第8話:甘美なる猛毒

「な、なんだよこれ……」



 古民家を飛び出した景信は、思わず立ち止まってしまう。

 一刻も早く逃げなければ、あの怪物がすぐに追いかけてくる。

 そうと頭では理解しているのに、目の前に広がる驚愕が景信に肉体を強張らせる。

 青かったはずの空を染める赤は夕陽のような美しさは皆無。とても禍々しい、血のような黒を帯びたような赤だ。その下で暮らす住人は人非ざる者達。

 お、俺は悪い夢でも見てるのか!? 激しく狼狽し、今にも卒倒しそうになった景信の意識を保たせたのは、皮肉にも怪物の存在だった。背後の方でカサカサとうごめく音が否が応にも鼓膜にまとわりつく。



「もう、景信くん。はじめてで恥ずかしいのはわかりますけど、私だってはじめてなんですよ?」

「くそ……!」



 このままだとどっちみち捕まる! 景信は異界と化した神凪町かんなぎちょうを駆けた。

 数多くの怪物達が景信をじろりと睨む。異形が常識であるこの世界に人間が一人ぽつんといるのだから、彼らにすれば景信の方が異質な存在だと言わざるを得ない。

 幸いにも件の大百足を除いて彼らが景信を襲うことはなかった。

 襲う機会ならば恐らく、いくらでも彼らにはあった。

 そうしなかったのはやはり大百足の存在が大きくあろう。実際にその姿を目にした途端、彼らはさっと身を潜めている。それだけ両者との間には絶対的な実力の差があるという証拠であり、ただの人間でしかない景信に最初ハナから勝ち目などない。



「どうする……どうすればいい!」

「待ってください景信くん。甘い一時を共に過ごしましょうよ」

「く、来るなぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

「え、ちょ、ちょっと景信くん速ッ!」

「うおぉぉぉぉぉぉおおおおおっ!」



 ひたすらに走り続ける。

 異界と化したこの道がどこに続いているかなど、もはや景信にはどうでもよかった。

 とにかくあの怪物から逃れられるのならどこだって構いやしない。その一心で景信は地面を蹴り続けた。祓流ふつのりゅうの修練によって景信の身体能力は、同年代の男児とは比較対象にすらならない。よもやこのような場面で生かされることになるとは、当然ながら当事者である景信は思いもしなかった。



「――、ッ!」



 景信は急ブレーキをかけてその場で立ち止まった。

 背後からは、遠くにあるといってもまだ大百足の怪物がしつこく追いかけてきている。

 数秒と経たぬ内捕まるのは明白で、ならば逃げずに立ち止まるのが如何に愚行かはあえて口にする必要もあるまい。景信は、これ以上先に進むことができなかった。道ならばずっと続いている、なのに行けない。何故なら景信の先に続く場所は、神凪かんなぎの森だったからに他ならなかった。


 もちろん景信に意図は微塵もない。

 逃げることで必死だったがためにまったく気付かなかった。

 そうこうしている内に、背後から大百足の怪物が追い付いた。多少呼吸こそ乱してはいるが、まだまだ余裕を感じられる。怪物のくせにして、と景信は自嘲気味に小さく笑う。すっかり異形と変貌した女の顔は醜悪であるのに、その頬はほんのりと紅潮しているのだけははっきりと視認できた。そこに相まって熱を帯びた吐息が、不覚にも景信の艶めかしいと思わせたのである。



「さぁ、もう鬼ごっこは終わりにしましょう景信くん。でも次やるとするなら砂浜でやってみたいですね。私、あれ憧れてたんです」

「く、くそぉ……!」



 景信はその場で拳を構えた。

 あろうことか目の前に異形に戦いを挑もうとしたのである。

 勝算など最初から皆無に等しい。人間が妖怪を対峙する逸話は数多くあれど、それらすべては創作物でしかない。おとぎ話だからこそ人間は妖怪にも悪魔にも勝てる。現実はきっと、そんなに甘くはない。


 ましてや今の景信に武器と呼べるものは一切ない。

 強いて言うのであれば足元に転がる木の棒ぐらいなものだが、効果的だとはお世辞にも言えない。逆に足枷になる恐れがあるぐらいならば、最初からそんなものを持たなければいい。


 こうなったらヤケくそだ、殺されるぐらいなら抵抗してやる! 景信は大百足をじろりと鋭く見据えた。

 そんな景信を、大百足の怪物はじっと見返す。

 その顔は心なしかどこか悲し気な色を浮かべている。



「落ち着いてください景信くん。私はただ君と愛し合いたいだけ……一人の女として愛する人の子供を産みたいだけなんです――10年と言う歳月は本当に長かった。私達からすればたったのはずだった10年が、愛する人ができた途端に何十年も、何百年にも感じるなんて夢にも思わなかったです」

「……!」

「だからもう、これ以上は待てません。待つことができそうにないんです、景信くん……」



 大百足が牙を向いた。

 百足の毒が体内に入ればまず激しい痛みに続き、患部が赤く腫れ上がる。

 せいぜい10~20cm程度の小ささにも関わらず、小動物をも仕留めることも可能な毒と獰猛さを兼ね備えた存在が人間よりも大きければどうなるのか。もはや想像する気さえも起らない。


 一つだけ確かなのは、あの牙に嚙まれれば人体など容易に食い千切られるということ。

 そして恐らく猛毒も十分に死に至らしめることも可能だろうということ。

 あれを喰らってはならない。景信は咄嗟に構えた拳を大百足の怪物に叩き込んだ。

 膝よりやや上、人間らしさがまだ残っている。女性の腹部を思いっきり男性が、それも武術と体得する者が全身全霊で殴るのだ。これを非人道的行為だと批難されても致し方なし。

 人間であったならば、の話ではあるが。

 法も適用されない怪物に人道を解く道理が果たしてどこに存在しよう。

 ここでやらないと、俺が殺される! もっとも愚かで無縁な殺人への免罪符を得た今、景信に一寸の躊躇もない。単なる正拳突きだが、大百足の怪物の腹部へと深々と突き刺さった。


 ――手応え、ありだ!


 肉を打ち、骨を砕く感触が拳を通して景信へと伝達される。

 大百足の怪物の口からは紫色という、毒々しい体液が排出された。

 血、なのだろうか。とりあえずこちらの攻撃は相手に有効的であるらしい。

 大百足の怪物が困惑から解かれるよりも先に、景信は更に追撃を加える。

 手技、蹴り技、持てるすべての技術を総動員させて敵手の肉体へと叩き込んだ。



「が……アァ……!」

「これで、終わり――」



 ずっ、という感触に続けて熱した鉄を押し付けられたかのような激痛が瞬く間に全身を駆け巡る。



「はぁ……ハぁ……あぁ、景信クん。アなたの混じりッ気ノない強イ思イがどんどん伝わっテきまシタ! だかラ今度は私の想イを受ケ取ッテくダさいネ?」

「あ……が……!」



 声を発することもままならぬほどの激痛に意識が飛びそうになるのを、辛うじて気力で繋ぎ止める景信の目はそれを忌々し気に睨む。右肩、二本の鋭い牙が深々と肉を突き刺していた。

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真月譚妖姫(しんげつたんあやひめ)~俺はあの待宵の月を忘れない~ 龍威ユウ @yaibatosaya7895123

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