第14話
田舎町の駅舎を発車した在来線車両。
ボックス席に互い違いに向かい合わせで座る探偵和田と助手の黒子。
網棚に乗せたトランクケースが電車の動きに合わせて左右に揺れる。ここでもやはり探偵和田の頭部は微動しており、向かいの黒子はいつものように澄まし顔で車窓の外を眺め続けていた。
電車窓の外には広大な田んぼが続いており、隅っこの方に一体のカカシが突っ立っている。
黒子とカカシの目が合った気がした。都会のど真ん中に立っていないカカシ。黒子は酷い言葉を掛けることもなくカカシに頭を下げ、さようならと言った。
そんな黒子の奇妙な姿を見て和田は首を傾げ不思議な顔をしていた。
目の前の女の子は誰に向かい車窓の外に頭を下げたのだろうかと、自分も電車窓の外に顔を向けてみるが、そこに映るのは広大な田んぼと綺麗な夕焼け空のみだった。
「ねえ、誰に向かって頭を下げたんだい?」
和田の方に顔を向けないまま黒子は小さな声で呟いた。
「自分に似ている人」
ああそうかと和田は納得し再び窓の外に目線を向ける。納得したはいいが、納得仕切れない部分もある。自分に似ている人とは一体誰のことだろうかと和田は思案する。
和田と黒子は一言二言の言葉をやりとりしたあと互いに車窓の眺めを堪能し、再び和田は黒子に難解な問いを投げかける。
「やはり納得がいかない、君は一体誰に向かって頭を下げたんだい?」
困り顔で和田の問いに答える黒子。
「自分に似ている人。いいえ、本当は似ていないのかもしれない。私が似ていると思い込んでいるだけかも」
「そんなに似ているのかい?」
小さく微笑む黒子。
「背格好はそっくりだともいえるわ、それでいて中身が窺い知れない、そんな存在」
「黒子よ、見た目で中身なんか判断できないんだよ、それは当然のこと。僕自身も目の前の黒子のことは中身が容易に窺い知れない。視覚情報だけで得られる情報なんて背格好ぐらいなものだ。それは当然のことだ何も悩む必要はない」
電車車両内を車掌が颯爽と歩いていく。無人駅で購入できなかった切符を和田は二枚車掌から購入する。
細い目をして黒子が口を開く。
「見た目で中身は判断できない。それは堂島さんや関口さんにも言えること? あの二人の中身は窺い知れないと思う?」
静かに頷く和田。
「あの二人の中身が知れたら知った者はショック死を起こすだろうね、それくらいに強烈なものだった。今回の事件の結末としては首謀者である堂島は死亡し、関口さんは行方が分からない。黒子の目からは今回の事件はどう映る? 結果としてどう見る?」
オレンジ色の夕陽が和田と黒子の顔面に眩しく当たる。両者共に目元を細め、黒子は小さく呟いた。
「奇妙な事件ではあったわ、関口さんだと思っていた人物が堂島さんで、堂島さんだと思っていた人物が関口さんだった。彼らは奇しくも共通のフェチズムを有していた。ただそれだけのことなのに私たちは綺麗に騙された」
「黒子よ、綺麗になんか騙されていないよ、汚く騙されたんだ。酷い臭いの中で僕達は騙された。シャワーを浴びても人糞の匂いはこびりついて離れないものだね、先程の車掌の顔を見たかい? しかめっ面とはあのような顔のことだ」
黒子が自身の腕の匂いを嗅ぐ。嗅覚が麻痺した状態で自分の匂いはちっとも分からないでいた。
「人糞塗れになるなんて今後一生できない経験なのさ、それでいてもう二度と経験したくない経験でもある」
「堂島さんはそれを自発的に望んでいたと考えると少しおぞましい気もしますね、やはり 少し頭のおかしい人だった。先生もあの人は頭がおかしかったと思いますか?」
ゆっくりと首を横に振る和田。
「おかしなことなど何一つない。人間とは本来あのような生き物だ。この世の中のほとんどの人間が己の欲求をひた隠しに生きている、堂島は正直者だったと言える、自身の欲求に正直に生き、そして死んでいった」
静かに頷く黒子。
顔を上げ和田の瞳を真正面から見やる。。
「先生はスタンダード側であると自信を持って言えますか? 自分自身が正常な者であると嘘偽りなく言えそうですか?」
ここでもやはり首を横に振る和田。
「誰しもがスタンダード側を追い求める。正常であろうと己を自制する。きっかけは些細なことに過ぎない。何か小さなきっかけさえあれば僕がこの場で君を酷く陵辱し犯すことだってあるんだ。やはり人間は常に自分を律し正常であろうとする、自分が正常であるだろうと思い込んでいる。人間ほど心の弱い生物はこの地球上には存在しない、なぜなら人間は考える生き物だからだ、己で考えるが故に心の弱さを露呈する。本来であれば人間は皆アブノーマルな存在なのだよ」
首を傾げる黒子。
「私には少し先生の言っている意味が理解できません、人間は皆アブノーマルな存在なのですか? 正常な人間はこの地球上に存在しないと?」
「ああそうだ、正常な思考能力を持った人間なんてこの地球上どこを探しまわっても見つけることはできないよ。愚かな思考能力しか有さない人間のどこをどう見れば正常な人間だと言える? 酷く汚い愚かな思考能力。それを我々人類は皆共通で身につけている。だからこそ人類は子孫を残し繁栄できた」
黒子の口元が歪む。苦い顔をする。
「人間は馬鹿であると?」
「ああ、大馬鹿者が群れをなしているだけだ、大馬鹿者が自分のことを賢い生物だと思い込んでいるだけだ。そう考えると正直者の堂島さんや関口さんは非常に賢い生き方をしていたと言える。己の欲に忠実であれ。その精神で自己の幸福度も非常に高かったと推測できる。今の日本社会を見てごらんよ、皆が俯いて国さえも俯いて死に向かっているだろう。極論を言えば己の欲に忠実であれという考えた方は今の日本国において非常に有効な生き方であると言える」
「でも先生、皆が己の欲に忠実であれという精神で生きてしまっては生活が成り立たなくなるわ、治安も悪くなる、国としての機能を果たせなくなってしまう」
乾いた笑いを見せる和田。非常に乾いた笑い。
「人間は国の為に生きているのかい? そんなの死んでいるのと何ら変わらない。国としての機能なんて僕らには必要ないのさ、本来であれば僕らは自分の為だけに生きるべきだ。それがいつしか物心ついた頃からスタンダード側であることを正義と捉えてしまい人間が人間でなくなる。僕らは動物と同じ生き物だ、ならば己の欲に忠実であるべきだ」
やはり苦い表情を崩さない黒子。
「堂島さんや関口さんが正義であると、悪ではなく正義であると、先生はそう仰りたいんですか?」
ここでもやはり首を横に振る和田。
「正真正銘の悪であるに違いないんだ、しかし正義でもある。小学生女児に悪戯した者が正義である歪んだ世界を僕らは生きている。そんな世の中に誰がした? きっと誰が悪いかなんて断定はできない、人に備わる狂気の心が芽吹いただけであって、それを悪だと決めつけては世界が成り立たない。狂気の心は皆の心にあるものだ、誰だって持っている」
黒子が自分自身を指差す。
「私の中にも狂気の心はありますか?」
「ああ、しっかりと有しているようにも見える、僕の目からは」
車内の僅かな揺れが和田の頭部の微動とシンクロする。
目線を床に落とし黒子は静かに和田に問う。
「私の狂気は何ですか?」
静かな口調で和田が答える。
