ツンギレ公爵令嬢と群青アゲハ蝶の夢

彩瀬あいり

ツンギレ公爵令嬢と群青アゲハ蝶の夢

「貴方、もう少しまともな恰好をしたらどうなの!」

「すみません、通り道で珍しい植物を見かけてしまって」

「それで、そのような草の束を抱えていますのね」

 午後の陽射しに輝く金色の髪。流行りのデザインを取り入れたドレスに身を包んだ令嬢の前には、泥がついた服を払いもせずに微笑む素朴な青年の姿があった。貴族御用達、予約を取るのも困難だと言われるカフェに、似つかわしくない組み合わせである。季節によって景観を変える美しい庭を眺めながらお茶をいただける、たいへん人気のある席を確保できるのは、彼女が公爵家のご令嬢だからに他ならない。

 そのヴィクトリア・オルランド公爵令嬢は、形のよい眉をひそめ、苛立ちまじりの刺々しい言葉を繰り出している。

 対する青年はといえば、のどかな顔つきで自身が持つ草葉について語っており、その温度差に周囲は凍りついたように動けない。

「わたくし、帰らせていただきます」

「ですが、たしか秋の限定メニューが」

「そのような恰好で、皆さまがたの注目を浴びて、恥ずかしくはありませんの!?」

 ギロリと鋭い眼光を向け、十八歳のヴィクトリアは、二十一歳の婚約者に言い放つ。

「場所を変えます。付いてきなさい、ハリー」



 ヴィクトリア・オルランドと、その婚約者ハリー・ペイルズのやり取りは、よく知られている。

 ハリーは男爵家の次男ではあるものの、植物に情熱を傾ける若き研究者だ。高潔な公爵令嬢と、植物を愛する研究者の組み合わせの落差。しかし、もっとも有名なのが、あのどうにも噛み合わない攻防だった。

 貴族社会の常識に欠けるハリーに、ヴィクトリアが怒りをぶちまけるスタイルは、もはや名物と化している。同じく高位貴族の令嬢はヴィクトリアに同情し、下位貴族の令嬢はヴィクトリアの剣幕におののく。

 令息達からみれば、次男坊の分際で公爵令嬢の婚約者という地位を手にしているハリーに嫉妬する反面、ヴィクトリアの苛烈な言動に恐れもなしている。公爵家の後ろ盾は喉から手が出るほど欲しいが、あの女を妻にするのは気が重い。彼女はいつもマジ切れしている。怖い。

 あの二人がなぜ婚約しているのかといえば、これには前オルランド公爵が関係している。

 公爵家が所有する領地のひとつに農園があるのだが、前公爵はその地を好んでいることで有名だった。土壌開発、農地の拡大など、私財を投じて発展に努めており、その開発に従事しているのがペイルズ家。収穫物が国に大きな益をもたらしたことで認められ、農園のある地と、それを管理するための爵位を授けられた。田舎の成り上がりと揶揄されがちな、末端貴族だ。

 前公爵は、幼いころより植物学に興味を抱いていたハリーを気に入って、後見人を務めている。自身が目をかけている研究者と、孫娘をめあわせた。

 この婚約は、隠居してなお権力を持つ前公爵の自己満足の塊。高度な教育を受けてきた公爵令嬢の尊厳を踏みにじる、あまりにもひどい政略結婚である。


 というのが、世間で囁かれている婚約事情だが、実際のところどうかといえば、真実は少し違う。



    ◇◇



「……また、言ってしまったわ。ハリーはきっとわたくしのことを嫌いになったに違いありません」

 ひとを遠ざけたあとの自室。寝台の枕に突っ伏して、ヴィクトリアは呻いていた。声が大きくならないよう細心の注意を払い、さめざめと自省する。

 店を出たあと、馬車に乗って帰ってきた。ハリーは途中で降ろしたが、それは彼が気もそぞろだったから。手に抱えている植物に意識の大半が向いており、公爵家に戻ってお茶をいただくより、研究室へ向かったほうがハリーのためになるだろうと思ったのだ。

 ――だって、すごく嬉しそうだった。早く顕微鏡で覗きたいって顔が言ってた。

 悔しい。

 でも、そんなキラキラした顔が、好きで好きでたまらない。

 そう。ヴィクトリア・オルランドは、ハリー・ペイルズのことを心から愛しているのだ。

 有名な店の目立つ場所で土に汚れた格好をしていたら、好奇の目に晒されてしまう。楽しそうな彼を見るのは幸せだけど、貴族たちの下世話な噂話からは守ってあげたい。早々に店から出なければ。

 彼を案じて出てきた言葉が、アレである。


「もう少しまともな恰好をしたらどうなの!」

(土汚れがついているわ)


「わたくし、帰らせていただきます」

(お店から出たほうがいいですわよね)


「場所を変えます。付いていらっしゃい」

(あの、よろしければ公爵家うちにおいでになりませんか?)



