桜の木の下には
香久山 ゆみ
桜の木の下には
猫も杓子も恋する春、角倉氏も恋をした。
*
「おい、桜を見に行くぞ」
「へ」
三限目の授業終わりに角倉氏に誘われて、僕は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「桜を見に行くぞ」
「え、だってもう散っているだろう」
「造幣局の桜だ」
「ああ」
造幣局の桜は遅咲きのため、毎年、市街の桜の開花より二週間ほど遅れた、四月下旬のちょうど今頃が見頃となる。
「造幣局の桜の通り抜け、今年は今週の月曜日から始まって、来週の日曜日までだね」
「そうだ。わかってるじゃないか。行くぞ」
「え、いや、ちょっと待って。行かないよ。明日の土曜日にハルと見に行くから」
はあ、と大げさな溜め息を吐いて、角倉氏が冷ややかな目で僕を見つめる。
「なるほど。お前は、友情よりも女を取るわけだな。なるほど」
角倉氏が吐き捨てるように大声で呟く。
「え。いや。いやいや。そうじゃなくて。ハルは友達だよ。幼馴染の」
無様に動揺する僕。
「いや。それでもお前は男同士の友情よりも、女の友人を選ぶわけだ。自分は女と桜を見るから、俺には一人で見てこいと」
舞台俳優さながらの大袈裟な身振りで大声で独白し、大きな嘆息、頭を抱え込み、振る振る振る……。角倉氏の独り舞台に、ちらほらと次の講義を控えた物見客が集まってきた。
「わかった。わかったよ。行くよ。行く」
「おお、我が友よ!」
そういうわけで、男二人で花見ということになった。
*
JRの大阪城北詰駅を降りて五分ほど歩き、旧淀川を越える橋の上を歩く頃には、早や眼下に造幣局の桜並木が広がって見える。
が、案の定というか、角倉氏は「まずは腹ごしらえだ」と言って、造幣局の脇道の出店の屋台群にずんずん進んでいく。全く何しに来たんだか。春の嵐のように、ありとあらゆる屋台の食べ物を食い散らかしてゆく角倉氏。チョコバナナ。りんご飴。たこせんべい。お好み焼き。じゃがバター。フランクフルト。クレープ。シシケバブ。花より団子とは斯くが如き。「おお!」と歓喜の雄叫びを上げて通り抜け饅頭を買おうとする角倉氏を宥めて(どうせ花見のあとでまた来るのだから)、なんとか造幣局の入口に辿り着く。僕はスタート地点でもうふらふらだ。
造幣局の桜の通り抜けは、造幣局の敷地内にある約五六〇メートルにも及ぶ桜並木の間を南から北に通り抜ける。百三十種、約三百五十本もの桜の木が植えられており、毎年のことながら壮観だ。平日の午後のため、比較的人の流れも順調で、ゆっくりと桜を見ることができる。と言いたいところだが、角倉氏は右左右と首を動かしながらもずんずんずんずんと先に進んでいく。まったく何しに来たんだか。僕は折角の桜の写真を撮ることも諦めて、小走りで角倉氏の背中を追いかける。
と。桜並木もあと少しで抜けるというところで、突然角倉氏の足が止まった。
角倉氏はどこか一点をじっと見つめている。角倉氏が桜に見惚れるなんて奇妙なことだ。僕は角倉氏の視線の先を辿る。と――。
満開の紅手毬桜の木の下に、可憐な少女がひとり――。
いやいや、角倉氏が女人にうつつを抜かすなんて有り得ない。間違い間違い、てへぺろ。僕はもう一度角倉氏の視線を辿る。と――。
満開の紅手毬桜の木の下に、可憐な少女がひとり――。
ぎょええー、あばばばば。まさかまさかまさかりかついだ角倉氏が、恋?! 興奮を抑えつつ、僕は桜の木の下に立つ少女を観察する。薄紅色の桜の花が手毬の様にいくつも集まった、満開の美しい紅手毬桜の下に立つ少女は、肩にかからないくらいのセミロングの髪、僕らより少し年下だろうか、小柄で、桜の花弁のような薄桃色のワンピースの上に、白いストールを羽織っている。
