隠したい日常

@TheYellowCrayon

第1話

“新宿駅から線路沿いを歩いて10分ほどのマンション密集地に、彼の部屋はあった。その部屋を選んだのにもちゃんと理由があった。上京したての青年は、東京のビル群が見渡せる部屋に憧れていた。その景観と家賃のバランスをギリギリまで攻めてようやく5階にあるその部屋に決めたのだ。


それから数年間、彼の1Kには幾度となく酒臭い男衆が押しかけたり若い女が一人で立ち寄ったりした。しかし、今日の彼は一人で居たい気分だった。むしろ部屋の中で起きていることを、人に知られてはならなかった。


彼はその日、昼間から退屈そうにベッドに横たえていた。。。”


全てがモノトーンに沈んでいく。

ずっと視界が不透明な膜に包まれたような感覚。その状態が続くと心は次第に堂々めぐりの沼にはまっていく。世界は灰色のまま死ぬまで変化しないんじゃないかと考えて怯えだし、未来の生活を考えるのが恐ろしくなる。


沼に浸かっている時は、沼の外にいた頃を忘れてしまうのだ。


そんな波が周期的にやってくる。そんな時、彼が行き着く先は決まっていた。


特に躊躇いはない。

台所の引き出しからラベルのない琥珀色の小さな瓶を取り出す。

器の上で瓶を横にして2、3回たたくと、小さじ程度の白い粉が舞い降りてきた。


これは自然由来のものだ。ちょっと珍しいけど、化学物質じゃないだけ安心さ。停滞した感情を、本来の状態に戻す行いだ。

やっと手に入れた強力なヤツなんだ。部屋全体に充満させてやりたい。


その粉でお香を炊いた。お香に使う器は仏様に白米をお供えするための小さな茶碗によく似ている。


火を灯すと、真珠色の煙がフワッと湧き上がってから一筋の細長い帯が天井の方まで伸びていく。


、、、リュウグウノツカイみたいだ。。。

実際に本物を見たことはないが、一瞬で深海魚のそれが思い浮かんだ。深海の闇の中で、白く光る帯のように細い体をうねらせている。あまりにも鮮やかな煙の流体はそれほどのスケールを感じさせる。


数十秒のうちにハーブような香りが蔓延し、身体がそれを受け入れていることに気がついた。心は体から解放されて、心に纏わりついたしがらみが燃え尽き、灰になって心臓から滑り落ちていく。残るのは何もない空間にただ浮かんでいる自分だけ。


そうだ、、昔からずっとそうだったんだ!

自分で自分を抑えているうちに、あらゆる感覚が麻痺していたんだ。自分を否定する影は居なくなり、全てが一つに調和している。

全てが赦されている。おぼろげな田舎の記憶から始まる幼少の頃から、今の今までの全てがここにある。素晴らしい。。こんなにも美しいものだったなんて。


ベッドに座ったまま目を閉じて、再び目を開けたときには涙が一筋こぼれ落ちた。


それこそが、生きているという実感だったから。


金曜日の夕暮れ時のことだった。

ふと部屋を見渡すと棚上のデジタル時計が放つ1758という値が目に入った。現実を知らせる4桁の数字が我を揺さぶった。


仕事の準備しないとな。でも、、あと10分だけ。


“彼はもう少し感情の調和に浸っていたかった。

それは彼が、この街の生々しい現実に心の底からアクセスできる唯一の時間だった。“

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