天狗の松笠
沢田和早
天狗の松笠
どうして金沢なんかに来ちまったのかな。夏は暑いし冬はドカ雪。カバンには必ず傘が入っているので邪魔くさくて仕方がない。
「しかも鬼門ときたもんだ」
大学で紹介された下宿は卯辰山のふもとにある。家賃が安かったので即決したが妙に寺が多い。卯辰山は城の北東、鬼門に当たるので厄除けのために寺を集めたのだそうだ。
「つまりここは城に引き寄せられた邪気の通り道。そんな所に住んでいるんじゃツイてないのも当たり前か」
特に最近の不幸は熾烈極まりない。入学してから3年間、単位を落としまくったせいで留年の瀬戸際だ。
絶対に落とせない必修科目の試験のうち4つが保留になってしまった。救済措置としてひとつが追試、3つにレポート提出が課せられた。これを落とせば留年確定だ。
「か~、めんどくさい」
レポートはまるで進まない。満足に講義を受けていないのだから書けるはずもない。
ムシャクシャするので酒の量が増える。酒の臭いを漂わせてバイトに行っていたらクビになった。
大逆転を狙ってギャンブルに手を出せば負け続き。親からの仕送りは3カ月分先払いしてもらっている。金がない。気が滅入る。レポートはますます進まなくなる。追試の勉強などやろうという気さえ起こらない。このままでは留年まっしぐらだ。
「あ~クソ。酒でも飲まなきゃやってられん」
愛用の瓢箪徳利を持って下宿を出た。本物の瓢箪ではない。瓢箪の形をした水筒で材質はプラスチックだ。時代劇などでよく見かける腰にぶら下げた瓢箪、あれを真似したくて手に入れた。
瓢箪の安酒を飲みながら下宿周辺をぶらつく、名付けて酩酊散歩。これが今のオレの一番のストレス解消法だ。
「相変わらず立派な鳥居だな、おい」
下宿の真ん前に鎮座する宇多須神社の鳥居がオレを圧倒する。今夜は満月。夜歩きにはちょうどいい。体がブルッと震える。晩秋の風は冷たいな。上着の下にセーターでも着てくればよかったか。
「飲んでりゃそのうち温まるだろう」
宇多須神社の横の子来坂を上る。かなり急な坂だ。普段は浅野川沿いの道を歩くことが多いのだが今日は違う。耳寄りな話を聞いたからだ。
「卯辰山の中腹に宝泉寺という寺がある。そこから眺める落陽は金沢一だ。あの芥川龍之介も絶賛したらしい」
聞いたのは1週間前なのだが、いまだに金沢一の落陽を楽しめていない。一日中雨だったり、朝は晴れていても夕方は雨だったり、昼酒が過ぎて夜まで眠ってしまったりしていたためだ。見られない鬱憤が溜まりに溜まり、ついに今日、爆発してしまった。
「落陽が無理なら満月でも楽しんでみるか」
いわゆる代償行動というやつだ。キツイ坂道のせいかすぐ酔いが回ってきた。ふらつきながら長い階段を上り宝泉寺にたどり着く。
この寺の本尊は加賀藩祖前田利家の念持仏である摩利支天。利家は兜の中に摩利支天の像を収めて出陣していたらしい。邪気を払うには打って付けの神様かもしれないな。
「あっちか」
境内の南西が開けている。ご丁寧に柵まで設けられているのでそこが眺望ポイントなのだろう。柵に寄りかかって夜空を見上げた。頭上に満月が浮かんでいる。
「何だよ、いつも見ている月と全然変わらないぞ」
当たり前だ。どこで見ようと真昼の太陽は真昼の太陽でしかないのと同じことだ。月が街の風景に溶け込める月の出の少し後、もしくは月の入りの少し前なら少しは違っていただろうに。酔っぱらうとその程度の思考力も失われるようだ。
「しかし眺めは実にいい」
真夜中にもかかわらず市街地の明るさは衰えていない。木立の中、月明かりに照らされてぼんやり見えているのは金沢城の石川門だな。
100年前、招いてくれた室生犀星と一緒に龍之介が見た景色とはまったく違っているのだろうが、絶景と言いたくなる気持ちは理解できた。彼は何を思ってこの景色を眺めたのだろう。3年後、自ら命を絶つ予感はすでにあったのだろうか。
「わからないものだな。あれほど成功した世界からあっさり退場してしまうなんて」
龍之介に比べれば今のオレなど生きているのが申し分けなくなるほどのクズだ。もはや留年は間違いないだろう。なんとか卒業できても就職先はブラック企業。その後は過労死するまで働くかリタイアしてニート生活。いずれにしても待っているのはロクでもない未来だけだ。