「生粋の犬気質。生粋のドMだということだ。邪険な扱いに喜びを覚えてしまう忠犬とも言える。黒子よ、己の欲に忠実であれ、正常な人間を装うのはよした方がいい、君は生粋のドMなのだから。何も恥ずることなどない、ドMなんてこの地球上に腐るほど存在している」
「先生、私はM気質ではありません」
おなじみの首を横に振る動作を見せる和田。
「隠そうとしても滲み出るモノが己のフェチズムだ、僕の目からは黒子のフェチズムが手に取るように分かる。君は首絞め願望を持っている、行為の最中に首を絞めて欲しいと願っている。夢は夢のままに叶えてしまっては夢ではなくなると君は思っている、心の中に密かに抱き続ける首絞め願望。やはり生粋のドM気質だな君は、いつか首を絞めてくれる相手が見つかるはずさ、夢はいつか叶うものだ、実現するものだ」
黒子は静かに首を横に振る。
「私は首を絞められたいなんて1ミリも思ったことはありません、潜在意識の中にそんな願望が存在するのなら非常に悔やまれる事態です、由々しき事態です、そんな自分はやはり私の中には存在しません」
「どうしてもその事実を認めない君の姿は逆にと思わせてしまうよ。動揺した心をひた隠しにする、それが人間という生物の本来持っている生き方だ、生存本能がそうさせる。もし仮にここで君が首絞め願望を認めたとしても僕にはどうすることもできない、僕は君の首を絞めたくはない、いずれそんな日が訪れようとも僕はきっと躊躇してしまうに違いない」
「糞漏らし」
不意に言い放った黒子の糞漏らしという言葉。和田の心がざわつく。
これは陽動作戦と見て申し分ないだろうと冷静な頭で緻密に分析する探偵和田。痛い所を突かれたという表情は絶対にしてはならない。いたって冷静な表情で斜め前の黒子を見やる和田。
なんとも言えない表情で和田を見返す黒子の顔。哀れみにも似た少し蔑んだような顔。
抑揚のない平坦な口調で和田は小さく呟く。
「糞を漏らして何が悪い、人が人であるが故に人は糞を漏らす、もう一度言う、糞を漏らして何が悪い」
応戦するように黒子も抑揚のない平坦な口調で小さく呟く。
「臭い、なんか臭う」
「今の君にその言葉を発言する資格ははっきり言って皆無だぞ、君だって相当臭い」
互い合ったボックスシート二列は幾許かの静寂が宿り。どちらも喋るのを止め、寝息を立てて深い眠りについてしまう。
不眠症であっても今回の事件は非常に疲れたようで。探偵和田は泥のように眠った。
やがて車窓には都会の街並みが映りだし。在来線列車は無事に新幹線の通る地方都市部ターミナル駅に到着した。
トランクケースを引きながら颯爽と改札を通る和田と黒子。
程々の人の多さで多少の賑わいを見せる駅前広場。稼働していない大きな噴水が曇天の曇り空と相まって非常に寂しく思える。
新幹線の時刻表をスマホで確認する和田。
「黒子よ、発車まで少し時間があるみたいだ、僕は小腹が空いたよ、ハンバーガーでも食べたい気分だ」
駅地下のフードコートへと降り立つと和田は例の如くファストフード店に入店し、ハンバーガー二つとお水二つを注文する。
ファストフードという名だけあって注文した品はすぐに提供された。
小さな包み紙に包まれているであろうバンズとパサパサ肉の塊をジッと見やる黒子。透明な真水が今この時は非常に虚しい。
「さあさあ席に座りなよ、美味しいハンバーガーを食べながら有意義な議論を開始しようじゃないか。今回の件についての総まとめを話し合おうじゃないか、君も色々と言いたいことがあるみたいだし」
窮屈そうにボックスシートへと体を折りたたみ、行き場のない長い足をテーブルギリギリの箇所で縮こまらせる黒子の姿。
呆れた表情で生意気そうに呟く黒子。
「総まとめの議論なんて必要あるんですか? ただただ嫌な事件だった、そんな感想しか私は出てきません」
「黒子よ、今回の議論は少々長くなることを覚悟しておいてくれたまえ、新幹線出発ギリギリまで話し合いを続ける、異論は認めない。ただただ話をする光景が続くのみで退屈な時間が束の間訪れるかもしれない、しかしこれは必要な議論であって長ったらしい話を僕だってできることならばしたくはない。文字数を稼ぐという卑劣な手段みたいに取れるかもしれないが、これは歴とした議論の場だ、総まとめを行って真の物語終焉を迎える」
ため息を吐きながら首を横に振る黒子。
「もうね、今回の事件は汚いに尽きるわよ。とにかく汚くて嫌悪感を抱く奇妙な出来事だったわ、それでいて救いようのないお話しでしょ。逆に感無量の想いだわ、非常に清々しくもある」
ゆっくり頷く和田。静かに口を開く。
「今回の事件のキーワードが黄金という言葉だ、見る人によっては黄金色に見える形容し難いモノ。人間は偶像崇拝が好きな生き物だ、神様をある特定の物体や事象に定着させる、それを拝んで日々を健康に健やかに生きることができる。日本人ほど信仰の薄い人種はいないんだ、そう考えると堂島はやや欧米寄りの考え方だったのかもしれない、非常にパワフルだっただろ彼は。強かったよ彼は。それでいてやはり救いようのない人物だった」
ハンバーガーの包み紙を開く黒子。中から大して美味しそうでもない普通のハンバーガーが顔を出した。
小さい口元で一口かぶりつく。何も滲み出ない、ケチャップの味が濃い、値段相応のお味、すぐさま黒子は紙コップに注がれた水を口内に含む。
「黄金というキーワードを軸に、青い果実、男色、快楽殺人というキーワードも同時発生することになる。全てが必然的なことであって、そうなるように自然とそうなっていった。キーワードを時系列で並べ替えてみると黄金、快楽殺人、青い果実、男色という順になる、やはり堂島に最初に発芽したフェチズムが黄金であって、黄金であったからこそ後のフェチズムに徐々に作用していった――」
「ちょっと待って先生……堂島さんはペドフェリアではないわ、幼い男児に興味はないはずでは?」
「いいや、堂島は関口同様にペドフェリアだよ。発芽寸前の状態だった。堂島宅アパート室内に僕らが泊った日があっただろう、テーブルの上に雑然と置かれたアダルトDVDのパッケージを君は確認していなかったのか? あれは男児のイメージビデオだ、いずれペドフェリアのフェチズムを開花させる素質を堂島は持っていたわけだ。時間の問題だったのかもしれない、他の男児を傷つける凶行に及ぶ前に死んでくれてよかった」
不満げな顔で首を斜め横に傾げる黒子。次に気になった点を和田に聞いてみた。
「関口さんは結局スクールバスの運転手ではなかった、そう考えると一つの謎が残ります、あの部屋にいた小学生男児と関口さんとの接点は? 皆無に思えますが」
「地域で子供を育てる風習があの限界集落にはあるらしい、そして村の幼い男児はあの男子だけだった、前々から唾をつけてターゲットとしていたんだろうね関口さんは」
納得のいかない表情を見せる黒子。
「同じアパート内に住んでいて他人同士が同じフェチズム二つを有するってあり得ることなんですか? あんな小さい田舎町で」
