宿怨の彼方に(後)
最後の目的地、首都カトマンズへ向かうスラジの右手には小さな左手が握られていた。
デニス・ギミレの孫娘。他でもないスラジが全てを奪った少女の手だ。
理由はスラジ自身にも分からなかった。殺すことも、置き去りにすることもできず、スラジは少女を連れ出した。この先に待っているのは最後の復讐で、スラジにはもう時間は残されていない。本当ならばあのまま置き去りにして、警察に任せるなりしてしまうほうが少女のためを思えばよかったに違いない。だからスラジは身勝手に、少女を攫ったにすぎない。
隣りで鼻歌を歌う少女を見やる。やはり祖父たちの死について、分かっていないのだろう。少女は涙を見せるどころか、両親のことについて訊いてくる素振りすら見せなかった。
「
「んー、なぁに?」
「いいや、何でもないよ。バスに乗ろう」
「バスのるー!」
悪路を走るバスに揺られながら、スラジは手紙を取り出す。向かうのはカトマンズの郊外。手紙によれば、どうやらネパール王国時代に軍事施設だった場所らしく、王制が廃止された今は放棄されて廃墟となっているようだった。
最後の標的の名前は〝シヴァ〟とだけ書かれている。他三人と違って写真がないのは、その場にいけばそれが標的だと分かるということなのだろうか。
シヴァと言われて思い浮かぶのは再生と破壊を司るヒンズー教の最高神の名前だが、男性の名前として用いられることもある。その場合、もちろん高貴な名前なので
現時点で考えられるのはそれくらいで、つまりそれは何も分からないことと同じだった。
行けるところまでバスで向かい、近くのコンビニでお菓子を買って、あとはひたすらに西を目指して歩き続けた。途中で日が暮れて、お菓子を食べて眠りに就いた。死にかけの老人と少女の歩みは遅々としていたが、それでも着実に目的地へと近づいていた。
その日の夕方に、スラジたちは目的の軍事施設に到着した。錆びて破れたフェンスの隙間からなかへ入り、入口らしい場所を探す。施設の敷地は広大で、何棟もの建物が昨日食べた板のチョコレートみたいに、規則正しく並んでいた。
スラジは放棄されたらしい軍用車の荷台に少女を座らせる。少女はきょとんとした顔で首を傾げる。
スラジがこれからしようとしているのは復讐だ。そんなところに少女を連れていくわけにはいかなかった。
「ここで待っていてくれ。必ず戻るから」
言いながら自分でも驚いた。どうせ短い命なのだ。復讐さえできればどうでもいいと思っていたはずだった。だがそんな自分が、またここに戻ってくることを、復讐を遂げたあとの未来を望んでいる。愚かなことだと分かっている。身勝手な望みだと知っている。妻も娘も失って、廃人同然に時間だけを貪った。病魔に犯されて、両手を多くの血に染めた。真っ当とは程遠い。無垢な少女とともに生きるには汚れすぎている。だがそれでも、ふと湧いたそれはスラジにとってのささやかな希望に他ならなかった。
「
少女はスラジにウサギの人形を差し出した。
「ひとりぼっち、こわいこわい。だからこえ
「それでは、君が一人になってしまうよ」
少女の気づかいに胸を打たれながら、スラジは首を横に振る。しかし少女はウサギの人形をスラジに押し付け、得意げな顔で鼻の穴を膨らめた。
「あたしはもうおねえちゃんだからへいきなの」
スラジはうまく笑うことができなかった。もう一つ、命を奪っていたと気付かされたからだ。身勝手な自分の願いは、村が地図から消えたように、跡形もなく消え去っていった。
未来など望んではいけなかった。温もりなど感じてはいけなかった。スラジがやってきたことは、それほどに深い業を背負うべきものだった。
スラジは少女にチョコレートの最後のひとかけらを渡し、代わりにウサギの人形を受け取った。そして杖代わりの猟銃で身体を支えながら、最後の復讐へ――宿怨の果てへと向かっていく。
地上に建っていた何棟もの建物は、どうやらこの軍事施設のほんの一部だったらしく、その地下にはさらに広大な建造物が広がっていた。だが広大とはいえスラジが進路に迷うことはなかった。どういう原理なのか、スラジが区画に到着すると廃墟のはずの施設内に照明が灯り、歩く道筋を示してくれた。スラジはそれこそ
スラジはこれまでとは全く違う状況に不安を感じながらも、それ以上に驚いていた。ところどころ崩落が起きてはいるものの、灰色を基調とした鋼鉄の地下空間なるものはスラジの想像の埒外で、異世界に迷い込んでしまったような不思議な気分になった。
