ふたりの宇宙とまんまるウサギ
伊藤充季
ふたりの宇宙とまんまるウサギ
「あれが地球かな?」
わたしが指さしている星を一瞥して、カレンは笑いながら言った。
「違うと思う」
「じゃあ、あれ?」
別の星を指さして、またそう言ってみた。
「いや、違うわね」
「うーん……どれが地球なんだろ?」
「図書館にでも行って、調べればいいじゃない」
「冷たいよ、カレン!」
「はいはい」
いつものように、カレンはわたしの言葉を受け流し、うまい具合に返事をする。わたしは、カレンのこんな態度が、嫌いではなかった。
カレンは、地面に寝そべって本を読んでいたが、本を読む手を止め、わたしのほうを見ながら言った。
「でも、とりあえず帰らなきゃ、図書館にも行けなさそうね」
「うん。ここに図書館があるようには思えないし」
「まあ、今はじっと待つのが吉ね」
「……そうだね」
わたしがそう言うと、カレンはまた本を読み始めた。
――そう、今は西暦2120年。火星人のわたしたちは、宇宙で漂流中の身なのだった。
* * *
どうしてこんなことになったのか?
それは、一週間ほど前の、とある出来事が原因だった。
一週間前、わたしとカレンは宇宙船に乗って火星から離陸しようとしていた。
中学校の修学旅行で、太陽系一周旅行をするためである。
火星の子どもたちは、ほとんどがこの時に初めて宇宙に出る。そして、わたしたちもその例に漏れず、宇宙に出るのはこの時が初めてだった。
いつもは落ち着いた様子のカレンが、ものすごく興奮していた。
前日の夜から、「眠れない」と言ってはわたしを何度も電話で叩き起こしたし、宇宙船に乗って座席に座ってからも、体中をがたがたと震わせながら、「待ちきれないわ」などと言っていたのである。
しかし、わたしはこの旅行をそれほど楽しみにしていなかった。それは、故郷である火星を離れるという寂しさのためでもあったが、もう一つ理由があった。それは、カレンが宇宙へと出て行ってしまったら、もう二度と戻ってこないような気がするからだった。
カレンとわたしは、幼いころからの幼なじみであり、気づいたときにはもう、わたしはカレンのことが好きだったのだ。しかし、カレンがわたしと一緒にいるのは、「好きだから」というよりも、「昔から一緒にいるから」という理由からではないかと私は思っており、このことについて考えるとき、わたしはいつも不安とも何とも形容しがたい、奇妙な感情に襲われるのだった。
そういうわけで、隣の席でがたがたと震えるカレンを見ながら、わたしは内心穏やかではなかった。
そうこうしているうちに、いよいよ宇宙船は、宇宙に向かって飛びあがり始めた。
宇宙旅行ガイドの声がスピーカーからしていて、宇宙船や火星について、いろいろなことを話していたが、なにも耳に入ってこなかった。隣でカレンが「興味深いわね!」などと、はしゃいだ口調で言っているのが、かろうじて耳に入ったくらいだった。
そして、宇宙船は大気を突き抜け、いよいよ宇宙に出た。それまで閉じられていた窓が一斉に開かれ、宇宙の景色が目の前に広がると、乗客はみな一斉に歓声を上げた。
わたしも、すこし窓の外を見てみた。確かにきれいな景色だった。見たこともないほど、たくさんの星が光っていた。だが、その時のわたしにとっては、そんなことよりも、カレンのことが重要だった。
カレンは、興奮した調子で私に話しかけてきた。
「ねえ、知ってる? 昔の宇宙船では、人工重力を発生させる技術がなかったから、乗員はみんな無重力状態でぷかぷか浮いてたんだって!」
「その話するの、何回目かわからないよ、カレン」
「ねえ、聴いてよ! さっきのガイドさんの話、聴いてた?」
「いや……」
「地球の科学者が、火星をテラフォーミングした時の話よ! 本でも読んだことなかったわ!」
「てら……?」
カレンが何を言っているのか、わたしにはわからなかった。
「二十世紀の終わりごろに、ウィリアムっていう名前の学者がね――」
「カレン」
わたしは、カレンの話を遮った。
「……どうしたの?」