「黒子よ、限界集落云々のお話ではないんだ、仮に考えてみてくれたまえ、君の住む東京都内のマンション内に同じように首絞めが好きな女性が住んでいたとしてもなんら不思議ではない、人の数だけ多種多様なフェチズムは存在する。人の煩悩が生み出す欲の数だけ異常性は街の至るところに存在している、都会だとか田舎町だとかは関係ない。ある一定の年齢を超えた男女は次第に性欲が自然と芽生えるもの、それが成長というものだ。際限ない成長に苦悶の表情を浮かべる者だって存在する、自分自身の性欲に恐れをなして自ら命を絶つ者もいる。それくらいに性欲とは強力で強靭なモノだ」
ハンバーガーに手をつけようとしない和田。今日はよく口が回るようだった。
「エスカーレートし続ける己のフェチズムに一種のゲーム性を見出していたのだろう、新たに加わる性趣向にミニカーのおもちゃを集めるかのような童心を堂島は垣間見た。結果として自爆し望み通りに埋れて死んでいったわけだ」
「こんなこと言うのもおかしな話ですが、少し可哀想にも思えます。人間に本来備わっている欲求で人はここまで落ちる。堂島さんは病気だったのでしょうか?」
鼻でため息を漏らす和田。
「病気だったのかもしれない、それは誰にも分かることではない、線引きが難しいのさ。ある者を病人扱いしてある者を個性と呼ぶ。やはり線引きが難しいのかもしれない。一種の個性が芽吹く時に人は唖然とする、怖がるのさ、やはりスタンダード側の考えを大多数の人々が持っている、歪な線を許さない世界、それが今の日本という国だ」
ようやく紙コップの水を一口飲む和田。
「僕のこの本態性振戦という持病も僕自身は一種の個性とみなしてはいるが、これは歴とした病気だ。個性も糞もない。だが個性と思って生活していかないと己自身の心がもたなくなってくる。これからも僕はこの体の震えを大切な個性として精一杯生きていくよ」
少し黒子が微笑んだ気がした。口元の筋肉が微かに動いた。
「関口さんはどう見ますか? 彼も病気であったと?」
ようやく和田はハンバーガーの入った包み紙を手にし、みかんを剥くように丁寧に包装紙を開いてゆく。
「これも線引きが難しい問題だ、全裸の状態の彼を君は目撃しただろう? 誰がどう見たって病人に見える、しかしこれも誰にも分かることではない。アブノーマルな世界を生きる生き方が本当の生き方のようにも映り僕は涙が落ちそうだよ。素直に正直に生きているだろう、本来の人のあるべき姿だとも言える。素っ裸で交尾をしたくなったらすればいい、陽が落ちて眠りにつき、太陽が昇って目を覚ます、飯を食い交尾をしたくなったらすればいい、やがて女側は子を宿し出産を迎える、青空の下を家族三人が裸同然の姿で手を繋ぎ歩いてゆく、陽が落ちたら我が家へと帰る。そんな生活が人のあるべき姿ではないだろうか」
「そんな生活では世界が成り立たなくなるわ、文明を持った私達人間が、知恵をもって世界を発展させる、服を着ていないなんて原始人みたいで少しおかしくも映ります」
鼻で笑う和田。
「原始人はこの世界を確かに生きていた、そのような生活は可能だと認めていることじゃないか。今の世界は少々窮屈そうに映る、発展を願って躍進を続ける人類だが、スマートフォンは本当に必要なモノか? 車がそんなに必要なモノとでも? 高級フレンチ料理に僕はいまだに意味を見いだせない、今僕が手にもっているハンバーガーでさえもパサパサの肉にケチャップの味のするバンズに挟まれたモノというだけだ、大して美味しくもない。黒子よ、ピクルスは本当に必要なモノか?」
隣席に座っていた女子高生二人組が怪訝な表情で早々に席を立ち去る。どちらも鼻をつまんでいる。
和田が顎に手をやり細い目をする。
「陽光に照らされた我々の体の下方向、地面下には影が存在することになる。誰にでも影は作り出せる。それは己自身の分身を見ているかのようで黒い影は姿形が黒い像となって地面下に存在するのみ。日向を歩めぬ者もいる、それはその人自身が影であるが故、眩しい日差しで己が消滅してしまうのを極端に恐れる。影は誰にでも作り出せる、しかし影に影は作り出せない、どんな芸当を駆使しようとも影に影は作れないのだよ」
店内の照明に照らされてテーブル上に黒子の大きな影がぼんやりと存在している。黒子は自身の右腕を動かし影の反応を楽しむ。
「先生の言っていることはもっともなことだわ、でも至極真っ当な言葉の数々に何だか私は難しく感じてしまう。私の影は先生の影ではないと? では堂島さんや関口さんの影は存在しないの? 彼らは日向を歩めない人達なの? 彼らは影自身であると、そういうこと?」
静かに頷く和田。テーブルの上にはかじりかけのハンバーガーが置かれている。
「黒子は二重身という言葉を知ってはいるか? 馴染み深い言葉に言い換えればドッペルゲンガーというモノだ、自己像幻視とも呼ばれる分身体験のことを言う。堂島と関口さんは二重身とも言える存在なのかもしれない。影と影の重なり、あの二人見た目がそっくりだっただろう、それでいて共通の二つのフェチズムも有していた。限界集落では知り合いの知り合いは自身の知り合いとなり得る、であるならば、他人こそが自分自身だとは考えられないだろうか。写し鏡のような見ず知らずの他人にこそ自身の特徴は色濃く反映される。己の心の像がそのままそっくり反映される。そうは考えられないだろうか」
黒子には和田の言っている意味が一つも理解できないでいた。十八歳少女にはまだ少し難しいお話。
「私には少し難しいお話みたい。先生の言っていることが正しいとするならば、私は先生でもあるし先生は私でもある、どうも理解できないわ、とっても難しいお話、もっと噛み砕いて説明をお願いできますか?」
挑発するように和田を真正面から見やる黒子。もうハンバーガーは食べ終わり胃袋の中で消化作業が始まっている。
「無論君が僕であるはずがない、僕も君であるはずがない、しかしあるはずがないと断言できない部分もある。黒子の目には僕は和田一として映ってはいるが、本当に和田一だとする確証は何一つない。運転免許証や身分証明書の偽造など今のご時世簡単にできることだ、役所で戸籍書類を貰ってくるぐらいしか本人であるという確証を得られる方法はない。僕の目にも目の前の君は黒子として映ってはいるが君の名前は本名ではない、黒木黒子というどこかの誰かさんだとは容易に推測はできる、性別が女の長身の女性、それぐらいしか僕には情報がない」
「私は黒木黒子よ、黒木黒子というキャラクターを演じ先生の助手を務めている。先生の前では黒木黒子、その他諸々の人の前ではもしかしたら白木白子や赤木赤子や青木青子という偽名を使って生活しているのかもしれない、でもね、これだけは言える、先生の前では私は黒木黒子なの」
静かに言い放った黒子は天井を仰ぎ見て照明の光に目を細める。
和田が冷静な表情で口を開く。
「僕は老若男女問わず和田一というキャラクターで通させてもらっている、誰の目から見てもそこには和田一が存在しており、和田一という探偵がいつの時代も華麗に難事件を解決する。僕はそういう男だ」
「和田一という名に偽りはないですか? 先生は自己を和田一として器用に演じているだけでは?」
首を横に振り薄ら笑いを浮かべる和田。
