4.記憶の中の恋人




翌朝、目が覚め体を起こそうと動かした時、体に痛みが無いのを不思議に思って、ランに傷つけられたはずの腕を見た。

包帯やガーゼが巻かれていたはずなのに、腕や足にもそれがなく。すっかり傷が塞がって、ほとんど消えてなくなっていた。


そういえば、傷を塞げるリン···。

ランに初めて首筋を噛まれた時、血が止まらなくなったのをリンが舐めて塞いだ事を思い出す。



じゃあ太ももにあった傷も?

寝ているうちにリンに······舐められたってこと?キスよりもその事がとても恥ずかしく感じる。



「······起きたのか?」



どうやら起きたらしい眠りが浅いリンは、体を起こしている私を再び抱き寄せた。リンの体は温かい。



「リ、リン、傷…」


「うん?」



まだ口調が遅いリン。



「な、治ってる…」


「ああ、治したから」



治したって……。



「足も…?」


「何赤くなってんだよ」



だって、太ももはスカートをめくらなくちゃ、それに怪我は内側だった……。

そこを舐めたって事でしょ?




「一緒に風呂も入ったことあるのに」



優しく笑いながら言ってくるリンに戸惑う。

お、お風呂って……。

そんなの知らないし、覚えてない……。



「ナナが小さい時だけどな」



私が小さい時?



「私とリンって、私が造られた時から一緒にいるの?」



ふと思ったことを口にした。

小さい時から一緒いたってことでしょう?



「いや?お前が俺ん所きたのは、俺が10歳の時」


「10歳?」


「10歳になればシャーロット家に一人一人、エサ用の専属っつーのが付くんだよ。それが俺の場合ナナだった」



私?

じゃあ私はリンが10歳の時に初めて出会ったの?

一人一人の専属のエサ……。

そういえばランが「8人目」と言っていたような…。




「だからナナは、多分5.6歳の時だったんじゃねぇ?」


5.6歳。

今が18歳ぐらいだから…、2年間リンと一緒にいなかったのを差し引けば、10年間ぐらいリンのそばにいたってこと?


ほぼ5歳差のリンと私。

あたし、その頃リンと一緒にお風呂に入ったの?



「私、覚えてない…」


「俺が全部覚えてるから思い出さなくていい」



優しい口調で話すリン。

覚えてるからって、だけど一緒にお風呂なんて恥ずかしすぎる。



「その時の記憶も、リンが?」



消してしまった?

吸血鬼は記憶を消すことが出来るから。

リンと過ごした10年間の思い出も。



「いや、それは俺じゃない」



俺じゃない?

え?記憶を消したって言ってたのに···



「俺はアイツと暮らしてた2年間のことしか消してない」



私が好きだったかもしれない男の人···。



「じゃあどうして私、2年間以前のことも忘れてるの?」



リンの方を見ると、リンは少しだけ機嫌の悪そうな顔をしていた。え?なに、私、なにか変なことを?



「お前を探して見つけた時にはもう、お前は俺の事を忘れてた」


「忘れてた?」


「その男が消したんだよ、俺みたいに」


「え?」


「そいつも吸血鬼だったからな」


「……」



リンと過ごした10年間の思い出をその人が?

なんで?どうして……。


その人に記憶を消されたのに、私はその人が好きだったの?


あ、でも、記憶を消されたから、リンの事は思い出せなくて……。私はその人を好きになった?



記憶を失う前の私は─────……



「もう記憶は戻らないの?」


「いや、消したやつ自身が戻そうとすれば戻る」



リンとの思い出を取り戻すためには、その人に記憶を戻してもらわないと…。



「他にも方法はあるけど…」


「あるの?」


「それはリスクが高すぎる」


「リスク?」


「つーか、俺はお前がいればそれでいいから」


「……」


「思い出なんてこれから作っていけばいいだろ」


「リン…」



私にキスをするリンは、優しく微笑む。



「だからもう、アイツの事は口に出すな。話にするだけで腹が立ってくる…」



もしかしたら、私よりもリンの方が、私の記憶を取り戻したいのかもしれない。

私の事をずっと好きでいてくれたリン。




「私はずっとリンのそばにいるよ」



きっと、私はもうリンに心を開いている。

自ら血を飲んで欲しいなんて。

もしかしたら私も、リンが好きなのかもしれない。

ずっとずっとリンのそばにいれますように。

無意識にそう思っていた。








──あれから、約10日間程が経過した。




リンは毎日仕事から帰ってきたら、私の血を求めてくるようになった。だけどそれ以上に私を抱きしめてキスをしてくる。

それに応える私は、やっぱりリンが好きだと実感して。



「ナナ…」



立った状態のまま、リンの温かい舌が私の舌と絡んでいく。腰と後頭部に手を回されぎゅっと抱きしめられる。



深すぎるリンのキス。

そのままゆっくりとベットに押し倒されて、私を求めてくるリンを抱きしめる。


淫らな音が部屋に響く。



「いい匂いする、風呂入ったばっか?」



唇が離れた後、耳元でぼそっと呟かれ、私は顔が赤くなった。



「1時間ぐらい前だよ、分かるの?」


「俺を誰だと思ってんだよ」



吸血鬼……。

そうか、匂いに敏感だから。

リンの手が、私の頬を包む。

そのまま首筋に顔を埋めるリン。



リンは噛まず、ずっと唇や舌で首筋を攻めてくる。こそばくて、気持ちいいような、なんとも言えない感覚が、私を襲って。




「リ、リン······!!」



また深く、キスをしてくるリン。



「ま、待って···リン···」


「ほしい」


「っ、なに、」


「お前がほしい」



ゆっくりと忍び寄ってくるリンの手。

ほしいって。

なにを。

血のこと?

