 知っているのは写真で見た顔だけだ。

 赤ちゃんだった時のことなんて、僕も覚えているわけないし。

 僕のお父さんは、どんな風に僕の「父親」をしてくれていたんだろう。

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