「ブレインシェイク―微動する和田一という男は何を隠そう僕自身のことだ、自身の個性を生かし探偵業を生業としている。偽りも糞もない、優れた直感能力を有し推理をしない探偵としてそこそこ有名な存在とはなってはいる。目の前の君が僕の助手であるように君の目からはしっかりと目の前の男が探偵として映っているだろう?」
吹き出し思わず笑う黒子。
「糞漏らし探偵って未だかつていないですよね多分。そんな探偵は聞いたことがありません」
素直に仏頂面へと移行する和田の顔面。
追撃の手を止めない黒子は和田の弱点を把握している。今回の事件で和田に一つの弱点が追加された。糞漏らし。
腹を抱えて笑う黒子嬢。ドSの性質も持ち合わせているのかもしれない。
「あの時の光景を思い出したら笑いのツボに入ってしまって、すみません申し訳ないです、でもあの時の先生の表情は傑作だったなあ、だって子供みたいだったんですよ、小さい男の子がうんちを漏らして困り果てる表情、そんな感じでしたよあの時の先生は」
「僕に冗談は通じないと君も理解しているだろう、やはり冗談という類はこの世から根絶すべきだ、人の不幸がそんなに面白いか?」
笑いながら素直に首を縦に振る黒子。
「先生だと尚更面白い。だって一つのギャグとして通用しますもん、渾身の持ちネタができて内心嬉しいんじゃないですか? 飲み会の席で披露でもすればいいんですよ」
少し悲しそうな表情になる探偵和田。静かに呟く。
「君のその勇ましい度胸にはいつも感心させられる、歳上男性に向けた発言だとは到底思えない。さては君は僕のことを心の底では格下に見ているのではないか? 黒子は常に自分に正直に生きているんだなあ、おべっかを使えないまさに正直者だとも言える」
「先生、そんなに褒めても何も出ないですよ」
「未成年から金品を授受するような幼稚な男だと思わないでくれたまえ、僕は歴とした成人男性だ」
和田のことを静かな表情で見やる黒子。紙コップに入った真水を一啜りする。
「冗談が通じないことに意固地になってはいませんか先生は? もっと広い視野で世界を見つめた方がいいと思います。外国人でさえも冗談を言い合うんです、やっぱり私の目からは先生はロボットにしか映らないな、それか首振り人形」
呆れ顔に変わる和田の表情。
「黒子よ、人生の先輩として一つ忠告しておかなければならないことがある。もう少しオブラートに包んで言葉を選んだ方がいいな。今はまだ若いから通用するが大人になってそれらが通用しなくなる時がいずれ必ず訪れる、今からでも遅くはない、相手を思いやる心を忘れないようにした方がいい」
「先生に言われても全然説得力がないわ、正直こんな大人になりたくわないもの」
唖然とするしかない和田は首を垂れて辟易する思いだった。目の前の少女の方が自分よりも何十倍も強い。
「常に揺れて震えて時々うんちを漏らしちゃう、そんな大人にはできればなりたくはない」
和田の顔に影がかかる。陰影の素晴らしい水彩画のようだった。
「うんちは流石にないよね、だって大人じゃん」
やはり黒子は和田の弱点を把握している。弱り切った大人に渾身の一撃を喰らわせる。
「子供じゃないんだからさ。探偵ごっこは楽しい?」
その一言で和田の涙腺が崩壊し一気に涙が溢れ出した。テーブルの上に涙の滴がポタリと垂れる。
「あ~あ、泣いちゃった」
困った表情で和田を見下ろす黒子。やはりこんな大人にはなりたくはないと思っているのだろうか。
「先生って本当は弱い人なのよ、強がって見せているだけ、本当はどうしようもなく弱い存在。私の前ではそんなに強がらなくてもいいのに」
嗚咽を漏らしテーブル上に泣き崩れる和田。悲惨な光景に対面の黒子が密かに微笑む。
「強がらなくてもいいの、自分自身に正直になればいいの、先生は優秀な探偵なんかじゃない、子供のまま大人に成長しきれていない子供大人という種類の生き物。探偵である必要は何処にもない、あなたはあなたのままでいい」
しゃっくりを伴った子供のような泣き声を出す和田。
「強がってなんか……」
鋭く和田の微動する頭部を睨みつける黒子。
「きっと先生はプライドが高いのよ。でも今回の件でそのプライドも粉々に砕け散ったでしょ? これから続く長い人生、自分に正直に生きた方がいい。いっそ探偵なんて稼業を辞めてみたら? 新しい自分を見つけてみては?」
「僕は優秀な探偵でありたい……」
「また強がってる。先生は結構頑固者よね、推理をしない探偵はこの世界では必要とされないの、分かる? 推理をしない面白味のない探偵の存在意義は? いてもいなくても誰も困らない」
「全く需要がないと……そう言いたいのか君は?」
「ええ、おまけにうんちを漏らした探偵。探偵はカッコよくあるべきでしょ、うんちは流石にないんじゃない?」
悲痛な表情でなおも嗚咽を漏らし続ける探偵和田。
「先生って体の栓がゆるいの? うんちは漏らすわ涙は出すわ、悲痛な嗚咽でさえも自由自在なのね、芯のしっかりしていない軟弱な探偵に私の目には映っちゃう。正直カッコ悪いよ」
黒子の瞳には一人の情けない大人が映っている。
「十八歳の女にこうも言われて泣きじゃくる大人は見ていて非常に痛々しい、私の二倍以上の年数を生きているのにもかかわらずこの憔悴振りはやっぱり痛々しく感じちゃう、まるで私が先生を虐めてるみたい」
ファストフード店の店員には二人の光景はどのように映っているのだろうか。歳の離れたカップル。女側の方が一方的に男側を責め立てているようにも見える。事実そうなのかもしれない。
哀れみにも似た顔で悲しそうに和田を見やる黒子。これの助手を私は務めている。と心の中で思っているのだろうか。
「この前も言ったけど、堂島さんや関口さんの方が先生よりもよっぽど大人。あの二人は罪を犯したけれど、それでいても先生よりは自分の考えや信念を大切に生きていた、あなたに備わっているのは直感能力だけじゃない? 自分で考えようとした? 天から与えられた素晴らしい能力に甘んじて探偵の真似事をしている。かっこ悪いよね、正直滑ってるよ、滑稽にも映りさえする。推理をしないのなら探偵なんか辞めちゃえば」
声を荒げて泣きじゃくる和田の姿に、ファストフード店の従業員達は皆慌ててあたふたしている。
「挙句の果てに今回の脱糞行為でしょ、本当に呆れちゃう、探偵の名に泥を塗る行為はよしてもらいたいわ。先人達は嘆き悲しんでおられるわよ、まさに泥を塗る行為、非常識極まりないわ、失礼よ、明日から探偵と名乗るのは禁止とします、それでいい先生?」
「僕は探偵だ……」
「往生際が悪いわよ先生、もう観念しなさいな、和田一、もう私はあなたのことは先生なんて呼ばないわよ、これからは和田一と呼ぶことにする」
キッパリと言い放った黒子の言葉に、胸が引き裂かれる思いの探偵和田の現在の姿。主従関係が構築されない対等な立場を和田は断じて望んではいない。従えたい強い思いが己の胸深くに存在しており、それを可能にするのは目の前の少女だと思い込んでいた。
一気に崩れ去った己の牙城。空高くそびえ立つ天守閣に巨人の国のお姫様の野太い脚が直撃し、崩壊する様は非常に潔くも映る。
真っ白な灰状態で俯く和田のその姿は乾燥しきった白樺の樹を連想させ、一気に老け込んだようにも見える。