あれだけ吸血行為を我慢してたのに?



「血、のこと、?」


「……ちがう」


「な、に、」


「いや…、いい……」



私と唇を重ねるリンは、また愛おしそうに頭を撫でる。

唇が離れ、頬が熱くなっている私は「わたし、」と、リンの目を見つめながら言った。



「リンのこと、好きもしれない……」



一瞬、動きを止めたリンは、──「…やっぱ抱きてぇ……」と、私を抱きしめた。


抱きたい……。

それは、つまり。


抱かれるという行為がどういうものかは知ってる。でもしたことがないから、いきなりリンに「……抱いていいか」と聞かれても上手く返事ができなくて。




したことないから······。

したことがない?

本当に?

記憶がないのに、したことがないって分かるの?

キスは?

私の覚えている限りではリンしかしたことなくて。

でもリンがいう、2年間の男の人とは?

キスをした?してない?

抱かれた?抱かれてない?



······分からない·····。



「リン……」


「うん?」


「……他の人に、抱かれていたらごめんね、」



顔を顰めたリンは、「……ああ、」と、頬にキスをくれた。



「私、キスもその人としたことがあるのかな」


「それは分かんねぇ」


「……」


「けど、初めてキスしたのは俺」


「え?」


「それは間違いねぇよ」



初めてのキスは?



「いつのこと……?」



この部屋で、私の事を好きだと言った時?

リンを受け入れた日?



「ナナは覚えてない」



覚えてない。

じゃあ、私が知らないリンと過ごした10年間の時にしたってこと?



「そっか、でも、初めてがリンなら良かった」



私がそう言うと、リンは少しだけ笑った。



「俺はお前しかしたことねぇよ」



リンの台詞に驚く。

私しか?



「え?本当に?」


「おかしいか?」


「おかしいっていうか」



だってあんなにも舌使いが上手なのに?

すごく気持ちがいいって思ってしまうのに。

じゃあ元々、キスが上手なのかも···。

それとも昔の私と何回もキスをしたとか?


私しかキスをしたことがないって聞いて、とても嬉しい自分がいて。



「私、リンとした事あるの?」



リンに抱かれるという行為を。



「ねぇよ」



ない?

キスはしたのに。

リンは苦笑いをしながら、私の髪を撫でる。







「一緒にお風呂入ったのに?」


「小さい時だって言っただろ?」


「あ、そっか……」


「お前が抱かれたとか、俺には分かんねぇ。まあ、やってみれば分かると思うけど」


「どうして分かるの?」


「処女は痛いっていうからな」



処女って……。

そうか、私、自分が処女なのかも分からないんだ。



「リンは初めて?」


「お前以外と誰とするんだよ」



私以外……。

ということは、リンもしたことがなくて。

もう毎日、血を飲んでいるリンは、すっかり体力が元通りに戻っていた。日課になっていた朝の散歩も、私の血を飲んだ次の日からは再開していて。



「リン」


「うん?」


「好きだよ…」



嬉しそうに、笑ったリンは、そのままゆっくり私の服に手をかけた。──リンを受け入れる時、少し痛みが走り。

初めては痛いらしいと聞いた私は、ああ、初めてだったんだって嬉しくなった。

終始、優しく抱いてくれたリンを、私はずっと抱きしめていた。










「大丈夫か?」



羽織を私に被せてくれたリンは、昨晩に生じた下腹部の痛みを心配してくれているみたいで。



「平気だよ」



一眠りしたからか、もうほとんど痛みは無くなっていた。



「痛てぇなら抱き上げていくけど」


「もう、本当に大丈夫だってば」



私はクスクスと笑い、花柄が描かれた靴を履いた。朝が早いため、人気のない屋敷内。

庭に行くまで誰一人すれ違わなくて。

リンに手を引かれ庭まで来て、いつものように噴水の方へと歩こうとした時だった。



「待てっ!!」



突然大きな声を出したリンに手を引かれ、私は歩けなくなった。

なに、どうしたの突然…?

こんな事は初めてだった。

驚いてリンの方を見ると、リンはすごく怖い顔をしていた。眉間にシワをよせ、ジッと花壇の方を見ていて。

そこになにかあるのだろうか?と、私も見るけど何もなくて。



「ナナ、ここにいろ。絶対に動くな」


「え?」



私の手を離したリンは、その花壇の方へと歩いていく。


なに?

どうしたの?

何かあったの……?

リンの言われた通りにその場にいると、リンは花壇の裏の、私から見て死角になる方へと足を進めて……。



「お前ッ……」



リンはその場にしゃがみこむと、大きな声を出した。

私からは何も見えなくて。

本当に何があったの···?

