手を取り合って、カップルダンスを踊る

一布

手を取り合って、カップルダンスを踊る



 バチンッ、と乾いた音が響いた。


 何が起きたのか、分からなかった。した方も、された方も。何が何だか分からない。


 安アパートの一室。三階建ての二階。二LDK。そのリビング。


 キッチンは独立しておらず、リビングの一部となっている。


 蒸し暑い夏の夜。換気扇は点けっぱなし。


 その換気扇の風車音よりも大きな、乾いた音だった。


 村田洋平むらたようへいと、その妻の美咲みさき。二人は、ただ呆然と立ち尽くした。


 平凡な容貌の夫。変わっているところがあるとすれば、その体に無数の傷や火傷の痕があることか。そんな夫に対して、妻は、絶世の美女と言っていい顔立ちをしている。


 一方は、頬を平手で打たれて呆然としていた。

 一方は、相手の頬を叩いて呆然としていた。


 これまでの出来事が、互いの頭の中に蘇っていた。この家庭内暴力が発生するまで──ではない。それよりも、はるか昔。二人が出会った頃から、今までの出来事。


 互いが、互いにとって、何よりも大切な存在となるまで。まるで走馬灯のように浮かぶ、思い出。


 幼い頃の洋平は、虐待を受けて育った。五つ年下の弟がいた。弟とともに、毎日父親から虐待を受けていた。


 母親は、息子達には無関心。小さな弟を守るのは、洋平だけ。だから洋平は必死だった。弟を守るために、体を張った。自分の体を盾にして、傷だらけになりながら弟を守っていた。


 けれど、守れなかった。父親の凄惨な虐待から守り切れず、弟は殺された。


 両親は刑務所に入り、洋平は、児童養護施設に入れられた。


 妻の美咲は、裕福な家庭に生まれた。旧姓は笹森ささもり。一般的な家庭よりもはるかに経済的に恵まれていた。その反面、親の愛情には恵まれなかった。


 美咲の母親は、男をつくって出て行った。父親は、いつも違う女を家に連れ込んでいた。美咲に与えられるのは、金だけ。父親と同じ建物の中で暮らしながら、独りで生きていた。


 親の愛情を受けられなかった。求めても、求めても。だから、優しさをくれる人を探すように、十三歳の頃から売春をしていた。


 そんな二人の出会いは、偶然だった。


 売春をしていた美咲は、暴力団が関わる風俗店の客を奪ってしまっていた。暗い路地で、暴力団に絡まれた。


 洋平は、その場面に遭遇した。たまたま。ほんの偶然に。


 洋平の心の中には、弟を父親から守れなかったという後悔があった。強者の暴力に晒される弱者を、助けたかった。弱い者を守れる人間になりたかった。


 そんな洋平だから、美咲を助けようとした必然。


 洋平は、ただ、守るべき人がほしかった。愛し、守ることを欲していた。その役目を、美咲に求めた。


 美咲は、見返りなく自分を守ってくれる洋平を、心の拠り所にした。


 偶然の出会い。でも、惹かれ合うのは必然だった。


 当たり前に求め合った二人は、軽犯罪を重ねながら時間を共にした。やがて警察に捕まり、矯正施設に入れられた。少しの間、離れ離れになった。


 けれど、心は離れなかった。


 施設を出た洋平は、施設職員の手助けもあって、大手の食品工場に就職できた。給料は高くないが、生活は十分可能だった。美咲と二人で暮らせる安いアパートに入居した。賃貸の保証人には、逮捕に関わった警察官がなってくれた。


 一緒に暮らし始めてすぐに、洋平と美咲は結婚した。洋平が二十一歳、美咲が二十歳のときだった。


 あれから三年。


 特に喧嘩をすることもなかった。裕福とは言えなかったから、ちょっとした家具は自分達で手作りしていた。リビングの隅の棚には、工具箱が置いてある。まだ子宝には恵まれなかったが、幸せだった。


 たとえ死んでも、この人と離れたくない。そう想い合う二人にとって、一緒に暮らせることは何より幸せだった。


 二人を結ぶ、左手の結婚指輪。


 左手の薬指は、心臓に直接繋がる場所。そこに指輪をはめて、互いが、互いの心臓で繋がり合う。相手の血になって、相手の体を巡る。だから、ずっと一緒。そんな言葉を体現するように、二人の心はひとつになった。