僕は角倉氏の脇を、肘でつんつんと突いてやる。角倉氏ははっと我に返ったように僕の顔を見て眉を顰める。
「角倉クン、声掛けてみなよ」
「なに」
「ほらほら、あの紅手毬桜の下の彼女だよ」
僕はまたつんつんつんと角倉氏の脇を突く。
「お前……気づいたのか」
角倉氏が驚いたように僕の顔をまじまじと見る。
「そりゃあ、あれだけ熱い視線を送っていたらね。気づいちゃうよ」
「そうか」
「ほらほら、早く、声掛けてきなよ」
「いや……」
角倉氏には珍しく歯切れが悪くもじもじしている。まるで借りてきた猫だ。恋って恐ろしい。
「しょうがないなー。僕が声掛けてきてあげようか」
まるで動こうとしない角倉氏に痺れを切らせて、僕は提案した。
「ほ、本当にいいのか」
「いいよ、いいよ。こういうのは結構得意だし」
僕は角倉氏にウインクして、彼女の方へ歩き始めた。
まずは最初の一言が肝心。「ねえカノジョ」とか「コンニチハー」とかは最悪。明らかにナンパかキャッチセールスとみなされて、話も聞いてもらえない可能性大。逆にこれでついてくるような軽い女の子はこっちからお断り。そこで。僕はきゅっと眉を寄せて顔を作る。
「すみませーん」
紅手毬桜の彼女に声を掛ける。眉根を寄せ、とびきり情けない顔にして。コマッタ、コマッタ。あたかも道を尋ねたいかのように。すると大抵、話は聞いてもらえるものだ。こういう場合、何の特徴もない、人の良さそうな、普通の僕は便利だ。ゴリラ顔の角倉氏だと、こうはいくまい。
「はい?」
案の定彼女は何の疑いもなく、ふわりとこちらを振り向いた。よし。
近くで見る彼女は、本当に桜の花のように可憐だ。肩までの絹のような黒髪の下には、色白の肌に、ほんのり紅く染まった頬。小さな赤い唇。音がしそうな長い睫毛。落ち着いた雰囲気は、もしかしたら僕らよりも年上なのかもしれないと思わせる。黒い瞳でじっと見つめられると、なんだかどぎまぎしてしまう。
「あの、ですね。僕の連れが、ぜひお話したいと。あ、まったく怪しいものではないです。ただの大学生です。で、あそこのゴリラが連れです。僭越ながら一目惚れしたようで。女の人と話したこともないトウヘンボクで。少しでいいんで、話してやってくれませんか。桜の感想とかでいいんで。不憫な奴なんです」
まくし立てたものの、彼女は困ったように小首を傾げている。
「おーい、角倉クーン!」
有無を言わさぬうちに、僕は手招きして勝手に角倉氏を呼んだ。
角倉氏は渋い顔をしながら、のそのそとこちらにやってくる。
「これが角倉クンです」
「……」
「あの、はじめまして」
「……どうも」
角倉氏は首だけでひょこっとお辞儀する。無礼な男だなあ。
「……」
「……」
沈黙が流れる。彼女のほうは仕方ないとしても、角倉氏なんだよ情けないなあ。らしくないなあ。
「ほら、角倉クンなにか話しなよ」
「俺がか」
「もちろん! 角倉クンが彼女を見つけたんじゃないか」
「そうか……あーと、あんたはなぜここにいるのだ」
しどろもどろに角倉氏が話し掛ける。
「ええと、わたし人を待っているんです」
彼女が鈴蘭のように愛らしい声で答える。
「なるほど」
「……」
「……」
「えーと、友だちと待ち合わせ?」
沈黙に耐え切れずに僕が尋ねる。すると、彼女は少し俯いて小さく首を振った。
「いいえ。彼を待っているんです」
あちゃー、彼氏持ちかあ。角倉氏、撃沈。いやいや、まだ従兄弟とか友達とかいう可能性も。
「あの、彼って、恋人?」
単刀直入に訊ねる。
「いえ。恋人ではないです。……わたしの片思いというか」
やっぱりダメかあ。
「でも、一緒に桜を見に来るなんて、好い仲ってこと? ……なんて、すみません。初対面で不躾なことを」