しゃがみこんでいたリンが立ち上がったと思ったら、リンは腕に何かを抱えていた。


私はその光景に目を見開く。


リンが横向きに抱き上げていたのは、女の子だった。リンが女の子を抱き上げていたのに驚いているわけじゃなくて……。



「ち、血が……」



女の子の服は、血がにじみ出ていた。

その子は私と同じような髪色をしていて……。


ありえないほどやせ細った体。

ガリガリよりも、酷く。骨が浮き出るほどで。

よく見るとところどころ、噛み跡があった。

こんなの、吸血鬼にされたとしか思わなくて。

吸血鬼しかこんなふうに噛まれないから。

私も、噛まれから分かる。



「誰がこんな事をっ……」



こっちに戻ってきたリンは、不機嫌で。



「ランだ」



女の子を抱き上げているリンは、どう見ても怒っている。



「ラン…さま…?」



ラン様が?

この子に……?


服についている血。

まさかこの子にも、アレをしたの?


吸血鬼の鋭い爪で何度も何度も……っ。

思い出すだけで、体が震えてくる。



「どうして……、ラン様がこんな……」


「この子がランの専属だからだ」



ラン様の?

ということは、この子が8人目?

私と一緒の、造られた人間?

どことなく、私に似ているガリガリにやせ細り血塗れの女の子。



「……なんでこんな酷い事ができるんだ……」



苦しそうに呟いたリン……。



「ナナ、1人で部屋に戻れるか?」


「え?」



戻れると言えば戻れる。

もう完璧に部屋までの道は覚えていているから。



「この子を医務室に連れていく、時間がないからそのまま仕事に行くことになるから」


「大丈夫!早く、早く連れて行って……」



リンは女の子を抱えながら、屋敷の中へと入っていく。どうやら医務室は部屋とは反対方向らしく。



「何かあったら大きい声を……」


「分かったからっ、リン、早く!」



私はリンの背中をおした。

運ばれる8人目という女の子を見送り、姿が見えなくなったあと、私も急いで自室に戻った。


どうして?どうしてラン様はあんなにひどいことが出来るんだろう?ありえないほど細く……。血まみれで。本当に虫の息のようだった。



────普通エサってのは飲食も睡眠も、こうやって抵抗すんのも、主人の許可無しでしちゃいけねぇんだよ



ラン様の言っていたことを思い出す。

リンによって無くたったはずの傷が、ズキズキと痛む。

〝8人目〟

あの子は、いつも、あんな事をされてるの?



リンと大違いのラン。あどけなさが残る子供らしい顔つきなのに、中身は悪魔だ。





「ほんと、不用心だよね」



────!?



「あんな囮に騙されるなんて」



なんで?

どうして?


体がブルブルと震えてくるのが分かった。

後ろから口を手で塞がれ、もうひとつの腕が私を逃がさないようにするためにお腹部分に回っていて。

私の後ろにいる悪魔は、待ってましたかのように私を捕らえてきた。捕えられたのは自室の扉の前だった。いつも朝は誰にも会わなかったから油断していたのかもしれない。




逃げようとしても、体が震えて動かない。後ろにいるのはランに間違いなくて。ランはクスクスと笑いながら、リンの部屋の扉のノブにふれた。


いつもは鍵がかかっている部屋───……。

だけども朝は鍵をかけていない。何故なら私が部屋にいないから。いつもはリンがここまで一緒に送ってくれるけど、今日はリンがいなくて……。



「兄さんは医務室?じゃあ時間ないし、そのまま仕事行くだろうね」


「っ……」


「助けに来るのは仕事が終わった頃だから⋯、しばらくは帰ってこないね。残念」


笑いながらラン様は呟くと、扉を開け、私を解放すると勢いよく背中を押してきた。


私は小さな悲鳴を上げながら、部屋の床へと倒れ込んで。扉の閉まる音と⋯、ガチャっと鍵の閉まる音が聞こえた。




「ラン様⋯っ」


「あれ、傷治ってるじゃん。兄さんに治して貰ったの?」


「……⋯っ」


「ってことはもう、お前の血飲んでるんだ」


「や、や⋯⋯だ⋯」


「え?今やだって言った?」



倒れ込んだ私の上に、ランが馬乗りになってくる。ラン様の爪や歯が、笑う顔が怖くて仕方がない⋯。



「ど、して⋯あんな事をするんですか⋯」


「何急に」


「いつも⋯あんな事を?」



ランはずっと笑っている。



「ああ、8人目?…つーか、まだ分かってないの?兄さんが異常なんだよ。あれが普通」



ランが、私の襟元を捲る。



「普通って…」


あんなに細くて、見まみれが普通なの?

シャーロット家のために作られたエサ。エサなら何してもいいっていうの?じゃあリンのお兄さん…、アンも、ランと同じような事をしてるっていうの…?



「だからお前は兄さんに甘やかれすぎ……、なんだ?すげぇ兄さんの匂いがする」



ラン様はそう言うと、首筋部分に顔を埋めた。血を飲まれる!!と、反射的にそう思った私はグッと目をつぶった。


だけど…、皮膚が突き破られるという感覚は全くしなくて。ラン様は驚いたように、顔をあげた。



「お前…、兄さんに抱かれたのか?」



ドクンと、心臓が脈をうつ。

どうして分かるの…。

匂い?

リンの匂いがするから?

そんなもので分かるの…?




「マジかよ…っ、ははっ、マジで?マジで言ってんの?」


「……っ…」


「どうだった?兄さん、優しかった?」



ランが、私の手首を痛いぐらいに掴んだ。



「や…っ…痛っ…」


「別に初めてじゃないし、痛くも無かったんじゃねぇの?」



……え?

今、なんて言った……?

初めてじゃない?

初めてじゃないと、ランは言ったの?