「一人の人間として忠告しておいてあげる。和田さんの今の姿は到底子供には見せられない、成人指定マークの貼られたパッケージ化された猥褻物よ、こんな大人の姿は子供には見せることができない、終わった人間ほど子供に害を与える存在はないの、子供は大人の背中を見て育つ、あなたの背中は未来の子供達にきっと害を与える」
クスッと小さく笑う黒子。
「自分の姿を客観視できる人なんてこの世には存在しない、でもあなたはもう少し自分のことを客観的に見た方がいい。上から俯瞰して見てごらんなさいな、和田一という名の猥褻物が街を闊歩する光景。エッチな物体が街を歩いているの、そんな姿は子供には見せられないわよね、精神衛生上良くないことだわ」
聞こえているのか聞こえていないのか和田は表情暗く俯くだけ。
「和田一という卑猥な棒が振動しているの、一瞬あれっ? て思っちゃうわよね、卑猥な棒が振動しているの、棒が。和田さんは前に言っていたよね、振動数がなんちゃらどうちゃらって、ねえ考えてみて、卑猥な棒が振動しているの、卑猥な棒よ、それが僅かに振動する。振動数なんて本当に存在するの? あなたが作り出した自分だけの概念なのでは? 振動数が上がると幸運になり下がると不幸になる、そんなのまるっきりハッタリじゃないの、私の目からはあなたは不幸に見えるもん」
ピクッと右頬が微かに動く和田。震える唇でどうにか言葉を口にした。
「振動数は存在する……僕の存在がその証明だ」
「だからさ、私の目からはあなたは幸福には見えないんだけど? 私の目がどこかおかしいの?」
弱々しい小さな言葉を一生懸命に紡ぎ出す探偵和田。
「振動数で人類は繁栄し続けてきた……モノは皆振動している……振動数は確実にこの世界に存在する」
ため息を吐いて俯いた首をもたげる黒子。
「じゃあ何? あなたは振動数の究極系ってこと? 冗談も大概にしてくださいよ、自分の病気を正当化して凄い力を手に入れた気になっている。事実あなたの直感能力はたまたま当たっただけかもしれない、まぐれが偶然重なり自分は凄い人間なんだと滑稽に思い込む。和田さんは精神疾患を患った間抜けな病人なんですよ、病人は病人らしくお家で寝てましょうね」
先ほどまでの沈んだ表情を吹き払いキッと目の前の黒子を睨みつける和田。
毅然とした態度で目の前の少女に諭すようにこう言い放つ。
「病人にも生きる権利、自分らしく生きる権利はあるはずだ。何らかの障害を持っていても未来へ広がる可能性は皆持つべきだ。ハンディキャップ上等じゃないか、自身の障害で劣等感に潰されるのならば、それを一つの個性として社会に進出した方がよっぽどタメになる。この世に同じ人間なんて一人も存在はしない、皆バラバラだ、目に見える障害であってもそれは些末な問題に過ぎず、自分は自分という強い信念が一つの強い可能性となってゆく」
黒子がこれに強い口調で反論する。
「いいえ、障害は個性でもなんでもない、障害は障害よ、綺麗に見せようとしているだけにしか私の目からは映らない。ハンデを負った体でどんな未来が広がるって言うの? 人よりも劣った部分がマイナスからのスタートに思えて私は仕方がない。私の長身の体だって見る人から見れば一種の障害とみなされるかもしれない、身長が高いことで辛い思いも私はしてきたわ。和田さんは自分を正当化させようとしているだけ、障害は障害だと認めるべきだわ、個性なんて言葉は偽りの言い換えでしょ? 人より劣った部分があるのならそれを認めて静かに暮らすべきだわ」
「詭弁だな」
睨みを利かした三白眼で正面の黒子をジッと見やる和田。
「君とは議論の余地がまるでない、いっそ袂を分かつか? その方がお互いの為だ」
「そうやって逃げるんですか? 『詭弁だな』『議論の余地がない』便利な言葉ですね、この世は便利な言葉で溢れている、腐った政治家に似ていて非常に好感が持てます。『言った覚えがない』『陳謝』も語録に加えたらどうですか? きっともっと強くなれますよ」
「君のその発言力は将来的に身を滅ぼすことになるぞ。忠告しておく。相手を思いやる気持ちを失っては駄目だ」
乾いた笑いを見せる黒子。
「思いやりって言葉は非常に便利ですよね、偽善者だらけのこの世界で自分が悪者にならない魔法の言葉。空気を読んで何も指摘してこないその他大勢と私を一緒くたにしてもらっては困ります。思いやりって本当に必要なんですか? 偽善の心で健全な心を育んでいく、そんな頭の賢い子供見たくないです正直」
目元の力を強める探偵和田。
「一応忠告はしたぞ。君より僕の方が人生経験は豊富だ」
紙コップの真水を一気に飲み干す黒子。
「さっきまで泣かされていたくせに随分と偉そうに物を語りますね、あなたさっきまで歳下女に泣かされていた。ねえねえ、うんちを漏らした悪い子はだ~れだ? 君かな?」
「探偵をおちょくる肝の座った大した女だ。将来的に君は化けそうだな、こんな物怖じせずにズケズケと悪の言葉を言い放てる君は将来大化けするのは間違いない」
「私は自分に嘘をつきたくないだけ、偽りの言葉を述べたくはない。目の前のあなたはちっとも怖くない、対等な立場である証拠よ、むしろあなたの方が下かもね」
静かな睨みを利かせる和田。目の前の少女に怯む様子はない。
「自身のキャラクターとしての特性をよく理解しておいた方がいい、君はこの場では紛れもない悪として映っている。反対に僕は正義だ、探偵は正義であるべきだ、あちら側に落ちた探偵も見てみたい気もするが、探偵とは正義であって正義であるべきだ」
「うんちを漏らした正義って何よ? そんなカッコ悪いキャラクターいてもいなくてもいいでしょ? うんち漏らしたんだよ」
周囲に悪臭をお届けするこの二人の周りには客は一人もいない。店員達は皆一様に戸惑っている。
「一度貼られたレッテルは綺麗に剥がせるものではない、僕は糞を漏らした探偵だ、それがどうした、何か問題でもあるか? 糞を漏らした僕が探偵だっただけのお話、致命的な弱点にはなり得ない」
「震える糞漏らし、常に漏らしてるの? だから震えているの?」
奥歯を静かに噛む和田。
「決定的だな。君と僕との溝は埋まりそうもない。君の首に嵌めてある首輪をほどいてあげよう、さあ何処へでも行きたまえ、駄犬は駄犬らしく青空の下を駆け回るといい」
和田を睨み返す黒子。ヤり逃げはされない主義。最後に言い返してこの場を立ち去ろうとする彼女。
椅子から立ち上がり和田を見下ろす。皮肉いっぱいにこんな言葉を口にした。
「糞漏らし」
表情一つ変えずに和田は椅子を立ち上がり黒子と近い目線まで顔を寄せる。
あの日と同じように。黒子を街の雑踏で拾い上げた時と同じように。和田は黒子の耳元に顔を近づけ耳に手を当てる。
――あの日と同じ言葉を耳元で小さく囁いた。
「チャック開いてるよ」
自身の股間を確認する黒子。確かにスキニージーンズの股間部分、社会の窓は全開状態だった。今の今まで股間を開けて過ごしていた間抜けな女。
「ご指摘ありがとうございます。あなたは観察力が人並み以上に優れているらしいですね。お名前を伺ってもよろしいですか?」
二人の間に一陣の風が吹き抜ける。
「僕は和田一という者だ、探偵業を生業としている」
了
「先生。探偵小説にありがちな最もらしい終わらせ方で場を締め括ろうとするのはどうかと思うます。こんな展開読者さんはきっと飽き飽きしているんだと思います」
