トイレの花子さん保護法
@marucho
トイレの花子さん保護法
三連休前最後の平日、消化試合のような午後も半ばのことであった。
「先輩、今回の連休もどこか行くんですか?」
後輩の平田は、いかにも気が入っていませーんというような口調で言った。
「そうよ、温泉に行くの」
やはり私もぼんやりと答える。気分はすでに仕事ではなく明日からの旅行に向かっていた。今回はけっこういい宿を取ったのだ。ふかふかの布団に高級料理、これらを独占できる一人旅こそ至高である。
「毎度思うんでけど、そのお金どこから出てくるんです? この薄給で」
「そりゃあもう節約よ、節約。家賃の安さが正義」
「安いからって、あんなボロ屋はないですよ」
役所の平穏を破る着信音が鳴ったのは、そんな伸びたゴムより間の抜けた会話の最中であった。
私の携帯ではない。平田のである。
「えっ。うわ、困ったな、それはどうしようもないですね……現場の方はどうします? そうですか……そうですよね、うーん……」
携帯を耳に当てた平田の顔がみるみるうちに歪んでいく。
困ったな。これは定時で帰れそうもない。
「何か問題でも起きたの?」
電話を切った平田は、ため息とともに安普請の事務椅子を軋ませて天井を見上げた。
「現場に出ちゃったらしいんですよ、花子さんが」
トイレの花子さん保護法が成立して10年目の夏であった。
少子化が叫ばれて久しい今日日この頃、この世から失われつつあるものがあった。
小学校である。
IT化によるオンライン授業の普及も後押しとなったのだろう。地域の複数の児童が合流する中学校と違い、頭数がいないとなりたたない小学校は、ここ二十年前後で幾校もが廃校の憂き目に合っていた。
私の母校もまた、うねりに飲まれて消えていった。最後の同窓会を旧校舎で行ったのはよく覚えている。校名がなくなることに涙する卒業生もいた。
消えていったのは、何も校名や校歌など名前を付けられるものだけではない。
校長先生の長い話、プールのあとの気だるい国語、学校の怪談。
世代を超えて共有されていた小学校文化もまた、消滅していこうとしていた。
私としては、そんなものかあと思う。時代の流れはいつの日も厳しい。
だが、そう思わなかった人も多くいたようだ。
私が担当するより少し前の時代だが前任者によるとかなり面倒だったらしい。地域サークルの集合場所や地域闘争に発展した例もあったらしい。他にも校舎を無理やりアパート化するなど、あらゆる手段で小学校の保護を目論んだ連中がいたそうだ。
彼らの中のノスタルジーが消滅を許さなかったのだろう。
その闘争の渦中、目を付けられたのが、花子さんだった。
当時、小学校の女子トイレを根城としていた花子さんは急速に数を減らしつつあった。
有識者たちが、貴重な生物である花子さんを守ろうと動き出した。
曰く、花子さんは日本の伝統の文化で、それを体現する天然記念物なのである、と。
オオサンショウウオを守ろう、みたいな活動と似ている。
絶滅危惧種として花子さんを保護しようという運動は実り、最終的に花子さん保護法が成立した。
それが10年ほど前の話である。
それよりさらに前のこと、幼かった私は当然のようにトイレの花子さんを恐れていた。
三階の右から三番目の女子トイレに住んでいるらしい。「遊びましょう」との誘いを無視すると、便器の中に引きずり込まれるらしい。ぼっとん便所に落ちて死んだらしい。
子どもらしくそういった逸話を恐れていたのである。実際に便所に引きずり込まれた児童はいないし、我が母校にぼっとん便所があったことはないらしいし、振り返ってみれば、何が怖かったのかということだ。
結局のところ「みんなが何か恐ろしいことが起こると言っているが、何が起こるか分からない」という状況が怖かったのであろう。
花子さんの正体が、そういった「不明の恐怖」が実体を持った生物であると知れてしまえば、なんてことはなかった。
それがたとえ、解体中の校舎のトイレだとしても。
「花子さーん、出てきてくださーい」
運良く無事だった右から三番目のトイレの、閉ざされた扉を私はノックする。タイル張りの床に声は良く反響した。
学校を卒業して幾星霜、私は生まれ故郷の役所で校舎の管理を担当することになった。定時上がりは確実だし、安定こそは何にも代えがたい。
管理の仕事といっても何をするかといえば、廃校ばかりのこのご時世、職務の多くは廃校に関するものである。。
たとえば、小学校舎の解体とか。
そこで問題になるのが、トイレの花子さん保護法だ。
遺跡が出てきて工事現場の施工がストップした、という話を聞いたことがある人も多いだろう。