嘘だ、そんなの。

だって昨晩、リンに抱かれた時痛かった…。

それって初めてってことでしょう?


でも、どうしてそれをランが知ってるの。



「俺にやられた時、すっげぇ痛そうな顔してたもんな?」



ランは何を言ってるの…?



「あん時の血、すっげぇ美味かったな」



嘘だ…



「まああれから2年たつしなあ」



私は……ランに……?



「また俺も“可愛がって”やろうか?」



────頭が真っ白になっていく。



「嘘…そんなの…、だって…痛かった…」


「痛かった?んなの、2年もあいたら痛いの当然だと思うけど?」


「……っ」


「つーか、覚えてねえの?あー、そっか、記憶ねぇんだっけ…」



こんなの、ランの作り話だ。

私の記憶が無いのをいいことに、ラン様がデタラメを言っているだけ。ねぇ、そうでしょ…?



「じゃあ教えてやるよ。頭は忘れても体は覚えてるだろうし」



ランはそう言って、私の服を捲り上げた。



何をするつもり?と、

まさかっ…とは思った時にはもう遅くて。



「安心していいよ、記憶は消してあげるから」


「や、いや……っ!!…やめて……!!」





抵抗するけれど、私は何もできなかった。

私は…初めてじゃなかった。

2年前に、ランに抱かれていた…。



リンじゃなかった。

とめどなく溢れ出す涙は、止まることを知らない────。




───頭が、重い…


目を開けると、そこはいつも過ごしているリンの部屋に間違いなくて。どうやら私はベットで眠ってしまっていたらしく、もう窓の外は日が沈んでいた。




あれ、私…どうして寝てたんだっけ?

昼寝をするなんて、今まで無かったのに。

確か朝…、リンといつものように庭へ行って…、そこから……?

ああ、そうだ、血まみれの〝8人目〟がいて。



あれ……。

どうしてだろう、頭がすごく重い。頭痛って感じじゃなくて、本当に重いっていう言葉がぴったりで。体もなんだか上手く動けない…。

昼寝をしすぎたせいかもしれない…。

そう思ってベットから起き上がり、脱水所へと足を進めた。そこで顔を洗い…、少しだけ気分的にさっぱりした時、ガチャ…と部屋の扉が開く音が聞こえて…。


あ、リンが帰ってきた……。

早くタオルで顔をふいて、迎えに行かないと…。



「…ナナ?」



やっぱりリンだった。私を探しているリンの声が聞こえる。私はここだと脱水所から出ようとした時だった。




「ナナ!! どこだ!!」



リンの怒鳴り声が、私の耳に届いて。



「リン…、どうしたの?」



私は脱水所から出てリンの方へと姿を現した。ベットの近くにいたリンは眉をひそめてすごく怖い顔をしていて…。え、なに、どうしたの?

リンのこんな顔を見るのは久しぶりだった。最近はずっと優しくて……。



「どこか怪我したのか!?」



すぐに私のそばに来たリンは、私の腕をつかむとそんな事を言ってきて。…って、え?怪我?



「してないよ?急にどうしたのリン」


「血の匂いがする、ランは来てねぇよな?」



ラン?

ランは今日見かけてない。


血の匂いって、私の?



「来てないよ…、ほんとにどうしたの?」


「今日何してた?」


「え?」


「今、何してた?」



今日? 今?

どうしてリンはそんな事を言うんだろう?



「昼寝してたみたい…、さっき起きて…」



私がそういった途端、リンの顔色が変わった。

凄く凄く、見たこともないぐらい…、リンが怒っている表情になる。



「お前…、ランの匂いがする」


「ランさま?え、でも、今日会ってないよ?」


「っ────⋯、クソ!!!!」


「リ、リン!? どうしたの?」



怒鳴り声をあげたリンは、私の腕を離し、部屋の外へ出ていこうとして。

尋常ではないぐらい、リンは怒っている。


ラン様の匂いがする?

どうして?

私、今日はランに会ってなくて。

血の匂いだって、昨晩リンに飲まれただけで…。



「ま、待ってリン!」



私はリンの後を追いかけた。

怒っているリンの足はとても早くて。



ある部屋の前にたどり着いたリンは、その扉に手をかざし……、物凄い音とともに、あったはずの扉が吹き飛んだ。

驚いている私は、怒っているリンを追いかけることしかできなくて。部屋の中に入ったリンは、その人物を見つけるやいなや…



「てめぇ!! あいつに手ぇ出したのか!!」



リンは怒鳴り声をあげた。



「あれ?気づいた?ちゃんと噛み跡は消したと思ったんだけど?」


「ふざけるな!!!!」



そこにいたのは、広々とした部屋の中にあるうちのソファに座っているランで。

リンはクスクスと笑っているランの胸ぐらを掴んだ。



「そんなに怒ってるって事は、何をしたか分かってるってこと?そうだよね、兄さんは俺より匂いに敏感だし」


「お前っ⋯───」


「可愛かったよ。ずーっと兄さんの名前呼んで」


「…何言ってる…」


「何言ってるって?分かってるくせに…。可哀想だからちゃんと消したあげたんじゃん。兄さんみたいにさあ」



ランは何を言ってるの?

消した?リンみたいに?