和田は妙に微笑むと正面に座る黒子にこう言った。
「黒子に今後の物語展開を伺ってみるとしよう。僕らはこれからどうなる。何処へ向かいそこで何をする?」
「私達は東京へ戻ってお互いの道を歩むことになります。首輪を解かれた私は自由気ままに東京都世田谷区の自宅へと戻りますよ」
黒子は紙コップを手にしたが中は空だった。
席を立ちカウンターへと向かう黒子。新しいお水を注文し、スマイルだけを店員に支払い紙コップを受け取っていた。
「何者にも臆さないその心意気。大人顔負けだな。やはりキミは将来的に大物になる予感がするよ。この僕が言っているんだ間違いないよ」
JK集団が隣の席を陣取りお喋りに夢中の中、和田と黒子は互いの主張を正当化すべく奔走している。
「先生と私はこれからは別々の道。お互いに思うがままに生きてゆくの。その中で再び出会うことがあったとしても、それは和田一と黒木黒子という二つの個の巡り合わせなのであって、その他諸々の余地が関与しない別次元のお話なのよ」
「黒子の主張が正しいというのならば、僕と黒子は別個の人格ということになってしまう。それは少々無理のあるお話ではないだろうか。僕はこう考えるよ、運命共同体である僕らに個別の個というモノは存在しない。キミは僕の助手だ、だからこそ僕の片腕を支える役割がある。それを放棄するというのか」
「首輪を解き放ったのは先生の方でしょ。先生が自ら私の首元を自由にした。もう拘束される理由はないの。私は私の思うがままに生きてゆくの」
「黒子。それは違うぞ。私は自分の意思で首輪を解き放ったつもりだ、だが飼い犬というモノは飼い主のそばを離れないモノだろう。だからこそ飼い犬と言われる所以なのだ」
「いいえ、先生、それは違うわ。私は飼い犬であって飼い犬ではない。飼い犬のふりをしていただけなのよ。もう私の首元に首輪はない。だから私は自分の意思でこの先を生きてゆけるの」
「間違いを修正する必要があるようだな。いいかい黒子。間違いなくキミは僕の飼い犬だ。そうなるべくして出会った運命なのだ。だからこうして今この場を共に共有している。犬のリードを引いてこの地に降り立ったのは僕だ」
不穏な空気を察したのか隣の席のJK集団は口数が少なくなった。
「さっきも言ったけど袂を分かつ時がきたのよ。今がその時なの。今より後でもなく今より先でもない、今がその時なの」
「僕から離れていってキミはこの先どう生きてゆく? 独活の大木であるキミが活躍できる場など数少ないぞ。どうだ、もう一度こちらに寄り添ってみては? 私は来る者は拒まない主義だ。去る者も腕を引いて引っ張る、それが僕の主義だ」
「きっと先生は孤独を恐れているのよ。だから私を手放したくない。孤独ほど恐怖心を煽るモノはないわ。それを私は身を持って経験してきているんだもの。先生は孤独を恐れている」
その言葉を聞いて和田が密かに微笑んだ。それを直視する黒子は目元が細くなっている。
「孤独が怖いだって。孤独なんて屁でもないんだよ僕の場合。いつの日だって孤独だった。今さら孤独が怖いとは思わない。だがただ一つ、孤独は怖くはないが孤独死は僕だって怖い。人知れず息を引き取り腐敗していく身体。考えただけでも身の毛がよだちそうだよ」
「先生のご両親はご健在?」
「ああ、田舎で暮らしていると思うよ。定かではないが」
「いっそ田舎に帰ったら。田舎で探偵業を続ければいいじゃない。村の人のお手伝いをしながら細々と暮らしてゆくの。それがきっと先生にはあっていると私は思います」
「馬鹿を言うんじゃないよ。今さら田舎になど帰れるものか。私は都会暮らしのシティーボーイでいつだってありたい。世田谷区育ちのキミには分からない話なのだよ」
「だったら何? 先生は都会育ちの私には田舎出身の人の気持ちが分からないとでも言うわけ?」
「ああそうだ、キミには田舎出身者の気持ちは1ミリたりとも分かりはしない。出生の時点でキミは他の人より優位な立場にいるのだよ。それをもっと自覚したほうがいい」
生意気そうな視線を真正面の和田に向ける黒子。目元は笑っていなかった。
「都会と田舎。二つを隔てる高い壁があるのだとするのならば、私は都会暮らしに憧れいなんかないし、逆に田舎暮らしに憧れていたりもする。隣の芝は青く見える。そういうことなのかもしれませんね」
「都会出身のキミと田舎出身の僕とは永遠に分かり合えないよ。そもそもの生まれが違うんだ。生まれで幸か不幸かはある程度決まるものなのだよ。圧倒的にキミは幸福者だ」
「それは都会出身者を馬鹿にしているようにしか私には見て取れません。都会人には都会人なりの苦労というものがあって——」
「都会人に苦労? 馬鹿を言うんじゃないよ黒子。都会人に苦労などあるはずないだろう。恵まれた環境下に身を置きながら苦労だと嘯いているのなら、それこそ軟弱者にしか私には映らない。学業にしたって就労環境にしたって都会の方が圧倒的に恵まれている。それを不幸だと言うのならそれこそ根性なしだ」
「根性なし? 根性があるかないかのお話ではないですよ。根本から間違っています。根性云々のお話であって、根性論を熱くここで議論しようにも、都会出身者である私にとって田舎出身の先生の考えほど分からないものはありません」
「敷かれたレールの話をこの場ではしている。それに自ずとついてくるモノが根性論というモノのなであって、敷かれたレールを用意されているだけ幸福だと思えないのであればそれは根性なしということになる」
「先生。言っておきますけど、私は親にレールなど用意してもらった経験などありません。それは一部の特権階級の人達だけのお話なのであって、一般市民には関係のないお話です」
「いや。それは間違っている。都会出身というだけでそれはレールを用意されているようなものなのだよ。選択肢の幅が無尽蔵に用意されている。選び放題というわけだ。だが田舎出身者は違う。選択肢の幅が狭すぎる、だから田舎は若者の数が少なくなっていく。爺婆だらけの花園を形成し、少子高齢化に歯止めが効かぬ事態へとなっていく」
「レールなんて私には皆無でしたよ。人が集中するのが都市というモノ。そこに身を置いて得したことなど一つもありません。いっそ私は田舎に生まれたかった」
「これこそ隣の芝は青いだな。やはり都会出身者と田舎出身者は永遠に分かり合えないのかもしれない。それを証明するように、今ここで私と黒子は意見が対立している。お互いに意見を譲る気配を見せていない。お互いに頑固者だな」
和田は腕時計をチラッと見る。
「そろそろ新幹線の乗車時刻だ。店を出るとしよう」
トレー返却口に飲み物のカップなどを捨て、ハンバーガー店をあとにする和田と黒子の二人。
「二人の旅は東京駅まで。そこからは別々の道が待っている。きっとこの先会うこともないでしょう。先生と私は本質からして別種の生き物、本来交わってはいけないモノだったのかもしれませんね」
その言葉を聞いて和田は口をつぐんだ。
「私の言葉に言い返さないなんて珍しいですね、言葉を交えるのもあとわずかですよ。名残惜しいですか?」
黒子のその発言を聞いて鼻で笑う和田。