花子さんが出ると同じことが起こる。
花子さんの居場所を守るために、校舎の解体にストップがかかるのだ。
「花子さーん」
私はもう一度、扉の向こうに向かって話しかける。周囲は固唾を飲んで見守っていた。
昼間、平田にかかってきた電話は、「解体中の校舎に花子さんが出た。どうしたらいい」というものだった。
解体はもう半ば以上進んでいた。できたらこのまま進めてしまいたい。
だから言葉でもって説得して花子さんに立ち退いてもらおうと思い立った。
「花子さん、いるんでしょう?」
「はあい」
か細い女の声で返事があった。隣の平田が小さく歓声を上げた。
ノックと呼びかけを3回ずつ、これが定石だが出てきてくれて良かった。だめなら煙でいぶりだそうと考えていたくらいだった。
「遊びましょう?」
「何して」
「鬼ごっこ」
「首絞めごっこが良い」
これはただの脅しである。怖いことをするのではなく、怖いっぽいことを言うのが花子さんなのだ。
「そんなことはしませんよ」
「じゃあ何するの」
「引っ越し」
いくら少子化といえど、子どもの数がゼロになることはない。幸いにもこの近くには近年改築したばかりでまだ花子さんのいない小学校舎がある。そこに移動してもらおうというのが、私たちの魂胆だった。
「いやよ、今さら」
「良いところですよ、きっと。子どもたちもたくさんいるし、ここよりもずっとやりがいがあります」
「分かってるわ、騒がしいから気づいている。要はここを壊すから出ていってほしいってことでしょう?」
図星である。永遠の10歳とはいえ、長いこと怪異をやっているだけはある。
花子さんはさらに続けた。
「新しいところなんて馴染めそうもないし、だいたい前任がいないようなところって、立ち上げ要員とか言って耳触りは良くても実際はいまいちなんてよくあることだわ。それにこの歳になって新しい仕組みなんて覚えたくないし」
嫌な思考の花子さんだ。
何が嫌って言いたいことが少し理解できてしまうところだ。
「そんなことはないです」
私は自信のなさをごまかすように気持ち声を張る。
「やってみたら意外と楽しいってこともあるし」
「あんた、絶対そう思っていないでしょう」
その通りなんだけどさ。
「じゃあずっとここにいて、記念物になった人も来ない校舎を守り続けるんですか?」
花子さんの声が詰まる。
校舎の再利用活動が盛んだったのも昔のこと。人自体が減ってしまったのだろう、花子さんがいるからといって破壊を免れた小学校が、何かに使われるという話はとんと聞かない。
「仲間のいるところにいた方がずっといいです」
花子さんの本質とは何か、と問われたら私は「寂しがり屋」と答えるだろう。
彼女たちはなぜ便器に人を引きずり込むか、遊びの誘いに乗るのか。
「不明の恐怖」の実体化というのは、後世の創作ではないかと私は思う。
ときとして他の怪異からも守ってくれるという花子さんは、通学路や家や教室で、一人で過ごす子供たちを救ってくれる存在として生まれたのではないか。
それなのに現代では必要とされず、天然記念物としてオオサンショウウオ以下の措置を与えられる。
かつて教室で一人寂しく放課後を過ごす子供の一人だった私は、そんな花子さんたちに海より深く同情する。
「考えておくわ」
花子さんの返事はそれだけだった。
仕事を終えた私はアパートの階段を軽快に上がる。リノリウム製の廊下と靴のヒールはぶつかり合ってまろやかな音を立てる。
と、それに一拍遅れて裸足でひたひたと迫るような足音。
だが、これはままあることだ。無視して私は廊下の一番端トイレの隣の、3の1の札が付いたままの引き戸を開ける。
「ただいま」
エアコンを切りっぱなしで数時間経過したあとの生ぬるい室温が私を包む。
「おかえりなさい」
返してくれるのは4つのか細い声。4人の花子さん。
何を隠そう、私の家はかつての廃校となった我が母校を利用したアパートである。不気味がって入居者はあまり多くない。
夜中に女の子の声が聞こえるからだそうだ。
出所はもちろん、うち。4人の花子さんは他の現場で捕獲した子たちである。
「今日は新入りの花子さんがいるよ」
背後からは驚いたような少し照れたような気配がする。
今日からうちの花子さんは1人増える。
通帳の残高を思って、私はしめしめとほほ笑んだ。貴重な生物を保護したとして、また保護団体からの補助金が増える。
またも温泉旅行の足しとなることであろう。
ぼろ屋だと君は言うだろうけど、けっこう良いところなのだよ、平田くん。
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