字を教えてほしいんだよ〜おじいちゃんのベッド

銀色小鳩

字を教えてほしいんだよ〜おじいちゃんのベッド

 これは私が大学を卒業して、しばらくした頃の話である。

 弟に「おねえちゃんは病んでる」と言われた年だった。

 大学を卒業し、実家のコンビニを手伝わされていた私は、その年、たくさんの危機を迎えた。

 一つは精神的におかしくなったことだ。いやマジで。あまり話すと本当に人がいなくなりそうなので細かくは話さないが、自分の腕を包丁で切り落とそうとするもう一人の自分を止めるために、「よし切るぜ!」と、その化け物みたいな自分に同化してみるしかない……という、そういう境地に行った年である。うん。たぶん、弟の言うとおり、病んでいた。

 ちなみに腕は無事だ。化け物側の自分になって切り落とそうとしたおかげで、コントロールを取り戻すことができた。結果、切らないで済んだ。よかったね。

 その年、弟は交通事故に遭いながら傷も負わずに助かり、実家のコンビニはいったん閉店して新しいコンビニとして再開し、私は家業を手伝わなくなり(コントロールできない自分ばけものが本気で怖いんで、一切やめた)、母は一時的に入院した。

 占いでいう「大殺界」の年だったが、そのあと、だいぶ生きるのが楽になったので、「運気の断捨離」の年だったのではないかと思っている。


 そんな、おそらく母が入院中だった朝のこと。私と弟は朝のゴミ出しのために家を出た。

 うちはビルの四階の端にあって、エレベーターがない。二階から一階への階段が一番長い。その階段を降りる直前に、転んで腰を打った。

 私は迷走神経反射が起きやすい体質のため、痛みでしょっちゅう失神する。その時も、腰を打った痛みでそのまま失神し、階段を下まで転がり落ちたらしい。気が付くと、先にゴミを出して戻ってきた弟が、私の頬を強く打ち、起こそうとしていた。

 階段は、一言でいうと、落ちるには「最悪」の場所である。全身のいろいろな場所をいちいち階段の角に打ち付けながら落ちるので、ダメージが大きくて広範囲だ。どこをどのくらい打ったのか全くわからないほど全身が痛い。今まで生きていて一番痛かった。「痛い、気持ちわるい、これが続くなら生きてるの無理」とまで感じた。

 アタマを打ったためにタンコブができて、朦朧とする意識の中、弟におぶわれ、四階の家について、緑色の液を吐く。そのまま救急車で運ばれて、いくつか検査をされ、とりあえずは問題ないが要注意ということで家に戻ってきた。

 階段から落ちてから眩暈がずっと続いており(半年以上眩暈が残った)、私は数日、祖母の家に預けられた。

 祖父母と一緒なら、脳内出血で倒れたりなど、なにかあっても気づいてもらえるから……ということで、泊まることになったのだ。


 さて、ここでやっと出てくるのが、「おじいちゃんのベッド」だ。導入が長いね。

 祖母宅では、祖父のベッドに寝かせてもらっていた。リビングにドンと置いてある大きなベッドだ。

 ある夜、夢なのか現実なのかわからない中、天井に顔が浮かび上がり、男性の声が聞こえた。

「字を教えてもらいたいんだよ……」

「字を教えてもらいたい……」

 字? 字を教える? 文字が読めないとか、そういう人か?

 うつらうつらする中で、私はいつのまにか眠ってしまい――、もしかすると最初から寝ていたのかもしれないが……朝になって、気づいた。

 ここが、祖父のベッドであると。

 祖父は私が小学校に入るころには書道の先生をしていて、ずっと「書道」つまり「字」を教えてきた人間だったのである。

 なんだ、字を教えてくれって、私に言ったんじゃなくて、おじいちゃんに来たんじゃん。

 そう思い、祖父にそれを話した。

「ゆうべ、あのベッドに寝てたら、字を教えてくれっていうオバケが出たけど。おじいちゃんに来たんじゃないかな?」

「ワタシは毎朝仏壇も拝んでいて道徳的に生きているから、……ワタシにはオバケは来ない!!」

 祖父はものすごい勢いで否定した。道徳的に生きていても、オバケは来るんじゃないか? と思ったが、悪くてなんとなく言い返せなかった。

「そ、そう……」

 と言っただけで終わってしまった。


 あのオバケは、本当のオバケだったんだろうか。ただの夢だったんだろうか。病んだ精神が見せた妄想? それとも、アタマを打ったせいで目眩と一緒に見た幻影なのか。

 今思うと、あのオバケはかわいそうなオバケだ。「たのもーう! たのもーう!」と何度も書道教室のドアをたたいたのかもしれない。そのたびに気付かれず、何度もチャレンジしたのかもしれない。せっかく孫に化けて出たのに、孫の言葉も「ワタシにオバケが来るはずない!」と完全否定されてしまった。

 まぁ……そんな祖父も、数年前に他界したわけだが……老人ホームで最後まで書道を楽しんでいた。いまになって、あの世であのオバケに字を教えてあげているかもしれない。

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