邪知と毒

 ちょうどアイラが十四になった時、彼女は自分の使い魔と血の契約を結ぶことになった。これは使い魔と交わす契約の中では一番強力なもので、並の魔女では到底扱うことはできない。私が知る限り血の契約を結んでいる魔女は、私自身と先生だけだった。それはつまり、アイラはわずか十四歳にして私や先生と肩を並べるほどの魔女になったということだった。

「おめでとう、アイラ。私も姉として鼻が高いわ」

「ありがとう、リエル。ここまで来れたのも先生とリエルのお陰」

「せっかくだしお祝いしましょう。後で私の部屋にいらっしゃい」

「うん、わかった」

 私の袖の中でナターシャがさも愉快そうに小さく嗤った。


 アイラは戸惑いつつも強い抵抗は示さなかった。甘い言葉をかけて頭をなでてやると完全にされるがままになった。この子を獣から人間にしてやったのは私なのだ。これくらいの役得はあってしかるべきだろう。シンシアよりもさらに若く無垢なその少女の体に私は夢中になった。

「リエル、私のこと、好き?」

「ええ、もちろんよ」

 その言葉は決して嘘ではなかった。だが信じ難いほどの速さで日々成長を続ける彼女を見て、今まで感じたことのない胸のざわつきを覚えたのも確かだった。このままいくと本当にアイラは私を超える魔女になってしまうかもしれない。そうなった時、私は果たして彼女の姉で居続けることができるのだろうか。もし彼女が私の本性に気づいたら、私は今の立場を失うことになりはしないか。漠然とした不安は泥のように私の心を滲ませていく。

 それでもアイラの天性の才能は留まるところを知らなかった。彼女は先生の集めた膨大な文献を読み漁り、独自の占いやまじないを開発するまでにいたった。彼女の才能はすべての弟子の認めるところとなり、アイラこそが次の影の魔女なのではないかと言う者さえ現れ始めた。私はそういった話を耳にするたびアイラを誘い、不安をごまかすように欲望に溺れた。そんな私とは対照的に、アイラは一人の女としても強く美しく育っていった。


 そんな中、私たちの元へある知らせが届いた。先生の弟子の一人ですでにここを巣立ったとある魔女が、人間たちの手によって殺されたというのだ。今までもずっと人間と魔女は対立してきたが、今回はどうも特別な事情があるらしかった。なんでも人間たちは魔女の絶滅を掲げ、「魔女狩り」と呼ばれる暗殺集団を組織したという話だ。当然魔女たちの中では怒りや恐怖が渦巻き、影の魔女による事態の解決を望んだ。

 先生の判断は早かった。弟子たちを集め、その前で先生ははっきりと言った。

「これ以上人間の横暴を看過するわけにはいかない。向こうが私たちを滅ぼす気なら、私たちは力を持ってこれに対抗する」

 それは人間に対する宣戦布告とほとんど同義だった。先生は魔女たちの訓練とその指揮を私に一任した。

「リエル、あんたはアイラとは違って私に似ている。しっかりおやり」

 私だけに伝えられたその言葉は、忘れかけていた情熱を蘇らせるには充分だった。


 だがたった一人だけ先生に異を唱える者がいた。アイラはその紅の瞳を潤ませて私に懇願した。

「お願いリエル、先生にこんなのは間違っているってそう言って。リエルならわかってくれるでしょ」

 アイラだって自分を捨てた人間に対する憎しみは持っているはずだ。だがそれ以上に彼女は自分の力を恐れているのだ。自分が力を振るえばあの時のように周りのものを意図せず傷つけてしまうと思っている。それは彼女の優しさであり、同時に自惚れでもあった。

「大丈夫よアイラ。全部私に任せて」

 この機を逃すほど私は愚かではなかった。


 シンシアは少し見ない間に随分大人びて、自分のまで手に入れていた。だがその中身はあの時からたいして変わってはいない。まだ私に未練があるからこそ、新たな姉ではなく妹を欲したのだ。私の女としての嗅覚に狂いはなかった。

「今になってやっとわかったの。あの子はやっぱり普通じゃない。このままだといずれ私たちにとって大きな害をなす存在になる。そうなる前に、あなたの力を貸してほしい。お願い、シンシア。こんなこと、あなたにしか頼めないの」

 シンシアは二つ返事で私の提案を了承した。

 その後は簡単だった。シンシアに「アイラは先生に逆らって人間の肩を持っている」と吹聴させ、再び諍いを起こした二人を仲裁し、アイラを離反の意思ありとしてその身柄を拘束した。アイラのことを天才だの神童だのともてはやしていた連中も、手のひらを返したように彼女に対する疑念や不信を口にした。もはや私が次の影の魔女となることを疑う者はいなかった。