「だったらいっそのこと、ここで終わらせてしまってもいいんじゃないのか。そうすれば全ての苦しみから解放される。こんな人生に未練などないだろう」
もちろんわかっている、自分にそんな度胸がないことは。腹を減らせた老人に己の体を食わせようと自ら火に飛び込んウサギほどの勇気もなく、ただ不満を言いながら無意味な日々を過ごすだけの男だってことは嫌になるほどわかっている。
「誰かがオレの命を奪ってくれれば楽でいいんだが……」
こんな時でも他力本願か。ヤレヤレ、憂さを晴らしに来たのに気分は滅入るばかりだ。
柵を離れて来た道を戻るとでかい松の木があった。そばの立て札にはこんなことが書かれていた。
五本松
五幹に分かれた老松。天にそびえ天狗が住むという。
泉鏡花の小説に「この神木に対して、少しでも侮辱を加えたものは立処にその罰を蒙る」とある。
現在の松は三代目である。
「ああ、そんな小説があったな」
思い出した。「五本松」という短編だ。夜中、唄を歌いながら天神山を歩く若者たち。その喧騒が五本松を住処とする魔神の怒りに触れ、下山後、恐ろしい幻覚と幻聴に襲われる、という話。怪奇と幻想が特徴の鏡花らしい作品だ。
「ばかばかしい。なにが天狗だ。小説なんてただの妄想、誰が信じるかよ」
酔いが回ってすっかり気が大きくなっていたオレは五本松の根元を蹴とばしてやった。ついでに幹に抱き着いて思い切り揺さぶる。
「どうだ、バチが当たるなら当ててみろってんだ。天罰なんか怖くないぞ。喜んで受けてやる……えっ」
いきなり周囲が暗闇に沈んだ。幹から離れて夜空を見上げると一面雲に覆われている。星も月も見えない。ウソだろ。ついさっきまで滅多にないほど晴れ渡っていたのに。
「ははは、どれほど時代が変わろうと人間の愚かさは変わらぬようだ。有難い忠告をを無視するのだからな」
暗闇の中に野太い声が響き渡った。誰が喋っているのかはもちろん、どこから聞こえてくるのかもわからない。闇自体が声を発している、そんな気さえする。
「だ、誰だ!」
「知れたこと。五本松に住まう天狗だ」
飲み過ぎた? いや、これまでどんなに酔ってもこんな幻聴に襲われたことは一度もない。本当に天狗なのか。
「その天狗がオレに何の用だ」
「己の言葉を忘れたのか。我の天罰を欲しているのだろう。自ら苦しみを求めるとは実に滑稽だ」
後悔が押し寄せてきた。酔っていたとはいえ取り返しのつかない失敗をやらかしてしまったようだ。
「くそっ!」
こうなれば逃げるしかない。オレは走り出そうとした。だがどうしたことか両足が動かない。まるで足を地面に縫い付けられたかのように微動だにしない。
「悪あがきとは見苦しい。素直に己の運命を受け入れよ」
「どんな天罰を与えるつもりなんだ」
「いや、天罰を与えるつもりはない」
「えっ?」
何を言っているのだ。五本松に狼藉を働いたオレを罰するために来たんじゃないのか。
「驚くことはない。天狗は天邪鬼な性質なのだ。おまえは天罰の苦しみを欲している。その願いをそのまま叶えてやっても面白くはないだろう。ゆえに天罰は与えぬ」
少しほっとした。この天狗、ちょっと変わっているようだ。
「なら、オレをどうする気だ」
「おまえは苦しみを欲している。ならば逆におまえの苦しみを取り除いてやろう。試験、レポート、金、おまえを悩ませている一切の苦しみから解放してやろう」
「どうやって?」
「言うまでもない。死だ。死ねば全ての悩みが消える。今ここでおまえの命を奪ってやろう」
卯辰山の山頂から蹴落とされたような気がした。底知れぬ絶望の深淵に落ちていくオレの心。これ以上の天罰がどこにあると言うのだ。
「待ってくれ。それだけは勘弁してくれ」
「なぜ拒む。先ほど言っていたではないか。誰かに己の命を奪ってほしいと。それが叶うのだぞ。もっと喜べ」
「イヤだ。頼む。やめてくれ」
「やめてくれと言われてはやめるわけにはいかぬ。天狗は天邪鬼だからな。さあ、覚悟せよ」
「お願いだっ! 命だけは、うぐっ!」
胸に大きな衝撃を感じた。立ち込めていた暗闇が薄れていく。と同時に境内には明るさが戻ってきた。月明かりに照らされたオレの左胸には図太い松の枝が突き刺さっている。
