万馬券

香久山 ゆみ

万馬券

「ただいま」

「おかえりー。お父さん、お土産は?」

 父から手渡された束を受け取り、そのまま机に齧りつき小さな白い紙を埋めていく。

 父は競馬場へ行くたびに、馬券購入のためのマークシート用紙を束で持って帰ってきた。カードサイズの小さな紙片の裏に、私は夢中で絵を描いた。いつものつるつるしたチラシの裏とは違う、小さいが丈夫できっちり同じサイズに揃った用紙は私のお気に入り。

 けれど、本当はそんなものより、私も一緒に競馬場へ連れて行ってほしかった。

「あたしもお馬さん見に行きたい!」

「そうかそうか、お前も一緒に行くかぁ」

 父は嬉しそうに私と手を繋いだが、母が物凄い剣幕で制止した。夫婦喧嘩が始まり、私は押入れの中でぶるぶる震えて、結局その日父は一人で出て行ってしまった。以来、父に連れて行ってくれとせがんだことはないし、父の方から声を掛けられることもなかった。

 平日はパチンコで週末には競馬場へ行く父。私に許された精一杯の愛情表現はマークシート用紙をプレゼントしてもらうことだった。だから宝物のように一枚一枚丁寧に描いては彩色した。けれど、一度家に遊びに来た友人に「これでお絵かきしよう」と差し出した時、嫌な顔をされてからは、よそでその紙を出すことはない。私の深い場所にしまわれた宝物。

 そうして描き続けてきたから、長じて絵を描く道に進んだ。美大を受験する際には堅実な母から反対されるかと構えたが、案外あっさり認めてくれたのも、幼少期からずっと描く姿を見てきたからだろう。

 父が出掛ける時、「また紙いっぱい取ってきてね」と声を掛けたものだが、本音は別にあった。万馬券が当たりますように! 小さな私は渾身の力でお祈りしていた。外れてばかりいるから、父はまた行かねばならない。当たりさえすれば、もう行く必要はないし、母もガミガミ言わなくなるはず。幼い私はそう信じていた。

「一緒に競馬行くか」

 その日、急病の祖母のため母は実家へ帰っていた。一人出掛けようとする父に、置いてかないでと縋ったら、父が言ってくれたのだ。

 うん! 喜んで私はついて行った。自信があったのだ。今日の天秤座は一位だった。ラッキーカラーのピンクの服を着ている。

「ねえ、⑩と③と⑨を買って!」

 十月三日生まれの九歳。

 わかったわかった、買ってくるから。と、マークシートを塗りつぶした父は券売所へ消えていった。ここで待ってな、と言われた通りに待てど父は戻ってこない。不安になって探しに出るも、とんと見当がつかず、元の場所にも戻れない。そうこうするうちにラッパの音が響き、地響きのような男達の叫び声、一瞬の静寂のあとにアナウンスが掻き消されるほどの怒号が轟く。人気のなかった建物内に人々が戻ってきたけれど、おじさん達は誰も彼も怖い顔をしていて迷子には見向きもしない。お父さん! お父さん! 声が枯れるまで叫び続けたけれど、反応する者はいない。あれだけいた人達がまた波が引くように消えていくけれど、見つからない。ついに泣き出した私に、「お嬢ちゃんどうしたの?」と男が近づいてきて、私は身を固くする。そこへ。

「佑奈!」

 飛び出してきた父が私を抱きしめた。

 ぎゅっと私の手を握りしめて足早に帰路につく。私は黙ってその手を握り返した。

 それ以来、父はギャンブルをすっぱりやめて、定職に就いた。夫婦仲も良くなり、食事も少し豪華になった。休日に家族で旅行するようにも。

「佑奈は我が家の女神だよ」だなんて、大袈裟な。子はかすがいとはよくいったものだ。私にはまだ分からないけれど、子には親を正気に引き止める力があるのだろう。

「本当は、あの時お前を捨てて逃げちまおうと思ってたんだ。けど……」

「ちょっと、お父さんたら! その話はやめてちょうだい」

 母が嗜める。酒に弱い父がぽろりと溢してしまったが、今となっては懐かしい昔話だ。

「私がお酒に強いのはお母さん譲りかな」

 あの頃よく飲んでいたよねと言うと、知ってたのと母は目を丸くした。知ってますとも。夜中に台所でお酒を飲んで、朝には何事もなかったように仕事へ出る母をかっこいいと思っていたのだ。憧れて、留守番中にこっそり舐めてみたこともある。あの頃うちにあったのは今よりずっと安いお酒だった。

 子どもは案外よく見ているのだ。

 母が聞けば卒倒するだろう。あの日、父が手にしていたのが万馬券だったこと。史上最高の配当だとアナウンスしていた。父は、そんな万馬券よりも私を迎えに来てくれた。私のパスケースには、マークシートの裏に描いた家族の肖像が今も大切に納まっている。

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