「ちょっとお手洗い行ってくるね」
「もうっ! 早く戻ってきなさいよ」
わたしは、お手洗いに行って、心を落ち着かせようと思った。とにかく、カレンのいないところに行こうと思ったのだった。
お手洗いの場所は事前に調べていたので、すいすいと歩いていくことができた。
わたしたちが座っていたのは宇宙船の前部で、お手洗いがあるのは後部だったから、つまりお手洗いに行くには、宇宙船の真ん中あたりを通らなくてはいけなかった。そして、真ん中あたりには、この宇宙船の出入り口があった。
当たり前だが、出入り口は固く閉ざされ、航行中は開け閉めができないようになっている。宇宙空間でドアを開けたらどんなことになるか、というのは、カレンから散々聞かされて知っていた。
出入り口の前を通るとき、わたしはその話を思い出し、なんとなくドアのほうを見てみた。すると、ドアの向こう側で何か奇妙な気配を感じたので、不思議に思って近寄ってみた。
そのドアは、二重構造になっていた。「エアロック」というやつである。つまり、小部屋を挟む形でドアが二枚あり、二枚のドアは同時に明かないようになっている。それは、真ん中の空間で気圧を調整するためだ――と以前カレンが言っていたのを思い出した。
わたしは、二枚のドアの真ん中にある小部屋のなかに、誰かがいるのだろうかと思って、ドアの覗き窓から、部屋のなかを覗いてみた。すると、そこにはやはり人間がいた。同じ学級の、パティという名前の女の子だった。彼女は、床にへたりこんで泣いていた。
そのとき、後ろから声がした。
「何してるの! 遅いじゃない!」
カレンだった。
「カレン、ほら、このなか見て!」
「どうしたの……?」
そう言いながら、カレンものぞき窓から室内を見た。
「……パティじゃない! どうしてこんなところに?」
「そんなの、わかんないよ。でも、助けなきゃ」
「……そうね、立ち止まってても、どうしようもないわね」
「うん、助けよう」
ドアの横には、非常用の宇宙服が置いてあったので、まずはそれを着た。それは、本で見たことのある、二十世紀の宇宙飛行士が着ているようなごてごてしたものではなかったが、普段着ている服よりはちょっと分厚かった。宇宙服のヘルメットの内側には、小型のスピーカーと通信装置がついており、宇宙空間でも装着者同士で会話ができる仕組みになっていた。
「よし、開けるわよ」
そう言って、カレンはドアの横のパネルを少しいじった。
「ずいぶん簡単にできるんだね」
「カンよ。今はそれしかないわ」
すると、しばらくしてドアが開いた。
床で泣いていたパティは、わたしたちを見ると一瞬泣き止んだが、すぐに青ざめた顔になって、「ごめんなさい」と呟き始めた。
「どうしたの、パティ?」
「ご、ごめんなさい」
「ごめんなさい、ばっかりじゃわからないわよ。ほら、先生も来てないし、落ち着いて!」
「……ほんとに?」
「ほんとよ」
大人が来ていないということを確認すると、パティは泣き止み、ずいぶんおとなしくなった。
「それで、パティはどうしてこんなところにいたの?」
「うん、わたし、じつは――ここで遊んでて、出られなくなっちゃったの」
「遊んでた?」
「うん。前からエアロックに興味があって、それで実際に見てみたら、どうしても近くからじっくり観察してみたくなったから……」
「なるほど。わかるわ、その気持ち」
「うん……でも、出られなくなって本当に怖かった。もし、外側のドアが故障して突然開いたら、宇宙空間に飛び出してしまうって思ったら、もっと怖かったわ」
「まあ、大人に見つかる前でよかったわね。見つかってたら、大目玉よ」
「うん、ほんとにありがとう! 二人とも」
パティはそう言うと、「先に戻ってるね」と言って、ドアをくぐって客席のほうへと戻っていった。
「さて、わたしも戻ろうかしら」
カレンが言った。
そこで、わたしはひとつひらめいたことがあった。
ここで、内側のドアを閉じたら、ここは密室になる。そうすれば、誰かが見つけてくれるまで、カレンと二人でいられるのではないか?