「ああ、きっと名残惜しいんだろうな。キミとこうやって言葉を交えるのが」
トランクケースを引きながら二人は新幹線へと乗車した。
地方都市ターミナル駅の新幹線乗り場。二時間半ほどで東京駅へは到着してしまう。
新幹線車内で二人は一言も発さずに東京への短い旅が始まった。
発車した新幹線車内で両隣の席に座る和田と黒子。
ここまで沈黙を守っていた二人だったが不意に黒子が言葉を発した。
「堂島さんと関口さんは同じ種類の人間だった」
訝しげに隣の黒子を見やる和田。
「であるならば、先生と私も同じ種類の人間。つまりはこの地球上に住む人間という人間は全て同じ種類の人間なのでは?」
その言葉を聞いてニヤリと微笑む和田。
「実に的を得ているな。そうだとも、この星に住む人間は元を辿れば全ては同じ種類の人間なのだ。田舎出身、都会出身、そもそも全てが関係ない。この星を住処にしている以上皆が普遍的な位置を推移しているのだ」
「先生は特殊な性癖をお持ちですか? 私には話せないようなコトを夜な夜なしているのだとしたら、それはそれで怖くも映りはしますが、人間なんてそんなモノですよね」
苦笑する和田。
「私は特殊な性癖など持ち合わせてはいないよ。これは神に誓って言える。私は至ってノーマル側だ。黒子が今頭の中でどのような想像をしているのかは定かではないが、人間という生き物はアブノーマルさをひた隠しにして生きている生き物だ、大多数の人間が何かしらを隠して日常を生活している」
「先ほど私はM気質ではないと否定はしましたが、もしかすると心の奥底にそういったモノも芽生えているのかもしれませんね、自分でも意識せずに」
「それは黒子の言う通りだ。心の奥底など自分でも分からない場合が多い、人は元来そういった生き物だ。だから黒子の言う通り自分でも意識せずにソレに染まる場合だって大いにあり得る」
「その心の奥底が露呈した人間が堂島さんや関口さんだったと。彼らはソレを隠しきれないほどに己の欲望が溢れ出てしまった」
新幹線窓の外。車窓を眺めながら和田がこう呟いた。
「ソレは一種の狂いだよ」
「狂い?」
猛スピードで通過していく街の景色を和田の瞳が追いかけてゆく。過ぎ去った車窓からの眺めは過去に存在するモノ。
「人は誰でも狂う可能性を秘めている。誰でもがだ。誰でも些細なきっかけで狂う場合がある。ソレを抑制しているモノが尊厳というモノだ。人の尊厳は誰が決める? ソレは自分自身が決めることなのだ、自分以外の誰かが決めることでもない」
「先生や私であっても狂う可能性を秘めていると? そのきっかけは些細なことを契機に発作的に発症するということですか?」
「今僕が黒子の顔面を殴ろうと思えば殴ることは可能なんだよ。しかしソレを尊厳というモノが抑止している。人の尊厳を失ったモノは動物と何ら変わらない。それは本能で生きるということなのだ」
「人は本能を抑制しながら生きる生き物。だとしたならば、堂島さんや関口さんは己の本能のままに生きていたということになりますね。私だって今ここで先生の顔面を殴ることは可能なわけですし、私は今現在己の本能を抑制しながら生きているということになりますね」
窓の外を眺めながら和田がくすりと笑う。
「人の本能が解放されたからといって必ずしも人を殴るというわけではない。人によっては蹴る場合もあるだろうし噛みつく場合だってある。つまりは対象と自分との境界が曖昧になりその対象をモノとしてみなすわけだな。対象を食べ物としてみる見る場合だってあるだろうし、性のはけ口として見る場合だってある。人を人として見なくなるということだ」
黒子はペットボトルのお茶を一飲みする。
「先生は人を人として見てはいますか?」
黒子のその発言を聞いて吹き出す和田。
「何てこと言うんだい黒子、それじゃ僕が人でなしみたいじゃないか。僕は人を人として見てはいるし、その人の奥深くまで見ようとする。僕は人間観察が大好きなんだ」
「私の目からは先生は人を人として見てはいないように思います。先生は人間観察が好きだとおっしゃいましたが、きっと動物園の檻の中にいる動物を見ているような感覚なのでは? そもそも先生は人間が嫌いなはずです」
「嫌いだからこそ興味が湧くのさ。その嫌悪の先を垣間見たいんだよ。人間の意地汚い部分を僕はずっと観察していたい」
「それって嫌味に聞こえますよ」
「いいんだよ。僕は人間が大嫌いだし、それは事実なんだから。だからこそ観察しがいがあるってものだ」
「この先、人間を好きになることはありませんか?」
「ないね」
「絶対にですか?」
「ああ、絶対にない。僕の人間嫌いは矯正のしようがない。だからこそ僕は意地悪心でその人間という対象を観察したいのかもなあ」
「先生私のことは嫌いですか?」
「嫌いでもないし好きでもない。もう一度言っておく、嫌いでもないし好きでもない」
その言葉を聞いて微妙な表情へと変わる黒子。
二人の間に奇妙な沈黙の空間が出来上がってしまった。
和田は絶えず車窓の眺めをひたすらに見続けている。黒子はペットボトルお茶を手にすると一飲みした。
和田が何も言葉を発さないことに根負けした黒子は自分から言葉を発した。
「人は人に好意的であるべきです。そうすれば争い事なんて発生しないし、皆が穏やかに生活できると私は思うんです」
その発言にも鼻で笑う和田。車窓の眺めを堪能しながら鼻で笑っている。
「黒子よ、偽善ぶるのも大概にしないか。人は人に好意的であるべき? 馬鹿げたお話だな、自分以外の人はどうしたって自分以外の人なんだよ。だからこそ分かり合えない。この世の全ては争い事で出来上がっている。世界平和を掲げておきながら戦争だってするじゃないか。全てが矛盾しているんだよ。人は争う為に生まれてきたと言っても過言ではない」
「争う為に生まれてきたなんてそんな酷な話ないですよ。やっぱり人は人に好意的であるべきなんです。それは偽善の心でも全然OKなんだと思います。表面上が好意的、裏っ側なんてみんなゲスいですから、そんなこと百も承知なんですよ」
「いいか黒子。その場を取り繕う為だけに存在する偽善ほど醜いモノはない。そんな残酷なことを皆が平気な顔して日常的に行っているんだ。この世はまさに異形の街さ、救いようがない」
「確かに先生の言う通り、この世は異形の街なのかもしれませんね。でも私達はそこで生活していかなくてはならない。円滑に人とコミュニケーションをとり一日一日を過ごしていかなければならない。その為にはやはり人には好意的であるべきなんですよ」
「私の意見とキミの意見、交わることはなさそうだな。お話の着地点もなくきっと東京駅へと到着してしまう」
「頑固なことはもっと美徳とされるべきですよ。先生と私はどちらも意見を曲げようとはしない。それはこの場で議論を論じているということでもあります。それはそれで非常に良いことなんだと思います。人の数だけ違う意見が存在する。先生と私は同一人物ではありませんから」
「確かに僕とキミは同一人物ではない。では仮に僕とキミが同一人物だったとしよう。どうだ、全てが綺麗に丸く収まる。寸分の狂いもないほどに全てが丸く収まる。そこには寸分の狂いもない。狂いがないのだよ」