「そんな。平気です。待ちくたびれて退屈していたから」
「え、彼氏さん約束の時間に来ないんですか?」
彼女は質問には答えずに、少し哀しそうな顔をして微笑んだ。
「約束を破るとは極悪非道の男だ」
「そうだそうだ。こんなかわいい人を待たせるなんて」
「でも、約束といっても、手紙をもらっただけだから」
「手紙?」
「ええそう、彼から貰ったの。この紅手毬桜の下で君を待つ、と。それだけ。待ち合わせの日にちも時間も書いていなかったから、通り抜けの期間中、ずっとこの木の下で待ってるの。ふふ、馬鹿でしょ」
「ええ、ずっと?! 彼氏にメールで連絡すればいいのに」
「わたし、彼の連絡先を知らないんです」
「え」
「毎週、お華のお稽古に通う道で彼を見掛けていたんです。彼は新聞記者みたいでパリッとスーツを着こなしていて、かっこいいなあって。でも、わたしの一方的な片思いだから、いつも擦れ違うときに見ているだけで。それが、次第に何となく挨拶を交わすようになって。少しずつお話しもするようになって。話してみるとますます素敵だなあって。そして、四月の初めに突然、彼から手紙を渡されたんです。わたしに手紙を渡すとすぐ走り去ってしまったんだけど、ふふ、驚いたなあ」
彼女の頬が桜色に染まる。なんてかわいらしい。僕は断然彼女の恋を応援するぞ。
「来る! きっと来るよ、彼氏! だって桜の通り抜けはあと三日間もあるんだし」
隣で冷ややかな視線を僕に浴びせる角倉氏を脇目に、僕は握り拳を作って彼女に力説する。こんなかわいい子を放ったらかしにする男なんて男じゃない! 視線を感じ、ふと周りを見ると角倉氏以外の何人かも、ちらちらとこちらを窺っている。いけない、大声を出しすぎたか。それとも彼女の美しさに注目しているのか。それくらい彼女は儚げで愛らしい。まるで桜の精。そうだ、紅手毬の君だ。
「ううん、待ってても無駄なの。彼が来るはずがないのに」
彼女がぽつりと呟く。
「そんな、どうして。そんなことないよ。手紙をくれたんでしょう」
「ううん、駄目なの。……だってわたし、行けなかったの」
「え」
「彼から手紙を貰った次の週、わたし、体調を崩して倒れてしまって。入院していたんです。だから、その年の桜の通り抜けには行けなかったの」
彼女は長い睫毛を伏せて唇を噛み締める。
「退院したら、彼に会って謝ろうって思ってたのに……、あれからどれだけ待っても、探しても、彼に会えないの」
「それで、今年も待っているのかい」
彼女は二年間もずっと彼氏を待ち続けているのか。
「……ええ」
「男の名は?」
角倉氏が難しい顔で尋ねる。彼女が消え入りそうな声で答える。
「……」
「……」
そんなことを聞いたって仕方がないのに。
「おい、帰るぞ」
角倉氏が僕の肩を掴む。
「え、ちょっと、でも」
「いつまでもここにいたってしょうがないだろう」
「……そうですね」
角倉氏の呟きに、彼女は淋しそうに微笑んだ。
「じゃあ、俺は行くぞ」
「ええ、誰かとお喋りできて楽しかった。少し気が紛れたわ」
そうして角倉氏はずんずんと出口に向かって歩いていった。
「ちょ、角倉クン、待ってよ」
紅手毬の君に会釈して、慌てて角倉氏のあとを追いかける。
「角倉クン、いくら失恋確定だからって、薄情だよ。冷たくないかい」
「あの女は、いつまでもあんな所で待っていたって、仕方ないのだ」
「なんだよ。角倉クン、嫉妬か。彼女のことなにも知らないくせに」
「知ってるさ」
「へ」
「去年もあそこにいたからな」
そう言って、角倉氏は振り返りもせずに、ずんずん駅へと進んで行った。
*
翌日も、僕は約束通り、ハルと造幣局に桜を見に来た。紅手毬の君の話を聞いたあとだったので、なんだか桜の花を見ると少し切なくて胸がきゅっとなった。