「ちゃーんと可愛がったし。あ、でも、ずっと泣いてムカついたから1回頭殴っちゃった。ごめんね?」




その言葉を最後に、ランはソファから落ちていた。なぜ落ちたのかは、リンがランに殴りかかったからで…。



「殺してやる」


「いいよ、殺しても。兄さんは俺のこと弟って思ってないしね」



2発、3発と、リンがランを殴りつける。



「お前は俺が嫌いなんだろ!? ナナに手ぇ出してんじゃねぇぞ!!」



ランが、私に…手を出した?

いつ?

今日はランに会ってないはずなのに。



私は朝からずっと寝てて…

寝てて?

本当に……?

まさか、私…。

自分の頭を、抱える。

覚えてない。

忘れてる?

昼寝をしていたんじゃなくて、もしかして記憶を⋯────。



リンは血の匂いがすると言ってた。

記憶を失っているだけで、私はラン様に血を吸われたってこと?うそ、そんな……。



「どうしてそんなに怒ってるの?まさか、昨日したのが初めてだったとか?」


「喋んな!!」


「兄さんも8人目としたら?まあ俺的には7人目の方が良かったけど。痛がってる顔、良かったし」


「クソが!!」



昨日した?

する?

痛がってる顔…?

そう言われて、思い出すのはリンに抱かれたこと…。

まさか……私っ………

ランに記憶を消されて、忘れているだけで。



「けど8人目はおすすめしないよ、血もあんま出ないくせにたいして美味くもないし。それにガリガリすぎて抱いても気持ちよくな──…」



リンの顔が、今まで見た事ないぐらい怒った顔になり。



「お前が大事にしないからだろ!! 」



リンが、ランを殴りつけ。

すごく力が強かったみたいで、ランの声が止まり。



「ナナ…」



体の震え止まらない私に気づいたリンは、私の方へと駆け寄ってきた。

尋常ではないぐらいの汗、体の震え。

どうやら私自身は覚えてないのに、体は覚えているようで。

私は上手く呼吸ができないぐらい、取り乱してたと思う。気がつけば気を失っていて、意識も朦朧として。



「──……俺は兄さんが大嫌いだよ。だから兄さん、早く死んでくれないかな。7人目を俺にちょうだい?可愛がってあげるから」



────どこからか、そんな声が聞こえた。












────『じゃあお前は死ねっつったら死ぬのかよ!!』



たまに、夢を見る。

だれどそれは目覚めたらいつの間にか忘れている。

それが現実なのか、本当に夢だったのかも分からなくなる。だから数秒後には、夢を見たことさえ忘れてる。

頭がおかしくなりそうで、自分が自分じゃなくなりそうで…。




────ハッと目を覚ませば、真夜中らしい部屋の中は薄暗かった。枕元にある小さな灯りのおかげで、辺りを見渡すことができて。



「ナナ…」


リンの声がする。

目線を動かせば、ベットのそばにイスを持ってきて、そこに座っているリンがいた。

リンは私の頭を人撫でして、「…大丈夫か?」と、泣きそうな声で呟いた。

大丈夫か?それは一体…

思い出すのは怒り狂ったリンが、ランを殴っているところで。どうして殴ってた?それはランが私を──⋯。



「夢じゃなかったんだ…」


「ナナ…」


「私…ラン様に……」



記憶を消されたらしい。

ランとリンがしていた会話は覚えている。だけど、ランが私にした行為自体は忘れてる……。



「ナナ」


「ごめんなさいっ…、忘れてる…、ごめんなさい…」


「なんでナナが謝るんだよ…」



リンは私の額にキスをしてきて。そのまま私を抱きしめてきた。抱きしめてくるリンの体は震えていて。



「今まであったかもしれないっ…、私、さっきみたいにラン様に記憶を消されるの、初めてじゃないかもしれないっ…」


「…ナナ」


「ごめんなさいっ⋯、ごめんなさい」


「違う、ナナは悪くない」


「もしっ…、初めてじゃなかったら…」


「ナナ……」


「も…、や、だよ…。怖い、怖いよ…」



どんどん記憶が無くなっていく。

私の記憶は、ほとんどリンで埋め尽くされている。だってそれは、記憶を失っているから。


今回はリンが気づいたから、私がランに抱かれたことが分かった。だけど気づかなければ?私は永遠にランに抱かれたことを知らなかった…。



それが初めてじゃ無かったら⋯?

何度も何度も消されていたら?

吸血鬼は記憶を消せるから。

じゃあ、ここにいるリンは?



「…」



リンは私の記憶を消した事がある。

2年間一緒にいたはずの記憶を。

本当にそれだけ…?