 私の報告を聞いても先生はさして驚いた様子は見せなかった。

「やはりそうなったか……。まあ、仕方のないことだね」

 直接言及はしなかったが、先生はすべてを見透かし、そして黙認したのだった。私はついに猛禽の雛を鉄の鳥籠に捕らえることに成功した。


「リエル……どうして、こんなことに……」

「……ごめんなさい。私は今でもあなたを信じているわ。でも離反の疑いが晴れるまであなたを自由にするわけにはいかないの。わかってちょうだい」

 結界の中に囚われたアイラは実に弱々しく、初めて年相応の少女に見えた。この子はずっと私の妹であるべきなのだ。影の魔女なんかにさせるわけにはいかない。

 不安の種を取り除き、シンシアも取り戻し、将来の地位も確約された。アイラには悪いことをしたが、手に入れたものに比べれば些細なことだ。裸で眠るシンシアの傍らで、今日もナターシャはその長い舌を覗かせて私を嗤う。

「欲しいものはどんな手段を使ってでも全部手に入れる。欲深くてずる賢いあなたらしいわ」

「それを見物して悦に浸ってるあなたに言われたくないわね」

「ふふ、悪者同士これからも仲良くしましょう?」

 蛇は優秀な使い魔だが皆偏屈でひねくれ者だ。そのせいか蛇を従えている魔女はあまり多くない。だがどういうわけかこの性根の腐った毒蛇は、誰よりも私と気が合うのだった。


 その日はやけに烏が騒がしかった。弟子が皆寝静まった深夜、アイラの牢に仕掛けておいた逃走防止用の呪詛が破壊されたのを感じ取った。あれを破壊できる魔女はここには数えるほどしかいない。状況的に見て、アイラが自力で牢を抜け出したのは明らかだった。私の耳元でナターシャは静かに問いかける。

「どうするの? いっそのこと殺してしまう?」

「……あの子は私の妹よ。すぐに捕らえる」

 ナターシャの鋭敏な嗅覚は暗闇の中でも正確に私をアイラの元へと導いた。明かり一つない中庭の中央で紅の双眸がまっすぐ私を捉える。それは決して臆病な逃走者の目ではなかった。

「アイラ、いったいどこへ行こうというの? こんなことしなくても、私がすぐにあんな場所から出してあげるわ」

「リエル、私もう耐えられないの。結界の中に閉じ込められるのも、人間と戦争をするのも嫌。……もう先生の元にはいられない」

 アイラは私に仕立て上げられたのではなく、本当に離反の意思を持っていた。魔女にとって師は絶対だ。許可なくここから離れれば、一生追われる身となるだろう。しかし嘘を吐きすぎた今の私には、彼女を繋ぎとめるだけの言葉は紡げなかった。

 沈黙の中でアイラが静かに右腕を上げる。すると暗闇の中から数羽の烏が私に襲い掛かった。私が身をかわすと同時に、袖の中から飛び出したナターシャが烏に食らいつく。ナターシャの毒は数秒で人を死に至らしめるほどの猛毒だ。わずかに身もだえして絶命した烏を放り捨て、ナターシャはアイラへと狙いを定める。私の合図さえあれば、ナターシャは何のためらいもなくアイラへ襲い掛かるだろう。

「これが最後の警告。今すぐ牢に戻りなさい」

「……リエル、昔のあなたはもっと優しかったよ」

 それは私に対する否定と決別の言葉に他ならなかった。どこからともなく飛来した一羽の烏がアイラの腕にとまりその肌を爪で引っ掻く。アイラが何をしようとしているのか、すぐに想像がついた。

「屍を喰らう獣よ、血の契約に従いその真の姿を示せ!」

 これは使い魔の真の力を解放する血の儀式だ。アイラが叫ぶのと同時に烏の体がみるみる大きくなり、身の丈を超えるほどの漆黒の怪物となり果てた。狼の四肢と烏の翼を持った歪な魔物は、私に向けて肌を刺すような鋭い殺気を放つ。それはアイラが私を本気で敵とみなしたということでもある。こうなったらこちらも本気を出さざるを得ない。私のすべてを満たしてくれるこの楽園を守るために、私は彼女の姉であることをやめた。袖に仕込んだナイフを取り出し、自分の手のひらに押し当てる。微かな痛みと共に白銀の刃が血に染まる。鎌首をもたげたナターシャがまるで嘲笑うかのように舌を伸ばした。