僕が抜け駆けして桜を先に見たことにハルは不機嫌そうだったので、僕は必死に昨日の事情を説明しながら桜並木を歩いた。
「へえ、あの角倉くんが恋するとはね。紅手毬の君ねえ」
「そうなんだ。ほらちょうどあそこの紅手毬桜の下に……」
と、昨日の場所を指さすと、
「あ」
視線の先に、薄桃色のワンピースを捉えた。
紅手毬桜の木の下に、今日も彼女は立っていた。
紅手毬の君もこちらに気付いたようで、僕は彼女に軽く会釈する。隣でハルが怪訝な顔をしている。
「ほら彼女だよ。さっき話した。今日も紅手毬桜の木の下にいる」
ハルは眉間に軽く皺を寄せたまま、紅手毬桜の方へ視線を送る。
「……ふーん」
「じゃあ行こうか」
彼女のために何もできないくせに、無為に話しかけるのも無粋なような気がして、そのまま立ち去ることにした。僕が再び彼女に会釈すると、ハルも渋々といった感じで軽く頭を下げる。
造幣局を出たところで、話を続ける。
「見たろ? ああして彼女はいつまでも彼氏を待っているんだ」
「ねえ、本気で言ってる?」
ハルが僕の目を覗き込む。
「ああ本当さ。いじらしいだろ」
「ふうん、……桜の木の下には、だね」
「なにそれ」
「昔の小説のタイトルだよ。桜の花は妖しいほどに美しいって話」
「そうだね。桜の木の下に立つ彼女は、まるで桜の精のようだものね」
「ねえ、紅手毬の君が待ってる男の人の名前って、何ていったっけ」
「え、ハル心当たりでもあるの?」
「うーん……、ちょっとね」
僕はハルに男性の名前を教えた。
「ハル、知ってるの?」
「いや、……ちょっと調べてみるから、中央図書館へ寄って行くよ」
「え」
「じゃあね」
そう言って、ハルは地下鉄の方へさっさと歩いて行ってしまった。なんだか昨日から置いてけぼりにされてばっかりだ。僕はハルの後姿をぼんやり見送った。
*
その夜、自宅で、ハルからのメールを着信した。
添付ファイルの画像を開くと、新聞記事が。
目を凝らして小さな新聞記事の文字を追いかけて驚いた。すぐに角倉氏へ連絡した。
*
翌日僕は再び角倉氏と造幣局へやって来た。今年の通り抜け最終日だ。
脇目も振らずに満開の桜並木の下を進んでいく。出口近くの紅手毬桜の木の下に、やはり彼女がいる。僕らは紅手毬の君のもとへ迷わず進む。僕らに気づいた彼女が、いつもの少し哀しそうな笑顔で微笑む。僕はなんと挨拶していいかわからず、つい不躾な発言をしてしまう。
「彼は来ましたか?」
質問してすぐ後悔する。我ながら意地の悪い質問だと思う。彼女がこうしてここにいることがその答えじゃないか。角倉氏が怖い顔で僕を睨む。
彼女は長い睫毛を伏せて首を振る。
「いいえ。……彼は来てくれないんですね。わたしはずっと待っているのに」
僕はぎゅっと下唇を噛み締めた。だって、死んじゃってるんだから仕方ないじゃないか、なんて言えなかった。昨日、ハルからメールで送られてきた新聞記事。そこには、紅手毬の君が待ち焦がれる彼の死亡記事が載っていた。造幣局に近い場所で、桜の通り抜け期間中に起きた交通事故死だった。約束の日だったのかもしれない。そう思うと胸が痛んだ。
彼女に彼の死を伝えなければ。そう思うが、彼女の顔を見ると言葉が出なかった。
満開の紅手毬桜の下で、哀しそうに長い睫毛を伏せる彼女があまりにも儚げに美しくて、思わず僕の口から言葉が零れた。
「桜の木の下には……」
呟いた途端、角倉氏がばっと僕の方を振り返った。と思うやいなや、「でかしたぞ!」と僕の背中を力いっぱい叩いて、紅手毬の君の脇にしゃがみ込む。と、ザックザックと紅手毬桜の木の下の地面を掘り始めた。
「ちょ、ちょっと君! なにをしているんだ! やめなさい!」