そう考えたわたしは、思い立ったが吉日とばかりに、部屋から出て行こうとするカレンを遮って、ドアをばたんと閉めた。そしてそこは、完全な密室になった。
「な、何してんのよ、あんた!」
「だって、もうちょっとだけ、一緒にいたくて……」
「一緒に……って、席も隣同士だし、ここにいる必要はないじゃない」
「それはそう、だけど」
「もうっ! このドア、内側からどうやって開けるのかしら!」
カレンは、部屋のなかをうろうろとしながら、なにやら探していたが、しばらくすると観念して床に座った。
「……まあ、こんなこともあるわね。助けが来るのを待ちましょう」
困っている様子のカレンを見ながら、わたしは内心うれしくてたまらなかった。
やった! これで少なくとも、助けが来るまでは、二人きりでいられる。
そう思ったのだ。
「それにしても、機械が苦手なパティでもこの部屋に入れたっていうことは、ドアを開けるのはけっこう簡単なのかな?」
会話をするために、適当な話題を出した。
「そうね、それほど難しくはなかったわ」
「パティも言ってたけど、ここにいるとなんだか怖いね」
「そうね。突然外側のドアが開いたらと思うと、ちょっと怖いわね」
「でも、そんな故障がめったに起こるわけないし、それにわたしたち、宇宙服を着てるから大丈夫だよ!」
「まあ、そうね……そんな故障はめったに――」
ガチャン。
突然、そんな音が鳴った。
「今の音、なに?」
「わ、わからないわ」
「うん、まさかね……」
「そんなわけ、ないわよね」
わたしたちが向き合って、胸をなでおろしたその時だった。
バーン!
そんな、破裂するような音とともに、外側のドアが勢いよく開いたのである。
わたしは、カレンの手を強く握った。
「大丈夫よ!」
最後に、そんなカレンの声を聴いた気がする。
それから先のことは、あまり覚えていない。
* * *
そして目を覚ますと、わたしたち二人は、見知らぬ惑星のうえにいたのだった。
二人は手をつないだまま宇宙空間へと投げ出され、そしてどこをどう通ったのかはわからないが、二人とも同じ惑星へと漂着したらしかった。
「ほとんど奇跡のようなものね」
そのことについて、カレンはそう言った。
「どちらかが――いや、両方とも死ぬ確率も高かったわ。でも、二人とも無事に生き延びて、見知らぬ惑星で目を覚ました。しかも、まったく同じ場所に落ちてきたのよ。奇跡としか言えないわ」
遭難してから数日、カレンはたいへんなはしゃぎようだった。
「まさか、修学旅行がとんだ冒険になるなんてね! ……それにしても、ここはどこなのかしら? もしかしたら、小惑星帯?」
ここがどこなのか、わたしにはわからなかったが、少なくともほかに人がいるようには思えなかった。
本当の意味で、カレンと二人きりになれた。
まったく予測していなかったことながら、それはわたしの望んでいた状況に違いなかった。しかし、なぜか、心の底から「うれしい」という感情がわいてこなかった。はしゃいでいるカレンを見ていると、強い疎外感を覚えて、どうしようもなくなってしまうのだった。
* * *
それからさらに数日が経ったころ、カレンはこう結論付けた。
「おそらく、小惑星帯で間違いないと思うわ。ひとくちに小惑星と言っても色々なものがあるけど、そのなかでもひと際大きいものに着陸したようね。小惑星にしては、重力が大きいわ……」
「すごい。どうしてわかったの、カレン?」
そう言うと、カレンはいそいそと懐から本を取り出して言った。
「じつは、たまたまポケットに入れた本に、小惑星帯のことが詳しく書かれていたの」