「議論が発生しないのですから丸く収まって当然ですよ。自我意識の同化、『あ』と思い浮かべれば『あ』と思い浮かべる。そこに議論というモノは発生しようがない。途端につまらない日常へと変わってしまいます。私と先生が今こうやって言い合っているいられるのも個人と個人という一つの個の存在のおかげです。それは当たり前のように見えて決して当たり前ではない。一種の巡り合わせで私と先生はこの場を共有しています。やはり当たり前なことなんかじゃないんです」
「僕はあの時キミを拾い上げておいて正解だったと今でも思っている。首輪を嵌めてやり鎖で繋いだ。僕の手駒としたわけだ。優秀な助手とは言い切れない部分も多かったが、助手であったことには変わりない。しかし今キミの喉元を覆う首輪は外れたのだ。東京駅までの短い道中だが、和田一と黒木黒子という二人の人間が今こうやって議論を交わしている。それはそれで幸せなことなのかもしれないな」
「先生。何だか私眠くなってきちゃった。東京駅に着いたら起こして下さい」
黒子はそう言うと静かに目を閉じた。
和田は車窓の眺めをいつまでも眺めている。
あと一時間ほどで目的地である東京駅に到着。そこからは二人それぞれの生き方が待っている。
和田は目を細めた。眠気は感じないらしい。
無事に新幹線は東京駅に到着し、ホームに降り立つ和田と黒子。
長いようで短かった某東北の地での奇怪な事件。事件は場所があって初めて発生するモノ。某東北の地はこの手の事件が多発することで有名。先日発生した温泉郷湯けむり殺人事件も某東北の地が舞台だった。
東京には東京の匂いというモノが存在する。独特な匂い。帰省客などは田舎から帰ってくるとこの匂いを強烈に感じることが多い。
それはこの二人も例外ではなく、日本の中枢都市である東京の独特な匂いに懐かしさを覚えていた。
「東京って独特な匂いしますよね。どう表現したらいいのか難しい匂い。先生も感じません?」
キャリーケースを引きながら黒子が和田に聞いた。
「それは田舎町から帰ってきた為に生じる匂いさ、本来ならば田舎町の匂いの方が正常な匂いなんだよ。排気ガスや飲食店街の折り混ざった匂い。それが東京の匂いというモノだ」
「都市形成された末の匂いということですか。この匂いはまだまだ強くなりそうですか?」
静かに頷く和田。
「ああ。この匂いは留まることを知らない。勝手に増殖して増えていく匂い成分。ただ一つ、東京の衰退だけがこの匂いを減退させる唯一の方法。この街は異形の街だ。異論は認めない」
東京駅地下を無数の人達が入り乱れて進む光景。その流れに負けじと二人は歩むことを止めない。
「東京と限界集落の田舎町。違いは何処にあると思いますか?」
「音と匂い。この街は忙しない。それが田舎町と東京都の決定的な違いだ」
「人そのものには違いはありませんか?」
黒子のその言葉を聞いて鼻で笑う和田。
「本質的なモノは一緒なんだろうな。純粋な東京出身者というものは数少ない、東京という大都市は田舎者の集まりで形成されている。東京の何がそれほどまでに人を惹きつけるのだろうか。いまだに謎な部分だ」
「流行の発信地が日本の首都だからじゃないですか? 日本で生み出されるカルチャーはそのほとんどが東京発信です。そこに身を置きたいとう考えが東京への人口一極集中に繋がっているのでは?」
「確かにカルチャーや流行という観点で見れば東京発信なのは分かる。だがそこに永住を決め込み身を置こうとするのかね。今の時代ネットというモノがある、いつどの場所に居ようともカルチャーや流行は掴めるはずなのだ」
「そう言ってる先生はどうして東京にこだわるんです? 地方都市でも探偵業は出来そうな気もしますが」
「馬鹿を言っちゃいけない。東京と地方では人の数が圧倒的に違うじゃないか。人が多ければそれだけ依頼をよこす人も増えるモノだ。あと東京は交通の便が良い。今回のように東日本在住の依頼者から仕事を頼まれることもあれば、西日本在住の依頼者からの仕事が来る場合だってある。つまりは日本国の中心に身を置きフットワークの軽さで全国津々浦々依頼を引き受けることが可能になるのだ」
往来する人々を避けながら二人は東京駅地下道を歩いていく。
「糞漏らしの探偵が全国津々浦々ですか。ちょっと面白いです。非常にユーモワに富んでいます」
黒子のその発言を聞き小さく舌打ちをする和田。
「生意気な糞ガキが。よくもまあそんなに減らず口が叩けるものだ。キミさては僕のことを密かに馬鹿にしているだろう」
「密かに馬鹿になんかしてません、おおっぴらに包み隠さず馬鹿にしてます」
苦い顔になる和田。歩くスピードが幾分速まる。
「キミほどの優秀な人材を手放すことは非常に惜しいよ。きっと今後の僕の業務にも支障をきたすことだろう」
「優秀だなんて何だか照れますね」
おどけた様子で小さく舌を出す黒子。
「ああ優秀だ。非常に優秀だ。優秀すぎて涙が出てくる始末。本当に僕は惜しいと思っているんだよ。これは本音というモノだ、決して嘘はついてはいない」
「先生は嘘がお上手ですね」
「空子。さっきも言っただろう、これは僕の本音だ。だから。できれば——」
「戻りはしないですよ。首輪は外されたのですから。戻る必要がありません」
歩みを止めた両者。和田は静かに俯いている。
「糞漏らし探偵。こんなカッコ悪い探偵きっと世界中で先生ただ一人ですよ。逆を言えばそれほどの偉業を成し遂げたということにもなる。糞漏らし探偵」
東京駅地下道。二人を避けるように人の波が出来上がっていく。迷惑そうな顔で見やる人々。
「黒子よ、再度忠告しておく。キミのその人を見下すような性格、矯正しないとあとで痛い目に遭うぞ。これは年長者からのちょっとした助言だ。もっと人を敬うことだ」
今度は黒子が鼻で笑った。
「ご忠告ありがとうございます。先生の言葉を糧にこれからも精進して参ります」
和田に対して深くお辞儀をする黒子。
「きっとこの先僕とキミは違う形で対峙することになる。キミは僕を殺す存在になり得るか? 異端であることをきっとキミは望む。そしてそちら側へと堕ちてゆく」
真正面を向きお互いに顔を見合わせる。瞳の奥に宿る異質な部分を互いに感じ取っている。
「先生、スマホを出して下さい。一緒にお互いの連絡先を消去しましょう」
和田はポケットからスマホを取り出す。黒子も同様に。
今目の前でお互いの連絡先は消去された。
「先生は山手線でしたよね。私は中央線。ここでお別れといたしましょう」
「ああ、さようなら」
「ええ、さよなら」
別々の乗り場へと向かった和田と黒子。
この大都会東京で連絡先も分からない相手と偶然に出会う確率。それは皆無に等しい。本名ではない偽名を使い探偵助手をしていた女の子。探偵と元助手はこの先出会うことはない。
それを物語るように人の波が次々と電車に飲み込まれていく。そして何処かへと人々を運んでいく。
東京都の総人口令和四年現時点で14029726人。
この膨大な数の中では出会うことの方が難しい。
それをきっと和田は悔やんでいる。
了
ブレインシェイク―微動する和田一という男 @ishizakinobuto
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます