死んだはずの父が帰ってきた話 ~お兄さんと僕の夏休み~

日野月詩

僕のお父さん

 その日も、いつものように暑かったはずだ。


 小学校の最後の夏休みが始まったばかりなのに、退屈で退屈で仕方なかった。

 何か楽しいことが起きたらいいのにと思いながら、でもあるわけないって分かっていた。そのくらい、いつもと何も変わらない普通の日だった。


 比較的過ごしやすい気温になるという昨日の天気予報は外れて、朝から昼すぎまで温度はがんがんと上がり続けていた。

 コンクリートでできた古いアパートは風通しが悪く、そこらじゅうの窓という窓を開けても少しも涼しくならなかった。


「お母さん、エアコンつけようよ!」

「でも、午後は涼しくなるって、昨日天気予報で言ってたじゃない」

「そんなの、当たらないって」

「それに、節電しないと、お金がもったいないでしょ。身体が冷えちゃったら、調子も悪くなるし」

 お母さんは冷え性で、冷房の強くてひんやりした風が苦手だった。

 でも、僕は負けずに主張し続けた。

「このままじゃ熱中症になっちゃうよ!」

「あ~暑い暑い。暑くて何もできない!」

「エアコンつけてよ! エアコン!」

 お母さんは「もう黙んなさい」とうんざりしたように言った。

 そして、ついに根負けしたのか、仕方なく条件を出した。

「……じゃあ、部屋の温度が三十度を超えたらつけよう」

 リビングには、温度計や日付を表示する機能のついた、教科書くらいの大きさのデジタル時計がある。

 僕の家はこの時計を基準にすべてが決まっていた。

 朝ごはんを食べる時間。家を出る時間。エアコンをつけるかどうかの判断。今日は何日だったっけと確認する時にも見る。


 僕はお母さんの目を盗んで、それを手でこすったり、薄いTシャツを伸ばして懐に入れたりして温めた。

 そのかいがあってか、数十分後にはエアコンを使うために必要な温度を超えていた。

 お母さんの許しを得て、僕はやっと快適なオアシスを手に入れることができたのだった。


 涼しい部屋で、十二本入りの細くて小さいバニラの棒アイスを食べていた時だった。

 ピンポーン、と間の抜けた音が鳴る。チャイムの音だ。

 この暑い中、誰かが家に来たらしい。集金か、回覧板か。

 僕はお母さんをちらりと見て、玄関に向かった。

 エアコンをつけてもらったので、そのくらいはしますよ。そのような態度で胡麻をすることで、明日の熱中症対策のための伏線とする。 

 僕はアイスを食べながら、短い廊下を歩いて玄関に向かった。

 アイスはもう半分くらい食べてしまっていた。子どもの大量消費用の棒アイスは、二分もあれば口の中で溶けて消えてしまう。

 玄関に向かう廊下はエアコンの恩恵を受けておらず、暑かった。

 だが、それでも外よりも随分涼しかったんだなと、玄関のドアを開けて気づいた。


 ドアを開けると、むわっとした湿気た熱気と、眩しい日差し、喧しいセミの声が同時に流れ込む。

 僕は、目の前に立った男の人を見上げた。

 最初は眩しくて、逆光になった顔がよく見えなかった。

 でも何故だか、ふいに、ああ懐かしいなあ、そんなことを思ったような気がする。


 僕の目の前には、所在なさげに佇む、若い男。

 線が細くて、とても背が高い。あまり日焼けのしていない色白の肌は、どこか不健康そうな感じ。飾り気のない白いシャツと黒いズボンを履いていて、ほとんど汗もかいていない。

 見た目を総合した印象が、その人を、夏の蜃気楼のような、どこか現実感のない人影に思わせていた。


 そして、太陽に雲がかかったのか、僕の目が強い光に順応したのか。

 急に、その人の顔がはっきりと見えた。

 緊張したようにこわばった表情。

 切れ長の目が視線をわずかに下げて、僕を見た。

 僕は、すぐに分かった。

 お父さんだ。

 これが、お父さんなんだ。

 ああ、帰って来たんだ。そうなんだ。

 そう思ったのに、何も言えなかった。

 ただ彼の顔を見つめた。


 僕たちは無言で見つめ合った。

 右頬に二つほくろがある。これは写真にはなかったような気がする。いや、あったか。どうだっけ。

 その時間が一瞬だったのか、何時間もそうしていたのかは分からない。


 背後のすぐ近くに人の気配がして、はっと我に返る。

 玄関から物音がしないことを不審に思ったのだろう、いつの間にかお母さんが現れ、僕を自分の後ろに押しのけた。

 微動だにしない僕を背で隠して、彼に相対する。

 お母さんは彼の顔を見て、ぴたりと不自然なほどに動きを止めた。

 再び、無言。

 僕には後頭部しか見えなかったが、その時お母さんは一体どんな表情をしていたのだろう。

 驚きなのか、怯えなのか。悲しみなのか。

 それとも、喜びだったのだろうか。

 でもきっと、お母さんはそれを僕に見られたくはなかっただろうと思う。

 いつの間にかアイスは全て溶けてしまって、小さな木の棒だけを僕は赤子のようにくわえ続けていた。

 あれだけうるさかった蝉の声も、何故か聞こえなかった。

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