 ひとつになった、と思っていた。


 だが、ほころびが生まれた。

 ほんの数分前に。


 今日は、洋平の会社の慰労会があった。端的に言ってしまえば、飲み会だった。


 酔った上司に、風俗に誘われた。


 最初は洋平も断った。反面、上司の心証が悪くなることはしたくなかった。いつか美咲と子供をつくりたい。幸せに暮らしたい。生活の基盤を安定させるため、出世したかった。


 出世のことを考えると、繰り返される上司の誘いを断り切れなくなった。


 仕方なく、洋平は上司とともに風俗店に行った。


 とはいえ、美咲以外の女と肌を重ねる気になどなれなかった。たとえ、本番行為がないとしても。だから、店に入っても何もしなかった。付いた女の子に事情を話し、時間まで、取り留めもない会話をしていた。


 女の子が自己紹介をするときに渡された名刺は、懐にしまった。


 店を出て、帰宅して。

 帰りが遅くなったのに、美咲は寝ないで待っていてくれて。


 洋平が部屋着に着替えているときに、美咲に見つかってしまった。風俗店で渡された、女の子の名刺。


 途端に、美咲は怒った。ひどい剣幕だった。洋平の弁解などまったく聞かず、話す余裕さえ与えず、怒鳴っていた。まるで、追い詰められた野良猫のようだった。毛を逆立てて相手を威嚇する、野良猫。


 この安アパートでは、隣に声が聞こえるんじゃないか。それくらい、美咲は大声で怒鳴り散らした。


 理性が感じられないほど怒る美咲の顔を見て、洋平の脳裏に、暗い影が現れた。大きく凶暴な人影。何もかもを奪い、壊す人影。その人影が、洋平の頭の中で大きく手を振り上げた。


 洋平の心で、何かが弾けた。意識が飛んだ。


 気がつくと、洋平の目の前で、美咲が頬を赤くしていた。

 気がつくと、洋平の手の平に、ジーンとした痛みがあった。


 洋平が、美咲を引っ叩いた。

 互いにその事実に気付くと、互いに謝り合った。


 殴ってごめん。

 怒鳴ってごめん。


 涙声で、謝り合った。


 相手を失うのが恐い。

 この絆を、なくしたくない。


 二人とも、ただそれだけを考えていた。


  ◇


 洋平に叩かれた左頬が、少しヒリヒリする。

 驚いた。まさか、洋平に手を上げられるなんて。

 自分が、あんなに我を忘れて怒鳴り散らすなんて。


 頬以上に痛む胸を抱えながら、美咲はベッドに入った。


 寝室のダブルベッド。


 謝罪以外の言葉を交わせないまま、洋平は先に寝てしまっていた。


 ベッドの上で、隣に、洋平の体温を感じる。


 寝間着にしているTシャツ。蒸し暑さで、少し汗が滲んでいる。


 美咲は洋平に背中を向けて、体を丸めた。


 先ほどの自分の行動に、嫌気が差していた。洋平が他の女と体を重ねた。そんな場面を想像すると、どうしようもなく恐くなった。彼が、自分のところから去って行くような気がして。捨てられるのではないか、と思ってしまって。


 恐くて恐くて、自分を抑え切れなくなった。だから、洋平に口を挟む余裕すら与えず、怒鳴り散らした。決壊したダムのように、汚い言葉が口から吐き出された。


 私は、何をやっているんだろう? 洋平を責める資格なんて、私にはないのに。


 洋平は、美咲以外の女を知らない。彼はずっと一途でいてくれた。心においても、体においても。


 でも、自分は違う。洋平と出会うまで、数え切れないほどの男と寝ている。名前も知らない男の前で、裸になって。何人もの男を、自分の上に乗せて。


 そんな自分に、洋平を責める資格なんてない。重すぎる自己嫌悪で、美咲は息苦しささえ感じた。洋平は、こんな自分を好きになってくれたのに。自分なんかを好きになって、自分なんかと結婚してくれたのに。


