みえる?

香久山 ゆみ

みえる?

「ねえ、……ねえ」

 ぼそぼそうしろから声がする。振り返らずにいると、呼び続ける。

「ねえ。わたし……、見える……?」

 うしろの席の田中さんがぶつぶつ呟いている。私にだけ聞こえるような、囁く声で。

 古い校舎。六年二組の教室の真ん中の席はいつも空席になっている。ずいぶん昔、それこそクラスの皆のおじいちゃんやおばあちゃんが子どもだった時代からずっとそうだから、いまさら誰も気にも留めない。

「ねえ。呪う? クラスの奴ら、みんな……」

 くっくっと笑っている。不気味。私はため息まじりに振り返る。

「なんでそんなこと言うの?」

「だって、みんな嫌いだもの」

 そう答えながら、田中さんはらんらんと輝く目を私に向けた。顔の半分が隠れるほど伸びた前髪の下の瞳と、しっかり目が合ってしまった。真っ黒な瞳が鈍く輝いている。

 けれど、田中さんの気持ちはわからなくもない。

 田中さんの存在、まるで空気みたいだもの。いつも教室の真ん中でひとり本を読んでいる。前列からプリントを送る時、前の席の人はわざわざ田中さんを飛ばしてそのうしろの人に渡す。教室を歩く時、私のあとを歩く田中さんはよく転ぶ。足を引っかけられるのだ。

「よしなよ。私に話しかけるともっといじめられるよ」

「へいき。連中よりあなたの方がずっといい人だもの」

 その言葉通り、田中さんはしつこく私につきまとう。他の子には話しかけようともしないのに、私にばかり声をかける。警戒心の強い野良猫が自分にだけ懐くようで、正直悪い気はしない。そのうち自然と話しすることも増え、いつの間にか私たちは友達になった。

「レイちゃん」

 田中さんが私のことをそんな風に呼び始めたのは、なんだか少しくすぐったかった。

 よく本を読むようになった。田中さんの机に広げた本を二人で読む。

「次のページめくっていい?」

「いいよ」

 そうして田中さんが紙をめくる。とくにお気に入りは詩の本。

「ゆあーんゆよーんゆあゆよん」

「なにそれ、くすくす」

 へんな詩を朗読するのはとてもおかしかった。

 そうやって二人で楽しくしていると、いつの間にか周りの人たちも田中さんに近づかないようになった。

 足をかけられることもなくなったのに、田中さんはよくケガをした。意外とドジっ子。転んで骨折したと右腕を三角巾で吊っていた時には、さすがに痛々しかった。

「何もないところで転んじゃって。幼稚園の妹にまでばかにされちゃった」

 心配する私に、へへと笑いながら、田中さんは左手でぎこちなくページをめくった。

 あっという間に一年経った。もう卒業式だ。

 結局、田中さんに私以外の友だちはできなかった。そして、田中さんはこの数十年で私にできた初めての親友だった。

「中学生になったら、文芸部に入ろうと思う。それで、レイちゃんのこと書くね」

 田中さんはきらきらした目で言う。

「無理よ。卒業したら私のことなんて忘れちゃうわ」

「忘れない。親友のこと忘れるわけない」

「でも、私に関わったせいで、田中さん一人ぼっちだった。一人で喋る気味悪い奴って」

「ううん。レイちゃんがいなかったら私きっと学校に来ることもできなかった。一人じゃなかったおかげだよ。きっと、レイちゃんは座敷童子なんだよ!」

 絶対また会いにくるからね!

 そう笑顔を向けて田中さんは卒業していった。

 それから一体何年の歳月を重ねただろう。

「――汚れっちまった悲しみに、今日も小雪の降りかかる」

 田中さんと朗読した詩を呟く。私を見える人が誰もいない教室で。田中さんは来ない。あれから一度も来ない。忘れないって、約束したのに。

 知らなければよかった。友情なんて。そしたらこんな悲しいこともなかった。私はずっと一人でへいきだったのに。なのに。

 私の分だけ真ん中がぽっかり空いた教室に、また春がくる。

 私は思わず顔を上げる。新しいクラス、田中さんそっくりな女の子が座っている。

「ねえ」

 そっと、声をかける。前の席の子がびくっと肩を震わせる。聞こえてるんだわ。ぞくぞく笑いが込み上げるのを堪えて、囁く。

「ねえ、……見える?」

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