 ――誘いたかったのに。

 季節限定メニューは、侍女がお店に頼んで、持ち帰り用に包んでくれた。

 秋の森と名付けられたスイーツは、切り株に見立てたロールケーキに、キノコを模したクッキーが配置されている。石や枯れ枝を模した大小さまざまなチョコレートがプレートの上に散り、東洋から仕入れているという深緑色の粉末茶葉が苔のようにそれを彩って、厳かで美しい森を作り上げているのだ。

 秋の花というスイーツもあるのだけれど、ヴィクトリアは森のほうを選択した。

 ご令嬢たちに人気を博している「花」ではなく「森」を選んだのは、ハリーに楽しんでもらいたかったから。草木を愛する彼が、顔を輝かせるさまを見たかったからだ。


 ヴィクトリアがハリーと初めて出会ったのは、祖父に連れられて農園を視察に行った五歳のとき。

 公爵家の末子にして、唯一の女の子だったヴィクトリアは、祖父に溺愛されていた。様々な場所に連れていかれたが、その中でも農園は祖父にとっても気に入りの場所。専門的な話はわからないヴィクトリアは、ペイルズ家の子どもと遊ぶことになり、そこでハリーに出会った。

 土遊びをした。そんなことをしたこともなかったヴィクトリアは戸惑ったけれど、土の感触は新鮮で、驚きに満ちていた。目に鮮やかな花を咲かせる庭園しか知らなかったが、この地は緑に溢れていた。自身の背より高く伸びた草原では、迷子にならないようにと手を繋いでくれた。

 麦穂色の優しい髪色と、思慮深さを感じる深緑の瞳。みっつも年上なのにどこか子どもっぽくて、のんびりした口調で話す声が心地良くて。ヴィクトリアはハリーといると心が休まった。

 年齢が上がって貴族令嬢としての教育が始まったあとも、祖父に付いてペイルズ領へ赴いたのは、ハリーに会いたかったからだ。公爵令嬢として品格が求められるなか、彼と一緒にいるときだけは、ただの少女でいられる。それは、ヴィクトリアにとってなによりも大切な時間になっていた。

 十六歳になったころ、そろそろ婚約者を決めようかという話が出た。

 オルランド公爵家には、跡継ぎの長兄と、補佐となれる次兄がいる。いまさら他貴族と婚姻による繋がりを得る必要もない。両親らは、末子であるヴィクトリアに政略結婚を強いるつもりはなく、好きな方に嫁いでよいと言ってくれた。頭に浮かんだのは、言うまでもなくハリーだ。

 しかし、貴族の婚姻は親が決めるのが一般的。その考えが、ヴィクトリアの想いを揺らす。

 そんなとき、祖父が提案したのがハリーで、両親も兄も頷いた。「お祖父さまがおっしゃるなら、受け入れます」と尊大に言い放ったヴィクトリアに、あたたかい笑みを返してくれた。

 ヴィクトリアの内心など家族にはモロバレである。隠せていると思っているのは、当人だけ。それは邸の使用人らも同じことで、ヴィクトリアが必死に隠しているつもりの恋心は、常にダダ漏れなのであった。



    ◇◇



 この国は魔女がいる。

 年齢は不詳。昔から王家に携わっている。

 易者と薬師を兼ねた存在ではあるが、魔女と呼ばれている理由は、不思議な薬を使うからだ。

 それは、まじないのたぐいで、信じるも信じないも、そのひと次第。

 魔女の言葉は、ただの助言に過ぎない。

 公爵家も魔女とかかわりがあり、ヴィクトリアも彼女のことは知っている。

 物心ついたときから姿形が変わっていないような気がするが、そのことを言及する勇気はない。第一王子はその昔、年齢のことをからかった際、蛙に姿を変えられたという。

 そんな魔女が、何故かヴィクトリアのもとを訪れた。


「噂はいろいろ聞いているよ」

「なんですの、突然」

「植物園に放たれた女王蜂なんだって?」

「……だったらなんですの」

 誰が言い出したのかは知らないが、植物学に身を置くハリーと、彼を苛烈な言動で刺し続ける公爵令嬢をそう形容しているらしい。噂はどんなに隠したところで、本人の耳にも入ってくるものだ。