「それでもすごいよ。それで、小惑星帯っていうのはわかったけど、結局ここはどのあたりなの?」
「小惑星帯は、火星と木星の間にあるの。わたしたちの宇宙船は、まず太陽系の外側に向かうということだったから、納得したわ」
「そんな、簡単なものなのかなあ……」
「わからないけど、この本に書かれていること以上の情報が、今はないから、しょうがないわ」
わたしは、カレンのことを尊敬していた。カレンは、本当に宇宙のことが好きで、いつでも宇宙に関する本を読んでいる。そんなカレンを、素直にすごいと思っていたし、尊敬もしていた。
だが、将来的にカレンが学者か何かになって、火星から出ていくところを想像したら、居ても立ってもいられなくなるのだった。
――カレンが宇宙のせいで出ていくのだったら、宇宙を消してやりたい。
わたしはいつも、そんなことばかり考えていた。
* * *
さらに数日が過ぎて、遭難から一週間が経つと、わたしたちは一日中座るか寝るかして過ごすことになった。
ここにいるのに飽き飽きしてきたのではなく、宇宙服に備え付けられていた、非常用の食料と水、そして酸素が少なくなってきたので、救助が来るまで、極力動かないようにしようとカレンが提案したのだった。
寝転んで空を見上げると、一面に星空が見えた。
「カレン、あれは何?」
わたしは、空に見える星を指さしながら言った。
「さあ」
カレンが本を読みながら、生返事する。
「冷たいよ、カレン!」
「はいはい」
こんな時間がずっと続けばいいと思った。
わたしもカレンも、どこにも行くことができず、この小惑星でずっと、二人きり。
でも、そういうわけにはいかないのだろうな、とも思った。
――カレンは必ず、宇宙に出ていくだろう。
火星から出て行ってほしくないと願いながらも、わたしはそのことについては確信を持っていた。なぜそう思うのか、と問われてもわからないが、わたしの頭のなかで、カレンがいつか宇宙に出ていく、ということはほとんど確定事項だった。
だから、いつまでもこんなところにいるわけがない。カレンは絶対に助かって、火星へと帰る。たとえ、わたしが帰れなかったとしても。
――そして、カレンは必ず、宇宙に出ていく。わたしを置いて。
「ねえ、カレン」
「なに?」
相変わらず、本を読みながらの生返事だった。
「カレンは、いつか火星から出ていくの?」
そのことを、カレンに直接訊いたのは初めてだった。
カレンは、本を閉じて、寝転んだ姿勢のまま、わたしのほうを向いた。
「そりゃ、出ていくでしょうね」
あっけない返答だった。
「そっか、出ていくか……そりゃ、そうだよね」
「何言ってるの? あなたも出ていくのよ?」
「えっ?」
「出ていくときは、一緒に決まっているじゃない」
カレンはそう言い終わると、また本を読み始めた。
一緒に?
一緒に、火星を出ていく?
カレンはいつから、そんなことを考えていたのだろうか、と思った。
寝転んだまま、カレンの顔をちらっと見てから、眼を閉じた。
――「あなたも出ていくのよ」なんて調子のいいことを言って。カレンは、わたしのことなんて、ちっとも大切に思っていないくせに。だいたい、わたしのことも、一度も名前で呼んでくれたことがない。宇宙のことは、難しい言葉でも何でも、すぐに覚えるくせに……わたしの名前すら知らないくせに――
わたしは、カレンのことをこんなに、大事に想っているのに……
そう考えていると、両目から自然と涙が出てくるのを感じた。
そして、気づかないうちにわたしは眠りについていた。
* * *
「起きて! 起きてってば!」
