第51話 不惑の深泥池

 夕暮れの青空が一天にわかに掻き曇り、厚い雲に覆われ始めた。これはヤバいと三人は施設に慌てて駆け込んだ。タッチはセーフの微妙なタイミングでポツリポツリと大粒の雨が落ちだしたかと思うまもなく連続してやがて物凄い雨脚になってきた。梅雨の末期を思わす急な土砂降りになると、フロントからも気になったのか佐伯さんが様子見に出て来てカチ合わせした。

「良かったですね此の雨に濡れなくて」

 と佐伯はいたって真面目に濡れ鼠にならなくてと安堵してくれている。その彼に向かって景山さんを呼んでもらった。佐伯も心得たものでおそらく傍に居る部外者に目をやるとそのまま奥に引っ込んだ。ほんの少し間を置いて景山が少し頬を崩しながら要件は解っていると云う顔で出て来た。

「例の池に面した芝生広場を見てみたいのだろう三人一緒なら大丈夫だろう」

 と仁和子に滞在許可を出して、此の夕立は小一時間は続くからロビーで寛ぐように勧められた。その折には他の者から異論が出るようならわしの知り合いだと云えと言ってくれた。峰山さんのつてが効いてますねと倉島は代理が奥に引っ込んだ後にそっと囁いた。三人は空いたロビーに足を向けた。

「あれから峰山さんと代理は如何どうなの?」

「結構会ってるみたい」

 と仁和子は二人ともお互いの垣根が低い所為せいかホテル業界の情報交換に花を咲かせているらしい。ロビーのソファーに寛ぐと缶コーヒーと云うわけには行かないからと調理場のおばさんに頼んで珈琲を淹れてもらった。だが雨脚は益々強くなり雷まで鳴り出した。

「これじゃあ傘が有っても駅まで歩くまでに足元はずぶ濡れになりそうだし直ぐそこの地下鉄の駅まで無線でタクシーを呼ぶのも気が引けるわね」

 と仁和子は選りに選ってこんな時に兄の最期の場所を看取るなんてと運がないと心の置き場所に苦慮している。

「なーに、直ぐ止みますよ夕立ですから」

 と言ってもロビーに居ても建物を叩く雨音は聞こえてくる。雨樋あまどいからも水が溢れ出て流れ出している。その激しく吐き出される大地からの声が仁和子には自然界の声とは思えなくなっている。

「矢張り心配ですか」

 と三島に続いて倉島までが、此の雨を不安げに見詰める仁和子が気になって来た。

「ちゃんと駅まで送りますよ」

「そうじゃあないの此の雨が兄の慟哭のように聞こえて仕方がないのよ」

 そこで一瞬稲妻と共に施設を震わす大きな雷鳴が轟いて一時館内はざわめいた。が直ぐに今までと変わりない風景に戻った。

「人騒がせな雷だなあてっきり此の近くに落ちたのかと驚いたよ」

 三島ともども倉島もヒヤッとさせられた一瞬だった。だが仁和子は別に慌てた様子も驚いた風にも見えず、ただ淡々として物思いに耽ったような佇まいだった。それが見る者には不思議な面持ちを与えている。

「どうかした?」

 倉島はみんなが一瞬の雷鳴に思わず我を忘れて騒いだのに一人取り残されている仁和子が気になってきた。

「ウッ、別に」

 と仁和子はハッとして我に返ったように、如何どうかしたのと謂う顔で見返してくると、思わず二人ともお互いの顔を見合って一息ついている。地震かと肝を潰したほど近くに落雷したにも係わらず、それを乗り越えるようにして佇む仁和子の心を惑わすもの。それに今こそハッキリとした答えを出さねばならないと痛感した。その祈りが効いたのか雨は小降りになり雷鳴も遠のいて行った。やがて雨粒に夕陽が差して煌めきだした。西空を見れば陽は山の稜線に少し頭を覗かせていた。

「急ごう陽が沈んでしまう」

「でもまだ止んでないよ」

「なーに、霧雨だよ止んだも同然だろう」

 三島に誘われて倉島も腰を上げると仁和子も続いた。施設の裏へ廻った頃には陽は完全に没していて静かに足元から夕闇が包み始めていた。少し泥濘ぬかるんだ雨上がりの芝生広場に三人は出た。雨が上がったとはいえまだ足元の芝生は濡れている。

「そう言えば倉島さんがここへ来るときもさっきみたいな土砂降りの雨でしたね」

 そう三島に声を掛けられて倉島は思いだしたように「止んだ時間も丁度今頃でしたよ」と答えながらふとあの日の光景が脳裏に覆いかぶさるように去来した。足までもその記憶を辿るように真っ直ぐその場所に向かって進んでいるが強靱きょうじんな彼の意思がその脚を止めさせた。だが仁和子は彼を追い越して先に進み出した。

「仁和ちゃんそれ以上は危ないよ」

 と倉島は注意した。

「だって人影が見えたの」

 そう言われて三島と倉島は警戒しながら辺りを見回している。既に辺りは闇に包まれて雲間から差す月明かりが様々な形の木々をさえぎりながら複雑な陰を照らし出している。その中で不自然に蠢く陰が有った。それに仁和子は吸い寄せられて行く。

「危ない! 行っちゃダメだ ! 」

「そこに兄が居るのよ!」

 三島と倉島は仁和子の行く先を視た。確かにそこにずぶ濡れの一人の男が立っていて足元は深い草むらに覆われて見えないが不自然な歩き方だった。男は向こうに振り向き背を向けたまま池に向かって滑るよう行った。後を追う仁和子が足を取られて沈みだした。咄嗟に仁和子の手を倉島は掴んだが彼の足元も静かに沈みだしている。三島が近くの木にしがみつきながら倉島を池の淵から引き上げた。残るはもう膝まで沈み込んだ仁和子さんを必死で引っ張り出しているが踏みしめれば益々彼女の身は沈み込む。三島は彼女に足の力を抜いて倉島が持つ手だけに力を込めるように言った。

「そんなことしたら倉島さんまで引きずり込んでしまう」

「大丈夫だ彼は俺がしっかり引き留めている」

 その言葉に任せて彼女は宙に浮くように倉島の手をしっかり握った。仁和子の沈下は止まり倉島がしっかり握った手のぬくもりの中に引き寄せられた。そのまま三人は施設の軒下にしゃがみこんだ。

「視たでしょう」

 仁和子の言葉に三島と倉島は静かに二三度頷いた。

「精神医学でも解明されない」

 と三島は呟いた。

「あれが深泥池なのか心の弱い人間だけを引きずり込んでいるんだ」

 と倉島は言った。

「でも俺たちゃあ精神科医を手こずらせてしまうだけで考え込むのが怖いと思わないからあいつらとは違うよな、だから生きてりゃいいさ」

 そこで地面が突然に揺れ出した。これは本物の地震だと三人は崩れ落ちる施設から飛び出して難を逃れた。だが戦前に建てられて内装だけ近代化したあの施設だけが耐震構造になっておらず崩壊した。お陰でその奥に在る耐震工事を施した病院はびくともせずに池の向こうに建っている。これで此の池はすっきりしてもっと長生きするだろう。此のほとりにおかしな物を建てて多くの人を道連れにしても、今も変わらず池は伝説を呑み込んで太古のまま生き続けている。


 三島はまた海に出た。それを仁和子と倉島は神戸の港で見送った。長い汽笛を残して……。


   

                           (完) 

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生きてりゃあいいさ深泥池 和之 @shoz7

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