「ナナ?」




突然、黙り込む私を不思議に思ってかリンが顔をあげて、私の顔を見た。

リンの碧い瞳が見えた時、私の体はビクッと震えた。────違う、リンはそんな事をしない。リンはランと違って私の事を思ってくれている。

今だってこんなにも、優しい…。きっと私が目を覚ますまで起きてそばにいてくれた…。



なのに……。



「どうした?」



どうしてこんなにも体が震えてしまうのか。安心できるリンのはずなのに。



「ちが…、違う…。リンは怖くないからっ…」



私がそういった時、一瞬、リンの顔が強ばった。



「リンはしないって分かってる⋯!」



リンは「…うん」と呟いて、私の涙を指で拭いてくれた。



「…確かに俺は、お前の記憶を消したことがある。ムカついて、前の男の記憶を消した」



優しい手が、私の頭を撫でて。



「自分の私利私欲で消した事に変わりはない」



でもリンはそれを教えてくれた。

それを聞いても、私はリンが好きだと心から思った。



「ずっと探してた…、お前を…。見つけた時マジで嬉しかったんだ…」


「…リン」


「そんなお前から、前の男に戻りたいってこと、絶対に聞きたくない」


「……」


「だから…、目ぇ閉じろ」


「え?」


「戻すから、ナナの記憶」


「…私の?」


「戻すって言っても、ランの事とか、俺が消した記憶以外は戻らない」


「ま、待って…」


「ちょっと痛いかもしんねぇけど…」


「待ってよリンっ」



私の額に触ろうとするリンの手を止めた。



「記憶が戻るの嫌か?」


「そうじゃないよっ…」



というか、いきなりすぎて…。

私はリンを見つめた。



「私、リンのこと大好きだよ。だからもし、記憶が戻ったらリンのこと…」


「嫌いになるかもしんねぇな」


「嫌いになんかならないっ、絶対ならない!!」


「うん」


「リンはそれでもいいの?前の彼のこと、私が思い出しても…、だってあれほど言ってたのにっ、さっきも…」


「お前に怖がられるぐらいなら、嫌われた方が何倍もマシなんだよ」


「…だ、だけど…」


「ナナは戻したくない?」



戻したくないって言われれば、嘘になるけど…。でもリンを傷つけるぐらいなら……。



「ナナ?」


「リン…」


「戻してやる、俺がお前の記憶、全部」


「え…?」



全部?

それって、前の彼に消された記憶も?

ランの記憶も…

でもそれは消した本人しか無理で…。



「お前が不安になって怖がるくらいなら、俺が絶対に戻すから」


「できるの…?リンと過ごした事も、思い出せるの?」


「方法が無い、ってわけじゃないからな」



そう言えばあの時リンは、リスクが高すぎる────ような事を言っていた。



リスク?



「戻りたくない記憶もあるかもしれない、それでもいいか?」


「すぐに戻るの…?」


「いや、俺が消したのはすぐに戻るけど、あいつらが消したのは時間がかかるかもしれない」



あいつらとは…

前の彼と、ランのことで。



「たけど、戻るんだよね」


「ああ」


「リンの記憶も?」


「そうだよ」


「戻したいっ…、リンのこと…、リンのこと全部っ、嫌な事でもいい、絶対に嫌いになんかならないから!!」




そう言うと、リンは優しく笑った。




「好きだよナナ…。すぐに終わる。あんまり痛くないようにするから」




リンは私の額に手を当てて、優しく私にキスをした。










────『私の血を飲んで』と。


ナナは俺の命の恩人だ。


ナナの血は特殊…、理性を保てる吸血鬼はいない。


酷い扱いを受けていた。血を飲まれすぎて痩せ細っていた。


七日間の記憶しか…。


ナナが好きだからだよ。


私もレイが大好きです。


たくさんのキス────⋯。





マジで⋯生きてたのかよ⋯


セントリア家に逃げてたとはな。媚でも売ったか?


あの男がお前の記憶を消したのか!?


ナナ様!お逃げください!


血塗れの、リザと呼ばれた女性。


消してやるよ、お前の記憶。


先に俺とお前の記憶を消したのはあいつだろ!!









────思い出した、ここへ来た時のことを。


レイ────⋯

リザ────⋯


窓ガラスが割れてリザが血まみれで。

屋敷が燃えていて。


私が思い出を作りたくないから、レイが私に7日間しかもたない記憶操作をしていた。でもそれはリンが解除して。


記憶を思い出す限り、私はレイが好きだった。だから私はレイのキスを受け入れていた。


レイはいっていた。

私が酷い扱いを受けていたこと。血を飲まれすぎて痩せ細っていたこと。レイはそんな私を助けてくれた。七日間の記憶しか戻っていないけど、レイは私をすごく大切にしてくれていて。



「起きたか?」



聞きなれたリンの優しい声。

部屋を見渡す限り、まだ真夜中らしく、それほど時間がたっていないみたいで。



このリンが、私に酷い扱いを⋯?

やせ細るほど、血を飲まれていたの…?

思い出すのは、庭で倒れていた血塗れの8人目…。そこからはもう思い出せないけど。



「ナナ?」



────そんなはずない、だってリンはこんなにも優しくて、私の事を思ってくれて…?


本当に?

思い出した記憶は、連れ去られた時のこと。

私を庇って血塗れになって…、ランに血を飲まれたリザ。

私をリンから助けてくれようとしたレイ達…。



思い出したのは、レイ達がとてもいい人だということ。

そしてどう考えても、リン達が悪人だった。

レイが言っていたことは、本当?嘘?

リンが私に酷い扱いを────⋯っ。



「大丈夫か?」



嘘に決まってる。

だって今だってこんなにも優しい顔をして、私の頬を撫でてくれて…。



「痛くないか?」



さっきのは夢だったのかもしれない。

確かに頭が重い、けど、それほど痛くはなくて。それよりも戻った記憶に混乱していた。そう、きっと夢⋯。夢に違いないからっ。



「ナナ⋯」


「⋯だ、大丈夫だよ。平気⋯」



リンの顔がほっとしたような、安心した顔になる。



「思い出した?」


「⋯うん」



だけどリンの顔を見る限り、あれは現実に起こったことだと分かる。



「⋯夢じゃないだね」


「ああ」


「私⋯レイって人と⋯」



たくさん、キスしてた。血も飲まれてた。あれが現実なんだとしたらそれは、私はレイが好きだったということ。



「分かってる、なんとなく予想はついてるから」


「⋯ごめんな⋯さ」


「あいつんとこ戻りたい?」



戻りたい?

