第4話

 清範は仕事があるらしく、朝早く宿を発った。

「何の仕事だよ?」

 俺は歯を磨いている清範に尋ねたが、彼は何も答えなかった。

 全く水臭い!

 俺、藤原、渡辺の3人は甲州市塩山上於曽に向かった。五月晴れ、暑いくらいだ。宿を出たのは正午近かった。別所温泉駅までは歩いて32分かかった。駅の近くに個人経営のスーパーがあって、弁当を買って駅のベンチでお昼にした。渡辺は昼間からビールを飲んでる。空き缶を灰皿代わりにタバコを吸ってる。


 上田電鉄別所線を14駅乗車し、上田駅に到着。上田駅からしなの鉄道に5駅乗車し小諸駅に到着。小諸駅から30駅乗車し、小淵沢駅に到着。小淵沢から中央線に乗り込み、14駅乗車し塩山駅に到着。

 藤原はG-SHOCKを見た。夜の8時近かった。


 駅のベンチで休憩した。俺はケータイをチェックした。恵子からかかってきてたようだ。留守番サービスにかけた。

『何で電話に出ないの〜今日は大変だった。八角って障害者が騒ぎ起こしたり、そいつの家に無言電話がかかってきたり。何かあったらマズいから、私のアパートで待機してる。早く帰ってきてよね』

 可愛い奴だな。犯人はもしかしたら八角じゃなくて、八角のガキの命を狙ってたのかも知れないな。

 俺は恵子に電話して警察に護ってもらうように忠告した。

 駅は塩山の中心部であり、南口・北口とも駅前にロータリーが整備されている。賑やかなのは南口側で、バスやタクシーも多い。また、大菩薩嶺や大弛峠、西沢渓谷などの登山の玄関口にもなっている。

 市域には山間部を中心に縄文時代の考古遺跡が分布しており、縄文前期末の獅子之前遺跡をはじめ、縄文中期の集落遺跡では下粟生野の安道寺遺跡や中萩原の重郎原遺跡、上萩原の殿林遺跡などがあり、殿林遺跡から出土した深鉢形土器は美術的にも優れた逸品として重要文化財にも指定されている。


 弥生時代・古墳時代には集落の分布は山間部から扇状地域へと移行し、弥生末から古墳時代初期の西田遺跡には集落跡のほか方形周溝墓群も検出されている。甲府盆地における古墳の築造は古墳前期に盆地南部の曽根丘陵地域において展開され、古墳後期には盆地各地へ古墳の築造が拡散しているが、東郡地域は弥生時代以来の方形周溝墓の築造が引き続いた地域で、市域にも明確な古墳は見られない。


 古代の律令制下では山梨郡に属し、市域の大半は山梨東郡に比定されている。平安時代の集落跡は山間部や重川右岸の扇状地域を中心に分布し、大木戸遺跡などが知られる。東郡地域は古代甲斐国において在庁官人として勢力を持った古代豪族三枝氏の勢力基盤で、市域の神社などにも三枝氏に関係する伝承が残されている。


 平安時代後期には甲府盆地各地で荘園が立荘されるが。市域では牧荘が藤木・小屋敷から旧牧丘町域に及ぶ地域に立荘され、平安後期には甲斐源氏の一族・安田義定が牧荘を本拠とし、藤木に放光寺を建立している。義定ら甲斐源氏の一族は治承・寿永の乱において活躍するが、源頼朝の粛清により安田氏は没落する。その後、古代豪族・三枝氏の系譜を引く於曾氏が勢力を持つ。


 市域には古寺が多く、鎌倉時代後期の元徳2年(1330年)には牧荘主・二階堂貞藤が鎌倉から夢窓疎石を招いて恵林寺を建立した。恵林寺は多くの禅僧が入山し、甲斐国における臨済禅の中心地となった。また、康暦2年(1380年)に武田氏の寺領寄進で抜隊得勝ばっすいとくしょうが建立した向獄寺もあり、古刹が集中している。


 北部には武田晴信によって開発された黒川金山があり、武田家滅亡まで財政を支えるとともに江戸幕府成立までの徳川家の財政も支えた。(現在は廃坑)

 


 近世には山梨郡栗原筋に属する。25か村前後の諸村があり、江戸初期には幕府直轄領、伊丹氏の徳美藩領や旗本領に属した諸村もある。宝永2年(1705年)には全村が甲府藩領となり、柳沢藩主家時代に分知された甲府新田藩に属する諸村もある。享保9年(1724年)には甲斐一国が幕府直轄領となり、市域の全村が石和代官支配となる。また、御三卿領のうち田安家領や清水家領に属した諸村や、甲府代官支配に移行した諸村もある。


 生業は市域の地理的特徴から北部諸村は畑作が中心、南部諸村は稲作が中心となったほか、東郡地域で盛んであった養蚕や甲州煙草のひとつである萩原煙草の栽培、柿など果樹栽培も行われた。また萩原山の入会地での山稼ぎが行われ、黒川金山での採掘は近世初頭まで行われた。


 市域には江戸時代に整備された甲州街道が通るほか、青梅往還や秩父往還など武蔵国へ通じる街道が通り、口留番所が置かれたほか、助郷を務める村々もあった。また、江戸時代の甲斐国では大規模な一揆も発生しているが、寛政4年(1792年)の太枡騒動では市域の諸村でも参加者がおり、天保7年の天保騒動では一揆勢が押し寄せて打ちこわし被害を受けた。