 涙が出そうになった。こんな自分が、嫌で、嫌で。


 美咲は強く目を閉じた。泣きたくない。泣いちゃいけない。悪いのは、自分なんだから。


 もう二度と、こんなことはしない。美咲は固く誓った。


 洋平は、私なんかを大切にしてくれる。それだけで十分なんだ。


 たとえ洋平が私以外の女と寝たとしても。それも、当然の報いだ。


 私は、こんな女なんだから。


  ◇


 こいつを守りたいと思った。

 何があっても守りたい、と。


 美咲。


 美咲と出会った当初、洋平にとって、彼女は弟の代わりだった。大切な弟。たったひとりの、家族と言える弟。どんなことをしても守りたかった。


 でも、守れなかった。


 弱い自分。守れなかった後悔。失ってしまう悲しさ。助けられなかった罪悪感。心を縛る、過去の傷。


 美咲と出会ったばかりの頃、洋平は、彼女を守ることで自分の心を埋めようとしていた。弟を失ってしまったことで空いた、心の穴を。


 けれど、いつの間にか、気持ちは変化していた。


 弟の代わりじゃない。守るべき対象じゃなく、一緒に生きていたい人。死ぬまで人生を共にしたい人。


 だから一緒に暮らした。結婚した。誓いの指輪を交わし、同じ道を歩み続けると決心した。


 それなのに、手が出てしまった。怒鳴り散らす美咲を見ていると、頭の中に暗い影が浮かんできた。凶暴で、大きな影。大切なものを壊そうとする影。


 その影が手を振り上げた瞬間、洋平の目の前は真っ暗になった。


 気が付くと、手が出ていた。美咲を叩いていた。


 手の平に残る、美咲を平手打ちした感触。大事な人を殴った。傷つけた。


 自分の命よりも大切なのに!


 それなのに、どうして。

 どうして、あんなことをしてしまったのか。


 美咲に怒鳴られているときに脳裏に浮き出た、暗い影。それが何なのか、洋平自身にも分からない。だが、その影が自分の理性を奪ったことだけは分かる。


 こんなこと、二度としたくない。もう二度と、美咲を傷つけたくない。


 悔しさと悲しさに涙を流しながら、洋平は自分に言い聞かせた。自分自身に誓った。


 どんなことがあっても、自分を見失ったりしない。理性を奪われたりしない。


 これから先も、ずっとずっと、美咲と一緒にいたいから。


 死が二人を分かつまで、ともに生きていたいから。


  ◇


 相手を悲しませたくない。傷つけたくない。誰よりも、何よりも大切だから。


 そう思っているはずなのに。


 洋平が初めて美咲に手を上げてしまった、あの夜。


 あの一夜から、全てが変わってしまった。


 まるで防波堤が壊れてしまったかのように、二人の感情は、簡単に暴走するようになった。


 美咲が少しでも不機嫌を表すと、洋平の脳裏に暗い影が浮かぶようになった。大きく凶暴な影。自分の大切なものを奪い、壊してゆく影。


 洋平が少しでも他の女に関わると、美咲は彼を激しく罵るようになった。周囲の者を敵とみなして威嚇する、野良猫のように。


 洋平の理性が霞のように消え、気がつくと手を上げている。


 美咲の頬を叩く音で、互いに理性を取り戻す。


 美咲は、口汚く罵ったことを謝って。涙目で、別れないでと繰り返して。


 洋平は、手を上げたことを謝って。涙ながらに、大事にしたいのにと繰り返して。


 言葉と手の暴力。泣きながらの謝罪。こんなことはしたくないのに、同じ事を繰り返してしまう。言葉の暴力も、単純な暴力も、簡単に出るようになってきている。その一線を、容易に越えるようになってきている。


 いつの間にか、そのやり取りは毎日続くようになった。暴力が、日常になってきた。


 そして、ある日。

 とうとう一つの境界線を越えた。


 いつものように、美咲が洋平を責めて、罵って。

 いつものように、洋平が手を出してしまって。


 でも、いつもとは違った。


 美咲の頬を打ったのは、平手ではなかった。

 洋平の拳だった。固く握られた拳。


 殴られた衝撃で、美咲はその場に倒れた。鼻と口の端から、血を流した。綺麗な彼女の顔を、赤い血が通る。


 倒れた美咲を見て、洋平は、自分が何をしたかを知った。殴ったのだ。美咲を。自分の命よりも大切な、死ぬまで一緒にいたい彼女を。


 父親が弟にしていたように、殴ったんだ!