そんな大声と、身体を揺さぶられる感覚で目が覚めた。
起き抜けの眼を開くと、ぼんやりとしたカレンの姿が見えて、自分が見下ろされていることに気がついた。
体がだるかったが、なんとか立ち上がってから言った。
「どうしたの?」
「あっちを見て」
そう言って、カレンが指さした先には、小さい岩があった、
「あの岩がどうかしたの?」
「シッ! 声をたてちゃだめよ。足音も呼吸音も、なるべくたてないでね」
異様な雰囲気を感じて、わたしは小声で言った。
「どうしたの? もしかしてなにか、いたの?」
カレンはわたしのほうを振り返って、「そう。いたの」と言った。小型ヘルメットの奥に見える顔が、にやりと笑っていた。
「もう、持ってきた本も何度も読んじゃったから、飽きちゃってね。辺りをじっと観察してたんだけど、そしたら、いたの。白い塊みたいなのが、すごい速さで駆け抜けて行ってね。わが目を疑ったわ。そして、その白い塊はあの岩の影のほうに入っていったの。だから、そこに隠れているかもしれないわ」
「白い塊……なんだろう?」
「さあ、まだわからないけど……あれが本当に生き物だったら、すごいことよ」
「すごいこと? どうして?」
「どうして、って……こんな小惑星に、酸素があると思う?」
「あ……」
「今までにも、酸素がない場所で生存することが可能な生物はいくらか見つかったことがあるわ。でも、それも微生物とか、小さい生き物が主なの」
「ということは、カレンが見たのが本当に『生き物』だとすれば……」
「快挙よ。そんな生き物を見つけた人は、これまでに例が無いでしょうね」
そんなことを言われたら、わたしも緊張してしまう。
生唾をのみこむことすらためらって、岩をじっと眺めていた。
そして、体感で一時間ほどが経ったころ、岩陰から「なにか」が飛び出してきた。
――ものすごい速さで走る白い塊。
カレンの言ったとおりだった。
その白い塊は、ものすごい速さでさらに別の岩陰に隠れてしまい、また出てこなくなった。
興奮した調子でカレンが言った。
「見た? 見た?」
わたしも興奮していた。
「見た!」
「なんだと思う?」
「わからないわ……こんなところで生き物が見つかるなんて、聴いたことない!」
「でも、たしかにいるね」
「いるわね」
「……捕まえてみる?」
「……よく言ったわ!」
わたしとカレンは向かい合って、すこし笑いあうと、すぐに作戦を立て始めた。
「いい? あの岩が、生き物が隠れている岩よ」
カレンが指さしながら言う。
「そして、あの岩の左右にも、ちょうどいいサイズの岩があるわね。見える?」
「見えるよ」
「わたしたちが二人、あの岩に隠れて、左右から挟み撃ち! どう?」
「うまくいくかな?」
「わからないわね。でも、それくらいしか思いつかないわ」
わたしは、辺りをぐるりと見廻してみた。カレンの提案した作戦がうまくいくかはわからないが、たしかにそのくらいしかできることはなさそうだった。
「よし、やろう。カレン!」
「そう来なくっちゃ!」
そう言いあって、二人は別れて、それぞれの岩へと向かった。
それは、この小惑星に降り立ってから、はじめてカレンと別れる瞬間でもあったので、すこし心細くなったが、それよりも今は「生き物」に対する興味が、心細さに打ち勝っていた。
所定の岩にたどりつくと、反対側にある、カレンが隠れているのであろう岩のほうを見た。すると、その岩から人の手がぬっと出てきて、握りこぶしを作ってから、親指を立てた。
――サムズアップ。それは、カレンの手ぐせのようなものだった。だからこそ、それは始まりの合図に違いないと思った。
いまだ!