分からない。



「結婚するつもりだったんだろう」



結婚……──。

レイと。

何も言えなくなる私に、リンは「……戻りたいか」と、もう一度告げた。




戻りたい……。

あの後どうなったのかは気になる。

特に気になるのは血塗れのリザ⋯。




「戻りたいというか⋯。どうなったかは気になる⋯」


「どうなったかって?」


「リザ⋯、女の人。屋敷にいた人。みんな怪我をしていたから」


「連れ去った時のことか」


「⋯うん」


「無事だよ。死んではない」


「そっか⋯」



蘇った最後の記憶は、リンが怖い顔をして泣きじゃくる私を押さえつけ、記憶を消そうとしたもの。


今とは全然違う表情をしていたけど、リンが怖い顔をして怒っていたのは、レイが私とリンの思い出を消してしまったから。


ここへ来た時、数日間、リンは怖いままで吸血していたけど。今は心が通じあっているからか、リンに対しての恐れはない。


だから⋯⋯。

私がリンの方を見ると、それに気づいたリンは「ん、どうした?」と、声をもらした。



「レイとの記憶は、──とても幸せな記憶です」


「……ああ、」


「私⋯」


「うん」


「リンのそばにいたい⋯、いてもいい?」



レイ、ごめんなさい⋯⋯。



「なんで、幸せだったんだろう」


「分からない……、でも、今はリンと離れたくない」


「⋯⋯うん」



抱きしめてくるリンは、やっぱり優しかった。

酷い扱いを受けていたとしても、私はやっぱりリンが好き。


もしかしたら私が記憶を思い出すたび、同じような事が起こるかもしれない。だけど、今存在しているリンを信じたいから。



「俺、お前に酷いことしたぞ。髪掴んだり、無理矢理血飲んだり⋯」


「うん、分かってる」


「怖い思いさせたのに」


「怖いって言ったらどうするの?」


「⋯、ありえねぇぐらい今以上に優しくする」


「正直、分からないの」


「分からないって?」


「2年間ずっと一緒だった人、レイって人のこと。7日間の出来事しか思い出してないから。私はレイって人のこと好きだったんだと思う、だけど、今はそういう感情がなくて。幸せだったなっていうのは、分かるの」


「⋯⋯」


「リンが好きだから、リンのこと信じるって気持ちが大きくて」


「うん」


「だからリンのそばにいたいの」


「……そうか」


「言ってることおかしい?」


「おかしくない」


「本当?」


「ナナのすることにおかしい事なんか無い」


「そうなの?」



リンの返事に、私は笑みがこぼれた。どれほど私の事を好きなんだろうと。



「そうだよ」



そう言ったリンは、顔を近づけてきた。キスをしてくるんだろうと思った。だから私の方から、リンの事は怖くないよと⋯そういう思いを込めて唇を重ねた。


その瞬間、思い出したのはレイのこと。

レイともこういう風に重ねてた。


だけどもやっぱり



「愛してるナナ…」



私はリンが好きだから⋯。






「あの子はどうなったの?」



あの後、気づけば朝になっていて。

もう身じたくが終わったリンはベットに腰かけながら、ずっと私の頭を撫でていた。



「出血が多かったから、そのまま手当をしてもらった。大丈夫、心配ない。安静にしてる」



リンはすぐに8人目だと気づき、そう言った。



「あの子はいつもあんな事をされてるの?」


「あれは異常だ、俺も滅多に会わねぇけど、あれほど酷いのは見たことない」


「そうなんだ…」



もし、私が7人目じゃなくて8人目なら…。

リンではなく、私がランの専属のエサなら、同じことをされていたのだろうか。

私は、リンの専属だから……。



「運んだ時、リンは大丈夫だったの?」


「大丈夫って?」


「レイ…が言ってた。私の血は特殊だから、吸血鬼は理性を失うって…。それってあの子もでしょう?」



あんなに血が出てたのに、リンは理性を失わなかった。



「俺はナナで慣れてるってのもある。それに、ナナ以外の血を飲むなんて考えらんねぇ」


「慣れ……」



そういえばと思い出す。

アンも、ランに調教された怪我が包帯から血が滲み出していても、平気な顔をしていた。

あれも慣れていたから。



「リンのお兄さんも、ラン様と同じことをしてるの?」


「兄さん?なんで兄さんが出てくんだよ」


「だって…、リンは私の事が好きだから、こんなにも優しくしてくれるんでしょ?」


「⋯ああ」


「でも本来ならエサとして生まれたから、ラン様の方が正しいのかな…」


「それは違う、お前たちは生きている人間だ。暴力なんてしていいはずが無い」


「うん…」


「それに兄さんは、傷を付けるのを拒んで、輸血をしているから」


「どういうこと?」



傷を付けるのを拒んでる?

輸血って?

輸血ってリンがしていたような…。



「兄さんは5人目の血を、針で抜いている。それを輸血してるんだよ。自分自身で5人目から血を飲んでいるわけじゃない」


「リンみたいに直接飲んでないの?」


「そう」


「傷をつけたくないから?」


「多分な、兄さんから直接聞いたわけじゃないけど」


「誰から聞いたの?」


「姉さん」



リンが発した言葉に驚く。

今、お姉さんって言った?