 握った拳が震えた。洋平の目から、涙が流れてきた。


 どうしてこんなことをしてしまうのか。どうして、大切なのに傷つけてしまうのか。


 殴られた衝撃のせいか、美咲は虚ろな目をしていた。


 もう、嫌だ。声にならない声で、洋平は呟いた。頭の中が真っ暗になって、理性を失って。気がつくと、手が出ている。美咲を傷つけてしまっている。


 そんな自分が、嫌だった。


 ふいに、洋平の目に、リビングの棚にある工具箱が映った。家具を手作りしたり、修繕する道具が入っている。ドライバー、釘、金槌。


 洋平はフラフラとした足取りで、工具箱のところまで行った。箱の中から金槌を取り出した。


 左手で、金槌をしっかりと握った。右手を広げて床の上に置いた。


 金槌を、大きく振り上げた。


「何してるの!? 洋平!」


 美咲が、振り上げた洋平の左腕にしがみ付いた。鼻や口から流れる血を、拭うこともせずに。


「もう嫌なんだよ!」


 大きな涙声で、洋平は怒鳴った。


「美咲を傷つけたくないんだよ! だから、潰してやるんだ!」

「やめて! お願いだからやめて!」


 美咲も泣いていた。大声で泣いていた。


「私が悪いの! だからやめて! 洋平が傷付くくらいなら、殴られた方がいい! 好きなだけ殴っていいから! 悪いのは私なんだから! だからやめて!」


 美咲の綺麗な顔の上で、血と涙が混じっていた。殴られた頬は、腫れ始めていた。


「ごめんね、洋平。ごめんね。ごめんね。私が悪いのに、苦しめてごめんね」


 違う。美咲は悪くない。頭に浮かぶ言葉は、口にできなかった。悲しくて、苦しくて、唇が震えている。洋平の左手から、力が抜けた。金槌が、ゴンッという重い音を立てて床に落ちた。


 空になった両腕で、洋平は美咲を抱き締めた。


 意思が通じ合っているかのように、美咲が抱き返した。


 きつく抱き合う。互いの温もりを感じる。互いが、互いに、離したくないと感じる温もり。


「ごめんね、洋平。こんなの嫌なのに、どうにもできないの。どうしたらいいか、分からないの。ごめんね、洋平」


 洋平の胸の中で、美咲は「ごめんね」と繰り返した。血と涙が、洋平の服に染み込んだ。


「でも、洋平と離れたくないの。一緒にいたいの。何されてもいいから、ずっと一緒にいたいの」


 ずっと一緒にいたい。死ぬまで離れたくない。その気持は、洋平も同じだった。死以外の理由で、美咲と離れたくない。


 洋平の背中に回された、美咲の両手。左手の、薬指。


 二人の誓いの指輪には、血が一滴、ついていた。


  ◇


 このままだと、二人とも駄目になる。二人の関係が、遠くない未来に崩壊する。


 そう察した洋平は、仕事の昼休み中に職場を抜け出し、図書館に足を運んだ。

 

 自分がしていることは、明らかなDVだ。しかも、どうして自分が手を上げてしまうのか、まったく分からない。ただ単に腹が立ったとか、苛ついたとか、そんな理由ではないのだ。


 自分でも理由が分からないから、対処の方法も分からない。


 原因を突き止めたい。改善したい。


 図書館で大量の本を借りた。DVの専門書。


 自宅のアパートに帰ると、美咲に自分の考えを話した。俺は、美咲を傷付けたくない。離れたくもない。だから、今の状況をどうにかしたい。そうしないと、一緒にはいられない。


 自分の考えを告げて、洋平は寝室にこもった。借りてきた本を、時間の許す限り読みあさった。


 DVに関する専門書を何冊も読み、知った。DVは連鎖する。DVを受けた者は、DVをしてしまう。その理由は、多岐に渡る。


 洋平が父親に受けていたのは、虐待という直接的なDV。美咲が父親に受けていたのは、無関心という消極的DV。


 互いが、互いに、別の種類のDVを受けて育った。体や心に暴力を受けて生きてきた。


 恋人同士や夫婦間で、DVが繰り返されることがあるという。互いに、暴力を振るうことなど望んでいないのに。それなのに、何らかの理由で自分を制御できず、繰り返してしまう。