わたしとカレンは、一斉に飛び出した。
火星よりもはるかに小さい小惑星の重力に戸惑いながらも、全速で「生き物」が隠れているとおぼしき岩のほうへと向かった。
すると、そこにはやはりいた。
白くて、真ん丸な生き物だった。
生き物は、すぐにこちらに気づいて、反対側へと逃げ去ろうとしたが、そちらのほうからはカレンが走ってきている。それに気づいた生き物は、錯乱したのか、さらにべつの方向へと逃げることをせず、わたしの腕のなかへとすごい勢いで突っ込んできた。
「うぐっ」
予期していなかった衝撃を受けて、おかしな声を出しながらも、わたしは生き物をしっかりと両手でつかんだ。
おそるおそる腕の中を覗き込むと、わたしの腕はしっかりと「生き物」をつかんでいた。
「捕まえた! 捕まえたよ、カレン!」
向こうのほうから、カレンがすごい勢いで近づいてくるのが見えた。
「すごい! やったじゃない!」
カレンは、わたしの肩を抱きながら、そう言った。
「やったよ、カレン」
「すごいわ……大丈夫? 怪我はない?」
「うん、ありがとう」
カレンは、にっこりと微笑んでいた。
その顔を見ながらわたしは、うれしさとともに、一抹のさびしさを感じずにはいられなかった。
* * *
それから、二人で「生き物」を観察した。
よく見ると、その生き物は、ただの白い塊ではなかった。全身がふわふわした毛皮に覆われているので、そのように見えただけで、実際には手足も、尻尾も、耳も眼もあったし、そのうえとてもかわいらしかった。
「ウサギに似てるわ」
カレンが言った。
「ウサギ?」
「そう。まだ火星には持ち込まれていないけど、地球にそんな動物がいるのよ。小さくて、大きな耳があって、とてもかわいいの」
「じゃあ、この子も『ウサギ』なのかな」
「たぶん違うと思うけど……」
わたしは、腕のなかでじっとしている生き物の顔をじっと見つめた。
小さい瞳、大きい耳、ふわふわの体。
「この子の名前、見つけた人が決めていいんだよね?」
「うん、よく知らないけど、たぶん決められるわ」
「じゃあ、『カレンウサギ』っていう名前にしようよ。カレンが見つけたんだしさ」
「たしかに、はじめに見つけたのはわたしだけど、捕まえたのはあんたじゃない」
「それはそうだけど……」
「だからね、この生き物の名前は、『マリカウサギ』のほうがいいわ」
そう言いながら、カレンは生き物の頭をそっと撫でた。
「あんたによく似てて、かわいいしね」
――マリカウサギ?
――マリカ、それはわたしの名前だ。
「カ、カレン、わたしの名前……」
「なに? やっぱり嫌だったとか……?」
「い、いや、そうじゃなくて。わたし、てっきり、カレンは宇宙の事ばっかりで、わたしの名前すら知らないんだと思ってたから」
「えっ? そんなわけないじゃない。マリカ。初めて会った4歳と半年のころから、この名前を忘れたことは一度もないわ」
「そんな――じゃあどうして、今までただの一度も、わたしのことを名前で呼んでくれなかったの?」
「え……それは、えーと、あの」
カレンは、恥ずかしそうに顔を伏せてから、ためらうように言った。
「名前で呼ぶのは、恥ずかしかったから」
両眼から涙が出てくるのがわかった。
「って、どうして泣いてるの?」
「名前で、名前で呼んでよ」
わたしは泣きながら言った。
「えっ? だから、ちょっと恥ずかしくて」
「さっきは言ってくれたじゃん。マリカって」
「それは、ウサギの名前で、あんたの名前じゃ、ないから……」
「これからずっと一緒に暮らすのに、名前くらい呼んでよ!」
わたしの口から、勢いよくそんな言葉が飛び出した。
カレンは、わたしのほうに向きなおって、「わ、わかった」と言った。
「マ、マ……マリカッ!」
「カレン!」
わたしたちは、マリカウサギを挟んで、二人して泣き続けた。
小惑星のうえで、火星からやってきた女の子が二人、泣いている光景を、マリカウサギはきっと、わけもわからずに見ているしかなかったことだろう。
* * *
「キャッチしたわ」
カレンが言った。
「宇宙船が来るの?」
「おそらくね」
カレンのヘルメットについていた通信装置に、近辺を航行していた宇宙船の信号が入ってきたので、そちらに向かって信号を送り返してみたのだという。
「そのヘルメット、遠くの人と会話できたりはしないの?」
「そこまでの機能はないみたいね。最先端と言っても、こんなものよ」