「リンってお姉さんがいたの?」



「ああ、男3人と、女1人の、4人兄弟」


「知らなかった…」


「もう嫁いでこの家にはいないけどな」


「そうだったんだ…」


「ナナは姉さんと仲良かったよ、6人目は……あんま話さなかったけど」



私とリンのお姉さんが仲良かった?

6人目?6人目って────⋯

私よりも1つ、早く生まれた人。

それは私の消された記憶の1部。



「お姉さんの名前はなんて言うの?」


「レン。お前はレン様って言ってた」



レン様⋯。


一緒にいるのが6人目ってことは、アンが兄弟の中で1番年上ってこと?その次がレンで、リン、ランと続いて。



「全員最後に、『ン』がつくんだね」


「母上が名付けたんだよ。自分に『ン』の文字がつくから。おかげで俺はリンなんて、女の名前をつけられた」


リンのお母さん?

確かにリンってうのは、女性が使う名前かもしれない。

そう思えばアンも、ランも、どちらかと言えば女性の名前で…。

レンは男性のような…。



「私、リンのお母さんの事も忘れてる…」


「いや、忘れてない」



え?

忘れてない?



「母上はもう亡くなっている。俺がこの話をするのは今日が初めてだよ」


リンはどこかしら、悲しそうに笑った。



「母上は素晴らしい人だった、お前にも会わせたかった」



リンのお母さん…。



「どんな人だったの……?」


「優しい方だった。俺を産んだ後、母はすぐに体調を崩した。俺は覚えてないけど、ずっと安静にしていたらしい。そして俺が物心ついたぐらいの時、ランを身ごもった」



ラン…。



「正直、産める体じゃなかった。でも、母はランを産んだ」


「…うん」


「けど、生まれたのは早かった。ランが未熟児で生まれ、母はいつ亡くなってもおかしくないと言われてた」


「⋯⋯」


「けど、母はランを可愛がってたよ。血を吐いてまで…。同じ髪色をした子がやっと生まれたんだ⋯」


「同じ髪色?」


「ランの髪色は母譲りだ。他の3人は父譲り」



確かにそうだ。

まだアンしか見たことないけど、ランは綺麗な茶色の髪⋯。あれはお母さんから受け継いだもの…。



「正直、俺は母に育てられた記憶は無ねぇ。最期の時に『ランをお願い』と言われたぐらいだ」


「…うん」


「けど、母は立派な人だった。本当に…」


「…うん」


「だからこそ、ランは俺が嫌いなんだよ」


「どうして?」



今の話に、ランがリンを嫌う理由が分からなくて。



「母上を殺したのは、俺だから」


「リンが……?」


「ああ、俺のガキすぎてわがままを言ったせいだ」



何があったか分からない……。

自分のワガママのせいで、お母さんを死なせてしまったと思っているリン。弟であるランは許していない。



「俺を嫌っているから、ランはお前を……」



それは今も続いていて、当てつけに私を酷く扱うランは…。

────本当に、それだけなのだろうかと思う。



それだけで、あんなに異常なほど、8人目を血塗れにできるのか…。だってリンと8人目は、関係ないのに。



「ナナ」


「⋯なに?」


「もし、全ての記憶が戻って、それでも俺のそばにいてくれんなら⋯」


「⋯⋯」


「俺についてきてほしい」



ついてきてほしいって?

リンはゆっくりと私を離して、私の方を見つめた。




「この家を出る」



出るって────⋯

それはつまり、



「シャーロットの名前を捨てるってこと?」


「そうだな」


「で、でも、そんな事⋯」



できるの?



「ランからお前を守るの、それしかない」


「リンはそれでいいの?」



ここはリンの家でしょう?

家族だっている。

リンのお兄さんはリンのことを大事な弟のように接しているように見えた。

だってどうでも良かったら、死にそうになっているリンを助けたりなんかしない。


お姉さんや、お父さんも────⋯。



「俺はお前を守るためなら何だってする」


「⋯リン⋯」



自分のせいでお母さんが亡くなったと思っているリンは

、私が死んだと聞かされた時、どう思ったんだろう。また、自分のせいって思ったのだろうか。



「ずっとリンのそばにいる。だけど、ダメだよ。簡単に家を出るなんて言っちゃ⋯絶対にダメだよ⋯」



正直、私には家族っていうのは分からない。

でもリンは血の繋がった家族がいるんだから⋯。



「⋯お前は優しいな」


「リンの方が優しいよ」


「⋯⋯家は出る。名前は捨てなくても、父上を説得して家を出るから」



私をランに会わせないため⋯。



「俺の頭はもう、お前のことしか考えてない」



やっぱり優しいリンは、リンが返してくれた記憶の中のリンとは違う。

初日は私の事を「エサだ」って言ってたけど、それはムカついていたから。後からちゃんと謝ってくれた。


レイの屋敷で、私の姿を見た時のリンの怖い顔が、本当に現実なのかと思うくらいで。


昔、私に酷いことをしていたらしい。

でもそれはレイが言っていたこと。


────もしそれが嘘なら?



それ自体がレイの嘘で、私とリンの仲を引き裂くように、私の記憶を消して、あんな事を言ったのかもしれない⋯。



────分からない⋯。

どの記憶が本当で、嘘なのか。

全ての記憶を取り戻したい。











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我が君の願いならば 八神信乃 @yagamishino

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