 心理学で「カップルダンス」と呼ばれる行動。二人の間でダンスのように繰り広げられる、最悪の行動。


 借りてきた本の中には、洋平達の行動の要因と思われる記述もあった。


 洋平が手を出してしまうのは、父親の影に怯えているから。手を上げる直前に洋平の脳裏に浮かぶのは、父親の影。洋平から大切なものを奪い、壊そうとする。そんな父親の影。


 凶暴な影から、大切なものを守りたい。それなのに。守るために振るう手は、守るべき者を攻撃してしまう。


 美咲が言葉で洋平を罵るのは、愛されなかった劣等感から。自分なんかが、愛されるはずがない。自分なんか、いつか愛する人にも捨てられる。劣等感から、そんな強迫観念を抱えてしまっている。彼女自身が気付かないうちに。


 劣等感が嫉妬となって、洋平を責め立ててしまう。


 そして、洋平に叩かれて我に返ると、捨てられたくないと懇願しながら謝罪する。


 繰り返されるカップルダンスの要因が分かると、洋平は、妙に納得してしまった。自分達の意思だけで解決できるはずがない。このカップルダンスは、自分達の意思の外で行われているのだから。


 互いの親によって深層心理に植え付けられ、根を張られた暴力性。自分達の意思の外で、スイッチが入る。起動してしまう。糸のついた操り人形のように、踊り出す。


 互いを傷つけ合う、DVという踊り。


 どうにかして改善したい。こんな繰り返しは、もう嫌だった。


 そういえば、と思い出した。


 もう長いこと、美咲の笑顔を見ていない。

 もう長いこと、美咲の前で笑っていない。


 笑ってほしい。笑っていたい。笑い合いたい。


 どうせ泣くなら、嬉し涙がいい。悲しくて泣くのも、悲しませて泣かせるのも、もう嫌だ。


 けれど、洋平が読みあさった本の中には、具体的なDVの解決方法なんて載っていなかった。要因が多岐に渡る以上、それぞれで解決方法が異なるからだろう。


 自分達だけでは、どうしようもない。


 それなら、もう──


 洋平は寝室から出て、美咲のもとに行った。


  ◇


「大事な話があるんだ」


 リビングで、洋平が美咲にそう告げたとき。

 

 美咲は大粒の涙を流して、洋平に縋ってきた。


「嫌だ! 別れたくない! 離れたくない! どれだけ殴ってもいいから! 他の女と寝てもいいから! 風俗にだって行ってもいいから! だから一緒にいて!」


 洋平が口にしたのは「大事な話」の一言だけ。たったそれだけで、美咲は、自分が捨てられると思い込んだ。


 専門書から導き出した推測は、正しかった。洋平はそう確信した。


『自分なんかが、愛されるはずがない。自分なんか、いつか愛する人にも捨てられる』


 それは、美咲の心を縛り付けている、劣等感。幼い頃に愛情をまったく与えられなかった、心の傷。


 もちろん洋平には、美咲と別れるつもりなどない。


 美咲をなだめて、絶対に離れることはないと断言して、彼女に告げた。


「原因はだいたい分かった。でも、自分達だけじゃ、どうしようもなさそうだ。だから、治療しよう」


 美咲を抱き締めて、ずっと一緒にいると意思表示をして、伝えた。


「一緒に治療してほしい。一緒に頑張ってほしい。俺は、お前がいないと、生きていけないから」


  ◇


 DV関係に強い心療内科を探して、洋平と美咲は病院に足を運んだ。


 自分達だけではどうしようもない。今を改善するためには、どうしても第三者の力が必要だった。


 二人でカウンセリングを受けた。要因を医者に突き止めてもらい、改善の道を探る。


 そのために、どうしても通らなければならない道があった。互いの過去の出来事を、医者に伝える。互いを理解し合うために、二人揃って医者に過去を話す。


 思い出したくもない過去を口にするのは、苦痛以外の何物でもなかった。


 血を吐くような気持で、洋平は、弟が殺されたときのことを口にした。美咲と医者の前で。


 当時子供だった洋平とって、父親は大きく恐ろしい存在だった。そんな彼が、洋平の足をへし折り、弟の頭をサッカーボールのように蹴った。限界を超えた衝撃を脳に受けた弟は、洋平の腕の中で命を失った。


『兄ちゃ……痛い……よ……』


 弟の最後の声は、今でも耳から離れない。


 美咲も、自分がどんな環境で育ったかを口にした。


 家族は両親だけ。彼等に、関心を持たれたことはない。


 幼稚園のときのお遊戯会にも来てくれなかった。小学校の参観日や運動会にも来てくれなかった。褒められたくて一生懸命料理を勉強し作ったが、食べてもらえたことはない。学校で優秀な成績を修めても、褒めてもらったことはない。


 裸の女を家の中で連れ歩く父を見て、自分も裸になれば構ってもらえるかも知れない、と考えたことがあった。当然、構ってくれなかった。冷めた目で全裸の美咲を見た父は「馬鹿かこいつ」とでも言いたそうな顔をしていた。


 愛情がほしくて、数え切れないほどの男と寝たことも話した。さすがに「売春」という単語は出さなかったが。


 洋平の弟の話を聞いたとき、美咲は涙を流していた。


 美咲が多くの男と寝た話を聞いたとき、洋平は、嫉妬で狂いそうになった。


 二人の話を聞いた医者が、カウンセリングについて話し始めた。二人がDVに走ってしまう要因。それは、ほとんど洋平の推測通りだった。


 これから洋平と美咲は、じっくりと時間をかけてカウンセリングを受けていく。ときに一人ずつ。ときに二人揃って。自分を見つめ直し、あるいは互いに見つめ合いながら、互いの心を理解してゆく。


 DVの改善は、パートナーの協力が必要不可欠だという。自分を理解し、相手を理解し、歩み寄り、協力し合わなければ、改善は望めない。


 医者の説明に対し、洋平も美咲も迷わず頷いた。拒む理由も、躊躇う理由もなかった。


 一生、一緒にいたいから。

 互いに笑い合いながら、一緒にいたいから。


  ◇


 洋平と美咲がカウンセリングを始めて、一年ほどが経った。


 二人とも、少しずつだが症状が改善されていった。


 今では、美咲が我を忘れて洋平を罵ることはない。


 洋平も、もう手を上げることはない。


 けれど。


 互いに笑い合う笑顔は、ぎこちなかった。一緒にベッドに入っても、キスをすることはない。セックスをすることもない。


 ──また、傷付けてしまうのではないか。


 暴力的な衝動はなくなった。だが、相手を思いやるが故に、近付けずにいた。近付いて、傷付けるのが恐かった。


 自分の体には、針が無数に付いている。先端が鋭い針。近付くと、相手を傷付けてしまう。まるでハリネズミのように。だから近付けない。自分の針が、相手に刺さってしまうから。


 大切で、愛しているから、近付かない。


「二人で、簡単なダンスを踊ってもらいます」


 今日は、二人で一緒にカウンセリングを受ける日だった。


 診察室に入って椅子に座った直後に、医者にそう言われた。


「ダンス、ですか?」

「はい」


 洋平の問いに、医者は頷いた。


「社交ダンスの話なんですが──二人で踊るダンスを、カップルダンスというんですよ」

「心理学のカップルダンスではなく?」

「おや、よく知ってますね」


 医者は、感心したように頷いた。


「そう。そのカップルダンスではなく、社交ダンスの方のカップルダンスです。とはいえ、そんなに難しいことはしません。ゆっくり、二人で揃って踊って貰います。もちろん、スペースが必要な激しい動きもしません。ここはそんなに広くないですからね」