「ぐはっ!」
口から血が噴き出した。上着にも赤い染みが広がり始めている。猛烈な痛み。しかしうめき声を上げることすらできない。膝から崩れ落ちたオレの体は地に倒れ伏した。息ができない。意識が薄れていく。
「これでおまえは死んだ。昨日までのおまえは死んだのだ。もし……」
徐々に遠ざかっていく天狗の声はやがて聞こえなくなった。
「はっくしょん」
自分のくしゃみで目が覚めた。すでに夜は明けている。オレは境内の縁側の下から這い出した。無意識のうちにそこに入り込んでそのまま眠ってしまったようだ。
「夢だったのか」
左胸には鈍い痛みが残っている。酔っぱらってどこかにぶつけたのだろうか。触ってみると胸ポケットが膨らんでいる。
「これは……」
入っていたのは松笠だった。未熟で青く、自然に落ちてくるはずのない松笠がオレの左胸に鎮座していた。
見上げた五本松からはもう何の声も聞こえず、ただ静かに風に揺れているだけだった。
数日たっても平常心は戻って来なかった。五本松からは金沢の市街地が一望できる。つまりどこへ行ってもあの天狗の目から逃れることはできないわけだ。何か悪さをすればたちどころに天罰が下る、そんな妄想に囚われ続けていた。天狗にとってはオレこそが邪気。この地から取り除くべき存在なのだから。
オレは酒をやめた。瓢箪徳利を捨てた。ギャンブルもやめた。ようやく見つけた新しいバイト先では真面目に働いた。試験勉強に真剣に取り組み、同期の友人に声を掛けて講義ノートを貸してもらいレポート作成に励んだ。講義をサボリ、交友関係を遮断し、バイトに遅刻ばかりしていた今までのオレからは考えられない日々を続けた。
おかげで必修科目の単位は無事取得できた。留年の危機はひとまず去った。金の心配もなくなった。そうなってようやく以前の平常心が戻ってきた。自分の中に巣食っていた邪気が消えた、そんな気がした。
「まるで生まれ変わったみたいだな」
確かにオレは死んだ。あの日、天狗に殺されたのだ。そして新しい自分になった、そうとしか考えられない。
「五本松の天狗、本当に存在するのか?」
気になったオレは図書館で調べてみた。すると明治時代に書かれた金沢古蹟志という書物の中に次のような記述を見つけた。
五本松怪異伝話
世人の伝説に、摩利支天堂の五本松は、昔より天狗の住所にて、折々怪異あり。故に夜中などは、此の堂前へ参拝人
夜中に寺へ押し掛ける若者たち、見せられた幻影、化かされただけでほとんど実害のない結末。鏡花の短編「五本松」とよく似ている。きっと鏡花もこの怪異譚を知っていて、それをベースにして書いたのだろう。今風に言えば二次創作のようなものだろうか。若者の数を七人から五人にしたのは五本松の五に合わせたのかもしれない。几帳面な鏡花らしい変更だ。
「もしかして鏡花自身もオレと同じように天狗にからかわれたのかも」
それは根拠のない憶測に過ぎなかった。だが彼の小説には卯辰山界隈を舞台にしたものが多い。この地に対して特別の思いを抱いていたのは間違いない。その愛着の理由が天狗による怪異の実体験だっとしても何の不思議もない。
あるいは鏡花ほどの鋭い感受性の持ち主ならば、オレのように悪さをしなくても五本松の根元に立っただけで天狗の存在を感じ取っていたのかもしれないな。
「今のオレにとってはこれが一番の宝物だ」
あの時左胸のポケットに入っていた松笠は今も大事に取ってある。この松笠を見ていると最後に聞こえてきた天狗の声が脳裏に響くのだ。
「これでおまえは死んだ。昨日までのおまえは死んだのだ。もしもう一度死にたくなったら五本松に来い。何度でも殺してやる」
そうだな。これからの人生、壁にぶち当たることは何度もあるだろう。その時、ひょっとして弱気で怠惰な以前のオレが頭をもたげてくることがあるかもしれない。そうなったら再び坂を上り、摩利支天の御堂の前でおまえに殺してもらうとしよう。頼んだぞ、五本松の天狗よ。
天狗の松笠 沢田和早 @123456789
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