 わかっている。だって事実だ。

 ヴィクトリアはハリーの周囲を飛び回り、辛辣な言葉で彼を刺している。たとえ心の内がまったく別のものだったとしても、表にあらわれるのは彼を蔑む高圧的な言動でしかない。

 昨今では、我慢の限界がきて、いつ破局するのか、賭けがおこなわれているともいう。

 権威ある賞を取った有能な研究者だとしても、貴族の世界における価値は低い。公衆の場でまなじりを吊り上げて激高する公爵令嬢の姿は、誰もが知っている。すわ、婚約破棄か――と、期待する視線を常に感じているが、限界が訪れるのはハリーのほうだと、ヴィクトリアは思っている。

 ハリーは優しいから。祖父に言われて仕方なく婚約をした。

 こちらは公爵家だし、彼は学校へ通うために援助も受けている。どんなにヴィクトリアのことが疎ましくても、婚約破棄なんてできるわけがないのだ。

「ハリーもお気の毒ですわね。嫌ならばしっかりとお断りすればよろしいのに、軟弱な男だこと」

「そうだねえ。ハリーにだって好きな女ぐらいいるよねえ」

「そ、そう、で、です、わっ。わたく、しは、わたくしだって、ハリ、ハリーのこ、こと、など」

 蒼白になって声を震わせながらも、それでもくちに出す言葉だけは変えられないヴィクトリアに、魔女は笑う。

「まったく、変わらない子だね。魔女の前でぐらい、素直になってもいいだろうに。秘密は守るよ?」

「なんのことですの」

「ハリーのことが好きで好きでたまらないって、全身にぶら下げてるじゃないか。それに、向こうの気持ちを決めつけてしまうのは早計じゃないかい?」

 だって、そんなことあるわけがない。

 いつだって酷いことばかりを言っている自分が好かれているはずがない。

 血が滲むのではないかと思うほど唇を噛みしめるヴィクトリアに、魔女は懐から取り出した小瓶を、テーブルへ置いた。

「可愛いヴィーにこれをあげよう」

「なんですの、これは」

「姿を変じる薬だよ」

「って、それは――」

 王子を蛙に変えたという、例のあれ?

 顔を強張らせたヴィクトリアに、魔女は軽く手を振って答える。

「あの坊やに掛けたまじないとは違うよ。これは特別製さ。たった一晩だけ、愛するひとのもとへ飛んでいける。そういうものだ」

「どんな姿になるんですの」

「それは君次第だよ。君を体現する姿、とだけ言っておこうか」

 ヴィクトリアを表す姿ならわかる。

 蜂だ。鋭い針を持ってうるさく飛び回り、怖がられて逃げられる、毒を持った蜂。

「試してごらんヴィクトリア。怖がってばかりいては変わらない。失敗したら慰めてあげるよ。もしくはいい男を紹介しよう」

 魔女はそう言って、忽然と姿を消す。

 残されたのは湯気を立てる紅茶と、褐色の小瓶だけだった。



    ◇◇



 夢を見た。

 ヴィクトリアはふわりと空中を舞う。

 知っている。ここは、ハリーが勤める研究所の一角にある温室だ。

 空調管理がされ、季節を問わずに植物の育成をおこなうことができるのだと、嬉しそうに語ってくれたことを覚えている。

 漂っていると、人影が見えた。身を潜めるため近くの葉に止まり、そこで自身の姿に気づく。

 ガラスに映るのは一匹の蝶。美しい色彩で知られる、群青ぐんじょうアゲハだ。

 ――これが、わたくし?