 冗談めかしに言うと、医者は、洋平と美咲を立たせた。二人が座っていた椅子を診察室の隅に置き、簡単なダンスの説明を始める。


「二人とも、私と同じように、私の手拍子のリズムで動いてみてください。まずは、旦那さんと奥さんで、向き合って、手を繋いで」


 言われた通り、洋平と美咲は向き合い、手を取り合った。右手と左手が、左手と右手が、絡めるように繋がれた。


「じゃあ、ステップと動きの説明をしますね。最初は極端にゆっくりやるんで、私の動きを真似てみてください」


 医者の教えの通りに動いた。ステップして、踊って。向きを変えて、回って。


 本当の社交ダンスよりも、構成をかなり単純にしているのだろう。洋平はすぐに、ダンスの動きを覚えた。


 そんな洋平に対して、美咲の動きは、どこかぎこちない。彼女は運動が得意ではない。


 洋平が頭と体の両方で動きを覚える頃になっても、美咲は、まだ悪戦苦闘していた。練習用の、極端にゆっくりしたテンポでも。


「じゃあ、本格的なテンポで踊ってみましょうか」


 美咲がまだしっかり踊れないのに、医者はそう言った。


「いや、待ってください。まだ、美咲が──」

「大丈夫大丈夫。発表会とかじゃないんですから。失敗したっていいんです」


 すぐに医者は、練習よりも早いテンポで手拍子を始めた。


 洋平と美咲は、手拍子に合わせるように踊り始めた。


 洋平は、最初は慌てた。踊るのなんて初めてだし、練習だって一時間もしていない。いくら簡略化した単純な動きといっても、そう簡単にできるはずがない。


 それでも、練習した内容を頭に浮かべながら、必死に体を動かした。


 美咲はミスを連発した。医者の手拍子のリズムから外れる。動きを間違える。ミスをする度に、小さく「ごめん」と繰り返した。申し訳なさそうに。それこそ、DVに悩んでいたときのような表情で。


 美咲の申し訳なさそうな顔に、洋平の心が痛くなった。彼女はミスの度に謝る。謝る必要なんてないのに。何も悪いことなんてしていないのに。


 だから、洋平は意図的にミスをした。二人の動きがズレて、踊りが止まった。


「ごめん、洋平」


 泣きそうな顔で、美咲が謝った。表情が暗い。自分のせいで。自分なんか。そんな顔。


 動きを止めたまま、洋平は、美咲をじっと見つめた。


「どうして美咲が謝るんだよ? 今のは、俺のミスだろ?」

「……」


 美咲も、洋平をじっと見つめた。


「ごめんな、美咲。もう一回、一緒にやってくれるか?」


 視線が絡んでいる。手を繋いでいるから、距離が近い。考えてみれば、美咲とこんなに接近したのは、いつ以来だろう。


 ずっと、近付けなかった。何度も傷付けてしまったから。もう、傷付けたくないから。傷付けるのが恐くて、近付けなかった。


 でも今は、こんなに距離が近い。相手の瞳に映った自分の姿を、確認できるほどに。


「……うん」


 小さく、美咲が頷いた。潤んだ目。けれど、表情が変わった。口元が、少しだけ笑っているように見えた。


 踊って、何度かミスをして、また踊って。


 少しずつ、互いに、笑顔になっていった。なぜか涙が出たが、笑顔でいられた。


 嬉しいのだと思う。だから、笑みがこぼれるのだろう。


 悲しいのだと思う。だから、涙が出るのだろう。


 そんな気持を共有している。互いが、互いに、掛け替えのない存在だと思える。


 重ねた手が。

 一緒に動く体が。

 合わせる呼吸が。

 ともにいる時間が。


 幸せだと思えた。


 二人の前に立つ困難も。

 困難を乗り越える苦労も。

 苦労の末に感じる喜びも悲しみも。


 二人だからこそ感じられるのだと知った。


 これからも、ダンスを踊るように行動をともにしたい。


 ときにミスをすることはあっても、同じステップで歩んでいきたい。


 一緒に生きることが、幸せだから。


 死ぬまでどころか、死んでも離れたくないから。


  ◇


 洋平が二十六のときに。

 美咲が、二十五のときに。


 二人の子供が産まれた。


 男の子と女の子の、双子だった。二卵性双生児の、赤ん坊。


 小さな手足。生きようと必死に絞り出す泣き声。まだ曖昧な、それでも見ていると心が温まる笑顔。パタパタとよく動く手足。


 人差し指を近付けると、その小さな手でキッュと握ってきた。


 こんなにも可愛い生き物が、この世にいるのか。二人は、我が子の可愛さに、顔を見合わせて驚いた。


 洋平も美咲も、考えていることは同じだった。


 この子達には、溺れるほどの愛情を。

 家族みんなで、愛情に溺れたい。


「幸せでいような、美咲」


 今までも幸せだった。これからも幸せでいよう。

 今までは二人。これからは四人。


 もしかしたら、もっと増えるかも。


「幸せにしような、美咲」

「うん」


 愛されることを知っている目で、美咲は頷いた。


「私達ならできるよ」


 

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