「それにしても、とうとう帰るんだね。わたしたち」
「もうっ。こんなことになるとは思わなかったわ。普通に、太陽系旅行をできるかと思っていたのに!」
「ごめんね、カレン」
「突然どうしたの?」
「わたし、カレンがわたしに全く興味ないのかと思ってて、だからカレンのこと、わたしと一緒にいさせるために、エアロックのドアを閉じたり――いろいろ、ごめん」
「そんなことはいいのよ――マリカ」
わたしの腕のなかでは、マリカウサギがもぞもぞと動いていた。
「この子、どうする?」
「どうなるのかしら。今から来る宇宙船の人に聞かなきゃわからないけど……そもそも、何の船なのかもわからないし。わたしは、連れて帰りたいけど」
マリカウサギの顔をじっと見た。きょとんとした顔をしている。
「この子にも、この小惑星での生活があるんだよね」
「そりゃそうね。わたしたちが火星で暮らしているのと同じことよ」
「うん。そういうことなら――えいっ!」
わたしは、マリカウサギを腕から離し、逃がした。
すごい速さで遠ざかってゆくマリカウサギのほうを見ながら、カレンは「行っちゃったわね」と言った。
わたしはてっきり、カレンは怒るのではないかと思っていたので、意外な気持がした。
「逃がしたわたしがこんなこと訊くのは、おかしいかもしれないけど、よかったの?」
「よかったのよ、これで。人間に見つかったら、ろくなことにならないし」
「うん」
「それに、『マリカウサギ』は、わたしたちだけの、その、秘密だから……」
「うん!」
わたしがそう言ったとき、恥ずかしそうにしていたカレンが、急に真面目な顔になった。
「どうしたの?」
「信号が帰ってきたわ。モールスね――なになに? えっ! 向こうは火星から打ち上げられている小惑星探査船らしいわよ!」
カレンは、はしゃぎながらそう言った。
「よし。じゃあこちらも返すわ。『エス・オー・エス』……これでよし」
「すごいね、カレンは何でも知ってて」
「何よ、急に?」
カレンは不思議そうな顔をしていた。
「わたし、カレンのことが好きだよ」
「な、なっ!」
ヘルメット越しでもわかるくらい、カレンの顔は真っ赤になっていた。
「カレンは? わたしのこと好き?」
「い、いや、その……言わなくちゃだめ?」
「言ってほしい」
「うー、えーと、その――わたし、マリカのこと――」
ブツッ
そんな音とともに、急にカレンの声が聴こえなくなった。ヘルメットの奥のカレンの口が、パクパクと動いているのが見えた。
わたしがぽかんとしているのに気付いて、カレンはヘルメットの耳のあたりをトントンとさわるジェスチャーをやった。
なるほど、スピーカーの故障か、と気づいたわたしは、「ごめん。わたしのスピーカー、壊れちゃったみたい」と言った。わたしのほうは壊れていても、向こうのは壊れていないだろうから、聴こえるはずだ。
やはり聴こえたようで、カレンの表情がころころと変わり、口がパクパク動いているのがよく見えた。「なによ、もう!」とか、「あんなこと言ったのに!」とか言っているのだろうか。
わたしは、口がほころぶのを感じた。
カレンのことが、やっぱりかわいいと思った。
「カレン、好き」
そうわたしが言うと、カレンの顔が真っ赤になって、また口をパクパク動かす。それでも、声はわたしのところに届かない。
まあ、カレンの言葉は、宇宙船に助けてもらってから、じっくりと聴くことにしよう。これからいくらでも、時間はある――わたしがそう思った時だった。
カレンが、ヘルメットを、わたしのヘルメットに、優しくぶつけてきたのだ。
信じられないくらい近い距離に、カレンの顔があった。
わたしたちは長い間見つめ合い、お互いに黙っていた。そして、緊張した面持ちのカレンが、とてもゆっくりと口を動かした。それは確かに、このようなことを言っていた。
「す、き」
音が無くても伝わった。
顔が火照るのがわかった。
カレンが、にっこりと笑う。
やっぱり、と思った。
やっぱり、わたしはカレンのことが好きだ。
これからも、カレンとたくさん話をしよう。そして、二人でどこまでも行こう。どこまででも出て行こう。
空に浮かぶ無数の星を眺めながら、わたしはそう思った。
ふたりの宇宙とまんまるウサギ 伊藤充季 @itoh_mitsuki
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