「邪知を授けし獣よ、血の契約に従いその真の姿を示せ!」

 ナターシャの体は一瞬で牛すら丸のみにできるほどの大蛇へと変貌を遂げる。もはやその姿は蛇というよりは東洋の神話に登場する龍に近い。睨み合う二匹の怪物は溢れる殺気と魔力をぶつけ合う。

「……殺せ!」

 私の声と共にナターシャはその毒牙を烏の怪物に向かって突き立てようとする。しかし怪物はその巨体からは想像もできないほどの身軽さで素早く宙に舞い上がる。上空から鋭い爪で襲い掛かる怪物を、ナターシャはその丸太ほどの太さの尾を鞭のようにしならせて迎え撃つ。二匹の獣はただ自らの主のために死闘を続ける。使い魔の力は主である魔女の力に比例する。あらゆる意味において私はここで敗れるわけにはいかないのだ。しかし覚悟を決めた私に向かって、どこか寂しそうな声音でアイラは淡々と語りかける。

「リエル、私は誰も傷つけたくない」

「だから何? 勝つのは自分だから早く降参してくれ、とでも言いたいの?」

「あなたが本当は善人じゃないこと、私は気づいてたよ」

「だとしたらとんだ間抜けね。あなたと過ごした夜は最高だったわ」

「リエルは私にとって初めての繋がりだった」

「哀れな子。孤独を紛らわすにはそうするしかなかったのね」

「リエル……今までありがとう」

「黙れ! あんたはずっとここに縛られていればいいの! どこにも行かせない!」

 私は魔力を集中させアイラに向けて術を放つ。灼熱の火球が闇を切り裂き庭の草木を焼き焦がす。しかしアイラはそれを正面から受け止め、軽く腕を振るだけで弾き飛ばした。その隙に私は距離を詰め、袖に隠していた毒針を突き出す。この針にはナターシャの毒を希釈したものが塗ってある。わずかに掠っただけでも肉体に深刻なダメージを与え、相手を昏倒させることができる。アイラはそれを避けようとはしなかった。針がアイラの肌を貫く寸前、凄まじい強風が吹き荒れ私の体を押し戻す。風はどんどん勢いを増し、争い続ける使い魔たちをも飲み込んでいく。まさか使い魔を使役しながら、これほどの魔法を操っているというのか。それは到底人のなせる業とは思えなかった。

「ジャック!」

 アイラの呼びかけと同時に上空を舞う漆黒の怪物が急降下する。猛毒に染まった必殺の牙をかいくぐって、その鋭い嘴はナターシャの右目を深々と抉った。空気の抜けるような鋭い鳴き声を上げたナターシャはのたうち回りながら元の姿へと戻っていく。それはまさに私の敗北を意味していた。私の眼前に降り立ったアイラの使い魔はその黒い翼を大きく広げる。

「アイラ、こいつ食っていいか?」

「だめよジャック。……リエルは私の姉さんだもの」

 アイラは決して私を切り捨てたわけではなかった。その優しさとわずかに残った絆だけが私の命を繋ぎとめている。その事実に気づいてしまったら、もはや抗う気力も湧いてこなかった。

 初めて見た時から、心のどこかでは気づいていた。あの先生がただの一目でその才能を認めるなんてただ事ではない。この子はやがて大空へと飛び立っていく存在、志もなく地を這うだけの私では到底敵わないと。だから骨の髄まで私の毒で侵して自分のものにしようとした。しかしそれでもこの子の翼をもぐことはできなかった。紅い瞳の猛禽は今まさに飛び立とうとしている。

「……早く行きなさいよ。それともまだそこで私を嘲笑っていたいの?」

「本音のリエルってそんな感じなんだね」

「うるさい」

「私、一人で生きていくよ。私が力を持つほどに、きっと他の誰かの人生を歪ませてしまう。私はこの力を誰かを傷つけるためじゃなく、助けるために使いたい」

「魔女なんかにそんなことができるとでも? 本当におめでたい子ね」

「……本当は私は自分の宿命から逃げているだけなのかもしれない。だけどもうここにはいられないの。私は行くよ」

「好きにすればいいじゃない。……どうなっても知らないから」

「うん……私も覚悟はできてる。こんなこと言うのは変かもしれないけど、先生のことよろしくね」

 そう言ってアイラは怪物の背に飛び乗り、暗い夜空へと飛び去っていく。まったくとんでもない妹を持ってしまったものだ。誰より気高く優しい孤高の魔女、その行く先に何が待ち受けるのかは誰にもわからない。遠ざかっていくその背中を見送りながら、私はただ彼女の幸福を祈った。

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魔女の楽園、猫を殺す雛 鍵崎佐吉 @gizagiza

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