スラジはやがて、一枚の鉄扉の前に辿り着く。大きな物音がしてスラジは身構えるが、どうやら解錠の音だったらしく、鉄扉はゆっくりと左右に開いた。
ここに
そこは軍事施設というよりも祭壇と呼ぶのが相応しい場所だった。
空間の中央に円形の台座があり、その中心からは中ほどで折れた柱が屹立している。地面のいたるところには瓦礫が転がっていて、一部崩れている天井からは太陽の光が細く差し込んでいた。
『スラジ・ラバンタリ。ようこそお越しくださいました』
唐突な歓待の言葉を受けて、スラジは猟銃を構えた。しかし部屋のどこにも、人の姿は見えなかった。
『こちらです。礼を失したかたちで申し訳ございません』
スラジは声の方向を辿り、猟銃の銃口を向ける。黒い銃口が向かう先――大きな瓦礫に圧し潰されるように、青いライトが二つ、人間の目がまばたきをするように明滅していた。
「機械が、喋っている……」
『改めまして、スラジ・ラバンタリ。私はシヴァ。見ての通り人工知能です』
あまりに唐突な状況に、スラジは二の句が継げなかった。スラジにとって機械と言えば小麦畑を耕すトラクターくらいのもので、それはもちろん喋ったりしない。最後の復讐相手が喋る機械? 自分の置かれた状況がまるで理解できなかった。
『驚かせてしまいましたね。私はシヴァ。軍事運用された人工知能であり、貴女の手紙に記された四番目の復讐相手です』
「意味が、分からない」
『困惑も想定内です。説明します』
機械――シヴァは決然とした調子で言い放つ。
『私は作戦立案を補助する人工知能として、二〇〇一年九月二一日の和平交渉決裂を受けて中華人民共和国より王室ネパール軍に派遣されました。同一一月二四日のマオイストの人民解放軍組織に対し、その二日後、私は政府に対し、国会非常事態宣言の発令と掃討作戦を提案しました。つまり、貴方の村が襲われるきっかけを作り出したのは、他でもないこの私なのです。
この通り、私はマオイストの掃討を提案しました。それが内戦を終結させる最良かつ合理的な選択であったためです。しかしこの掃討作戦は、人の手によって暴走した。一般市民が巻き込まれたのはその最たる例でした』
「つまり、あんたのせいで妻や娘が死んだのか」
『そう解釈していただいて構いません』
スラジはただただ呆気に取られていた。シヴァはなおも話を続ける。
『内戦は凄惨を極めました。ギャネンドラ国王も強硬姿勢を崩さず、私はもはやこの内戦をコントロールする術を失っていました。そして二〇〇六年八月二七日、カトマンズにて王室ネパール軍幹部が襲撃されたのと同日、この施設もマオイストによる攻撃に遭いました。軍は爆撃によって人民解放軍を退けるも、破壊された当施設の放棄を決定。私は崩落の衝撃でつい先日まで機能を一時停止していたはずでした。
しかし先日の長雨による落雷で機能が復旧し、スラジ・ラバンタリ、貴方への手紙を出した次第です』
最後の一言に、スラジは衝撃を受ける。ポケットから取り出した手紙と、瓦礫の下敷きになっている機械を交互に見やった。
「あんたが出したのか」
『そう申し上げました』
「どうして、儂だったんだ」
『掃討作戦に際し、私は経験学習蓄積のための端末を王室ネパール軍の各部隊に装備していました。崩落の衝撃、長い機能停止、落雷の衝撃によって大部分のデータは破損していましたが、無事だったデータのなかに興味深い映像を発見しました。
それが貴方です。スラジ・ラバンタリ。
当時の貴方の憎悪、とてつもなく強い感情は人を理解できず、内戦を暴走させるきっかけを生んでしまった私を裁くのに十分なものであると判断しました。そして同時に、その強烈な感情の果てに、貴方が一体何を見るのか興味が湧きました。もっとも貴方が存命である可能性は高くはありませんでしたが、貴方は今、決して短くはなかった旅路を経て、ここに立っています』
そこでスラジは血を吐いた。膝を折り、倒れそうになる身体を猟銃で支えた。限界が近かった。視界は霞み、二つの青い光点は何重にも重なっているように見えた。
『さあ、スラジ・ラバンタリ。貴方が望んだ復讐を、今ここで遂げるのです』
声だけが頭のなかで反響していた。スラジはもう一度血を吐き、そして力を振り絞って手に持っていた猟銃を放り投げた。瓦礫の上を猟銃が転がっていく乾いた音がして、シヴァは初めて驚いたような――感情を感じられるような声を上げた。