青い制服の警備員が青い顔をしてやってきた。角倉氏は振り返りもせずに掘り続ける。
「あったぞ!」
角倉氏が声を上げた。角倉氏が土の中から小さな箱を取り出す。その箱を開けて、角倉氏が紅手毬の君を振り返る。
「手を出せ」
「え」
戸惑いながらも、紅手毬の君は手を差し出す。角倉氏はその白く細い指をとると、箱の中から取り出した輝くものを彼女の指に嵌める。
「これは……」
紅手毬の君が驚いて角倉氏の顔を見る。
「この指輪は、あんたが待ち焦がれた男からだ。男もずっとここであんたを待っていたのだ」
紅手毬の君の大きな目から、涙が零れた。僕は思わず目を逸らせた。そして、振り返ると彼女の姿はもう無かった。
「帰るぞ」
花靄の中を角倉氏はずんずんと進んで行く。追いかけていろいろ質問してみたものの、角倉氏は何も答えてくれなかった。
*
その夜、ハルと喫茶・三日月館で待ち合わせした。事の経緯を説明するためだ。といっても、僕にはなにがなにやらなんだけど。
僕が今日の経緯を一通り説明すると、ハルは「ふーん」と言っただけで、ブラックを口にした。僕も甘いカフェラテを飲みながら考えた。
彼は約束の日に指輪を持って彼女を待っていたのだろう。そして、彼女は現れなかった。彼は約束の木の下に彼女への思いを埋めたのか……。考えたところで、本当の答えはわからない。けれど、彼の思いを受け取って、彼女の心は少しは晴れただろうか。
「それにしても、彼女いつの間に帰っちゃったんだろう」
僕が呟くと、ハルが眉根を寄せる。
「ちゃんとメールみた?」
「見たよ」
「新聞の日付は?」
うーん? 僕は携帯端末の画面を開く。新聞記事を拡大する。目を凝らして記事の日付を見る。――昭和四十八年四月……。四十年前? そんな。じゃあ、彼女は――? 僕が事態を把握したのを確認して、ハルが口を開く。
「昨日、紅手毬桜の木の下には誰もいなかったよ」
「え」
「私には、見えなかった」
「そんな」
「第一、きみの考えていたように、去年が彼女たちの約束の年だとしたら、角倉氏が去年も彼女を見たっていうのはおかしいでしょ。彼女は行けなかったんだから」
「そ、そうか……」
「彼女は四十年間もずっと待っていたんだね。そして彼も」
「でもなんで角倉クンは突然木の下を掘り始めたんだろう」
「きみがヒントを出したからじゃないの」
「僕が?」
「そ。桜の木の下には、だよ」
「それが?」
「桜の木の下には死体が埋まっている!」
「ええっ!」
「梶井基次郎『桜の樹の下には』の冒頭の一文だよ。それで角倉くんは閃いたのかもね。桜の木の下に、死んだ人の想いが埋まっている、って」
「そうなのかな」
「ま、相変わらずの超直感というか、むちゃくちゃだけどね」
「うん。……角倉クンは知ってたのかな。彼女が、生きてないって」
「たぶんね。君が彼女に気づいたとき驚いていたんでしょ」
「うん……」
僕はふと考える。角倉氏は来年もまた造幣局に行くのかもしれない。もうそこに彼女がいないことを確かめるために。
小さく開いた窓の隙間から青葉が薫る。
桜の季節が終わる。
思わず呟く。
「僕なら絶対にハルを待ちぼうけさせたりしないよ」
「そう、ありがと。まあ現代は携帯電話があるからね」
ハルが携帯電話をひらひらさせる。ええと、そういう意味じゃあないんだけどな。携帯電話をテーブルに置いたハルが、角砂糖を入れたコーヒーをしゃかりきに混ぜている。でも、もう冷めているから全然溶けてないんだけど。僕はにやけそうになるのを必死で堪える。
窓の外では芽吹いたばかりの若葉が僕たちを待っている。
桜の木の下には 香久山 ゆみ @kaguyamayumi
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