 意外な姿に戸惑っていると、声が聞こえてきた。

 それはどうやら、温室の外。複数人の女性であるようだ。ガラス板を隔てているにもかかわらず、不思議と届いてくる。

「ねえ、タニア。いつ仕掛けるのよ」

「仕掛けるって、なによ」

「ペイルズ研究員のことよ」

 ハリーの名が出て、蝶のヴィクトリアはドキリとする。研究所の職員らしき女性たちは、ひとりの女性に向かって、なにかを問いただしている。

「ペイルズさんって律儀よねえ。公爵家から借りたお金を返済しよう、だなんて」

「そりゃ、借りがあると困るからじゃない?」

「たしかに、借金がある状態では、別れるってわけにはいかないわよね」

「あのお嬢様、ブチ切れそうだし」

「入学金も用意できない貧乏人って、ひどい言い草よね」

 なに、それ。知らない。

 そんなこと、言ったこともない。

 けれど、彼女たちのなかでは真実なのだろうし、そう思われても仕方のない態度を取っているのだ。

 震えるヴィクトリアの耳に、彼女たちの声は続く。

 どうやらタニアと呼ばれる女性とハリーの仲を取り持とうとしているようなのだ。そんな相手がいることすら知らなかったヴィクトリアは、ただひたすら翅を震わせつづける。

「タニアのほうが、ずっとペイルズさんに相応しいわよ」

「相手はあの・・ビーよ? 心休まる暇もない。その点、タニアは教授の娘だし、ペイルズさんにとっても、ねえ?」

「もう、ちょっとお。まるで私がパパの娘だから選ばれるみたいじゃない。やめてよう」

「でもタニアだって、あの女に負ける気はしないでしょ?」

「それは……、そうだけど?」

 タニアと呼ばれた娘がくすりと笑い、女性たちも笑う。

 公爵家に借りた金は、先日授与された褒賞金によって、繰り上げ返済できたという。これでもう、公爵令嬢と金で繋がることもなく、心おきなく婚約を解消できることだろう。ハリーが教授に頭を下げ、頷きを返されて喜んでいる姿も見たといい、「タニアとの結婚も秒読みだ」とのことらしい。

 ヴィクトリアは葉に止まっているのがやっとだ。翅をもがれて息絶えてしまいそう。

 ――魔女さまが言ったのは、こういうことなのね。わたくしは彼がなにを思っているのか、知ろうともしていなかった。

 教授の娘、といったか。自分と同じぐらいの年恰好。貴族ではないが、富裕層らしい上質な服をまとった綺麗な娘だ。ハリーと並ぶ姿を想像するとしっくりくる。

 不釣り合い、格差婚。

 ヴィクトリアのような言われ方は絶対にしない。同じ世界に身を置いて、ともに歩いていける相手だ。

 喜色に溢れた声は、唐突にやんだ。近づく足音に気づいて、女性たちは別室へ走りこんでいく。タニアだけが残ったとき、扉が開いて誰かが入ってきた。ヴィクトリアの婚約者だ。

「タニア嬢、どうしてここへ?」

「貴方を待っていたの」

「それはすみません。お待たせしてしまいましたか?」

「そんなことないわ。こうしてハリーを待つのは、嬉しいことだもの」

 タニアはそこで言葉を区切って、甘えるように見上げる。温室のガラスを挟んでいなくとも、割って入る余地はないように思えた。

「お父さまとお話されたのよね」

「はい、色よい返事をいただきました」

「嬉しい。これからは、あのお嬢様に遠慮しなくってもいいのよね、私達」

「――すみません。僕の自惚れなら笑ってくださってよいのですが、貴女の言葉はまるで、僕のことを好いているように感じられます」

「そんな遠回しな言い方をしなくてもいいのよ。だって、あの公爵令嬢とはやっと縁が切れるんですもの。これで私達の仲をみんなに――」

「待ってください。わかりました。遠回しなことは言わなくてもよいのですね」

 ハリーにしてはやや性急な口調でタニアの弁を遮り、話しはじめる。

「申し訳ありませんが、貴女の気持ちに応えるつもりはありません。僕が将来を共にしたいのは、ヴィクトリアです。そちらの部屋で話を聞いている方々にも言っておきますが、こういうやり方はとても迷惑です」

「なに言って。だってあんなにひどいことばかり言ってる女の、どこがいいって言うのよ」

「心外ですね。彼女ほど優しいひとはいませんよ。いつも僕のことを慮ってくれる。僕が恥をかかないように、必死で守ろうとしてくれている。不器用で、うまくいかないことも多いけれど、それでもいつだって懸命です。心根の優しい、可愛い女の子です。他人を悪く言ったりなんてしない。受け入れて、認めようとする努力を怠らない。姿だけでなく、心も美しいひとなんですよ、貴女と違って」

「ひどい!」

「ひどいのはどちらですか。僕の気持ちを無視して、隣にひとを待機させて。大勢から祝福される自分を演出したかったのですか? それならば、僕以外の方に頼んでください。貴女を想っているひとは他にもいますよ。逢引しているところ、見かけました」

「あっちがしつこく誘ってきて、それで仕方なくっ」

「僕でなくても良いのであれば、そうしてください。僕は彼女しかいらない」

「どうかしてるわ、蜂に刺されすぎて、おかしくなったんじゃないの!?」

 おとなしい女子を装っていたタニアが豹変し、ハリーに詰め寄る。鋭いまなざしを受けたハリーは、怯むようすもなくヴィクトリアが潜む温室のほうへ顔を向けた。

 ふと、視線が絡んだ気がした。ハリーは驚いたように瞳を見開いて、柔らかく微笑む。

「あなた方は彼女を蜂だと言いますが、それは違います。僕にとっては、美しい蝶です。群青アゲハのような」

 群青アゲハの生態は不思議だ。かの蝶は「ラス」という特定の植物にのみ寄り添い、蜜を求める。

 一途で、美しい。

 ヴィクトリアの瞳と同じ、群青色の翅を持つ蝶。

「僕の婚約者を貶めるのはやめてください。僕は彼女の唯一ラスになりたいだけです」



    ◇◇



 あれはなんだったのだろう。

 朝食を終えたあと、ヴィクトリアは邸の庭園を歩きながら考える。

 気づくと寝台にいた。枕元の卓には水差しと、魔女がくれた小瓶。

 ――きっと夢。だって蝶なんて、あまりに似つかわしくない

 ヴィクトリアは蜂だ。世間の誰もが思っているし、自分自身もそう考えている。

 けれど夢の世界のハリーは、群青アゲハだと言ってくれた。それだけではなく、あんなふうにヴィクトリアのことを想ってくれるだなんて、もうこれは夢としか思えない。魔女がくれた、一夜かぎりの夢。

 ハリーが大きな賞を取って、認められたことは聞いている。だから、あんな夢を見たのだろう。

「ヴィクトリア」

 庭の一角。祖父の主導で作られた、ラスの花専用の温室の前。そこにハリーがいた。

「なんですの、朝早くから失礼だわ」

「君を待ってたんだ。ここが好きだろう?」

「ただの通り道よ」

「ラスが蕾をつけてる。君が受粉を手伝ってくれたんだよね。おかげで研究が進んだ」

「それって、貴方が賞を取ったという……」

 ラスの花は基本的に紅色をしているが、稀に青く染まる。発現率は低く、奇跡とも称されるその謎を解明し、開花させる可能性を示唆したのが、ハリーだった。

「君の手を借りないで成果をあげるべきだったかな。だけどラスは君の花だから、つい固執してしまった」

「祖父が勝手に言っているだけだわ」

 ヴィクトリアが生まれた日、ラスの青花が多く咲いた報告がされたという。女児の誕生を喜んだ祖父は、庭にラスの温室を作ったそうだ。

「成果が認められて、援助していただいたお金をお返しできた。これでようやく、僕は一人前になれたと思う」

「相変わらず卑屈ね」

「優しい君はいつもそうやって僕を認めてくれるけど、僕はやっぱり自分だけのちからで君を支えられるようになりたかった。だけどこれでようやく、正式に申し込める」

 戸惑うヴィクトリアの前に跪いて、ハリーは彼女の手を取り、指先に口づける。

「我、ハリー・ペイルズは、ヴィクトリア・オルランドを愛しています。どうか私と結婚してください」

 肯定も否定もなく黙りこむヴィクトリアを見上げて、ハリーは瞳を細めた。立ち上がり、そっと彼女を抱き寄せて囁く。

「ありがとう、ヴィー。大切にするから」

「……わたくし、まだなにも言ってなくてよ」

 ハリーは顔に笑みを湛えると、絞り出すように声をもらした婚約者の、これ以上なく赤く染まった頬にそっと唇で触れる。

 涼やかな朝の庭。

 寄り添うふたりの傍を、群青色の翅を持つ蝶がふわりと横切った。






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