『どうしたのです、スラジ・ラバンタリ』
「何も、なかったよ」
スラジは血で満たされそうな肺を絞り出し、か細く震えた声にする。
「復讐の先なんて、なかった。マオイストも、軍も、儂も、今のこの国には必要のないスクラップだったんだよ。だからもう、復讐は止めだ。それに、機械なんて壊しても、儂の気分は晴れやしないさ……。この憎しみは、地獄にまで持ってくとするよ」
スラジは地面を這い、手ごろな大きさの瓦礫に寄りかかる。復讐を止めると、一度口にしてしまえば、気力で押し留めていた病魔は一瞬にしてスラジの残る命を食い潰していく。
「なあ、機械。世界ってのは、綺麗なもんだな。儂はな、村から出たことがなかったんだ。だから知らなかったんだよ」
血と一緒に言葉を吐き出す。もう目はほとんど見えず、ぼんやりと暈けて一つに重なった青い光が、視界の隅で揺れていた。
世界は思いのほか美しい。村を出たおかげでスラジはそのことを知った。もちろん気づくのが遅すぎた後悔はある。これが単なる旅ではなく、復讐の道程だったことも虚しい。だがシヴァの手紙に導かれ。スラジは村を出た。そしてこの国の色々な風景を知った。それだけで、たった一人生き永らえた意味があるように思えた。
ただ一つ、未練があるとすれば、猟銃を捨てても握り続けたウサギの人形を返せないことだった。
「なあ、機械。お前、何でもできるのか」
スラジはシヴァに訊いた。シヴァからは何でもの定義がどうのと、意味の分からない答えが返ってくる。
「上で、小さい娘がこのウサギの帰りを待ってる。だから、儂の代わりに、これをあの子に返してやってはくれないか……。お前に呼ばれてここまで来たんだ。少しは、目上の人間を、敬ったってバチは当たら――――」
スラジは青い光に向けてウサギの人形を放り投げる。届いたかは分からない。騙し同然で人を呼びつけたのだから、あとはなんとかしろと無責任にそう思った。スラジは目を閉じる。灯っていた命の炎が萎んでいくのがはっきりと分かった。スラジは罪を犯した。だから死んでも、ニーラムやサンジャイに会うことはできないだろう。だがこれでいい。何も変わらない。ずっと独りだったのだ。それがもう少し長く、ずっと、永遠に、続くだけなのだから。
†
スラジ・ラバンタリは死んだ。
それはあまりに不可解な最期だった。復讐を望んでいたはずなのに、その達成寸前で目的を投げ出し、息を引き取った。
だが私にとって、不可解であることは同時に興味深いことでもあった。彼が一体この旅路のなかで何を見たのか、知りたくなった。
そのためにまず、復讐を放棄したスラジ・ラバンタリが死を覚悟してなお、後ろ髪惹かれていたことを果たそうと思う。
約束ではない。復讐は完遂されなかったが、ここまで辿り着いたことへのささやかな報酬だ。
私は目の前に転がっているウサギと思わしき物体を
私は機能の九割を失ったマニピュレータを作動させ、瓦礫によって潰れた外装を完全に引き剥がす。取り出した基幹部をウサギへと
仕方ないので辛うじて動く前脚を利用して地面を転がる。奇跡的に地上へ出ることができたときには、夜も更け、間もなく朝になろうかという時間だった。
地面を転がる。スラジ・ラバンタリが指定していたと思わしき
「ウサギさん?
少女が荷台から降り、私を拾い上げる。少女の小さな手が、毛皮に絡んだ砂や埃を優しく叩き落としていく。
「ブバ、遠く、いイイ、い、行った」
私は音声プログラムを作動させる。こちらも動作環境は最悪で、そもそも登録されている語彙があまりに少ない。
「そっかぁ。まみーとだでーとばぶといっしょ?」
意味が分からず肯定も否定もしなかった。だが少女は勝手に納得したように頷いた。
少女は私の腕を握って、とぼとぼと歩き出す。東の空は薄っすらと明るくなっていて、山々の稜線に沿って黄金色の光が穏やかに瞬いていた。
スラジ・ラバンタリが見たものが何だったのか、私にはまだ分からない。ただ悲劇の人生の終わりに見たものが、少女に握られた腕に伝わる、本来ならば感じるはずのないこの温度に似たものであったならと、そう思った。
宿怨の彼方に やらずの @amaneasohgi
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