 1872年(明治5年)、山梨県庁による大小切税法の廃止に対して起こった反対運動である大小切騒動には市域の24か村が参加し、県庁側による鎮圧後に首謀者は断罪された。1875年(明治8年)には県令・藤村紫朗の主導した青梅街道(青梅往還)改修工事が行われ、従来の大菩薩峠越えに代わり新たに柳沢峠越えの新道が開発された。明治期には養蚕業が振興され、1903年(明治36年)には中央本線の塩山駅が開設されると繭市場として発展し、甲州街道・勝沼宿の宿場町として栄えていた勝沼に代わり東山梨郡の中心となる。


 一方で、1881年(明治14年)の林野官民有区分により萩原山が官収されると、養蚕の木材需要があり、乱伐や盗伐など人的要因により林野の荒廃が進む。1907年(明治40年)に発生した明治40年の大水害では重川流域で堤防が決壊し、甚大な被害が出た。山梨県は小作地率が高く、養蚕業によって支えられた寄生地主制が成立していたが、大正9年の霜害により起こった七里村の下於曾農民組合の闘争は全県的な小作争議に発展する。


 戦後には養蚕が衰退する一方で葡萄など果樹栽培が増加したほか、大菩薩峠など自然資源や武田氏に関係する古刹や史跡など歴史的資源を利用した観光業へ移行している。

 

 🔖渡辺は茗荷谷を倒したときに無法を使ってるから、もう今はただの人だ。

 俺たちはタクシーで塩山えんざん温泉に向かった。

 甲州市街地(旧塩山市街地)の北側、塩の山(標高556メートル)山麓に温泉地が広がる。

 6軒の旅館が点在している。日帰り入浴施設は存在しないため、旅館の日帰り受付を利用することになる。

 当地に存在する旅館「宏地荘」は公衆浴場として、地元民に利用されている。

 開湯は650年前。向獄寺の開祖である抜隊得勝によって、源泉を発見された。源泉は「元湯 慶友館」の隣にある。

 現在の旅館は江戸時代から明治時代にかけて、建てられたものが多い。

 俺たちは山野荘って旅館にやってきた。

「もしかして、山野葵の実家かな?」

 渡辺が言った。

「かも知れないな」

 藤原が答えた。

 シャブやったり、後輩にパワハラしたり殺し甲斐のある女だ。


 荷物を部屋に置いて俺、藤原、渡辺は大浴場にやって来た。

 ジャグジー、打瀬湯、展望風呂、露天風呂、サウナ、水風呂がある。

 日本は火山が多いために火山性の温泉が多く、温泉地にまつわる神話や開湯伝説の類も非常に多い。神話の多くは、温泉の神とされる大国主命と少彦名命にまつわるものである。例えば日本三古湯の一つ道後温泉について、『伊予国風土記』逸文には、大国主命が鶴見岳(現在の大分県別府市)の山麓から湧く「速見の湯」(現在の別府温泉)を海底に管を通して道後温泉へと導き、少彦名命の病を癒したという神話が記載されている。


 また、発見の古い温泉ではその利用の歴史もかなり古くから文献に残されている。文献としては『日本書紀』『続日本紀』『万葉集』『拾遺集』などに禊の神事や天皇の温泉行幸などで使用されたとして玉造温泉、有馬温泉、道後温泉、白浜温泉、秋保温泉などの名が残されている。平安時代の『延喜式神名帳』には、温泉の神を祀る温泉神社等の社名が数社記載されている。日本の温泉旅館のうち、「慶雲館」(西山温泉)、「千年の湯 古まん」(城崎温泉)、「法師」(粟津温泉)はいずれも飛鳥時代創業とされており、宿泊施設として世界でも現存最古級である。


 考古学の観点からは、塩を含む温泉に、塩分を求めて草食動物が集まり、その動物たちを狩る人間が温泉の周りに集まり、人の営みが生まれ、温泉に親しむ日本の文化が生まれたのではという推察がある。


 鎌倉時代以降になると、それまで漠然として信仰の存在となっていた温泉に対し、医学的な活用が増え、実用的、実益的なものになった。一遍らの僧侶の行う施浴などによって入浴が一般化した。鎌倉中期の別府温泉には大友頼泰によって温泉奉行が置かれ、元寇の戦傷者が保養に来た記録が残っている。さらに戦国時代の武田信玄や上杉謙信は特に温泉の効能に目を付けていたといわれる。


 江戸時代頃になると、農閑期に湯治客が訪れるようになり、それらの湯治客を泊める宿泊施設が温泉宿となった。湯治の形態も長期滞在型から一泊二日の短期型へ変化し、現在の入浴形態に近い形が出来上がった。


 貝原益軒、後藤艮山、宇田川榕庵らにより温泉療法に関する著書や温泉図鑑といった案内図が刊行されるなどして、温泉は一般庶民にも親しまれるようになった。この時代は一般庶民が入浴する雑湯と幕吏、代官、藩主が入浴する殿様湯、かぎ湯が区別され、それぞれ「町人湯」「さむらい湯」などと呼ばれていた。各藩では湯役所を作り、湯奉行、湯別当などを置き、湯税を司った。


 一般庶民の風習としては正月の湯、寒湯治、花湯治、秋湯治など季節湯治を主とし、比較的決まった温泉地に毎年赴き、疲労回復と健康促進を図った。また、現代も残る「湯治風俗」が生まれたのも江戸時代で、砂湯、打たせ湯、蒸し湯、合せ湯など、いずれもそれぞれの温泉の特性を生かした湯治風俗が生まれた。


 そして上総掘りというボーリング技術による源泉の掘削「湯突き」が19世紀末にかけて爆発的に普及した事で、明治以降には温泉資源を潤沢に利用出来るようになった。日本の温泉源泉総数のうちおよそ1/10を抱える大分県別府市では、1879年(明治12年)頃にこの技術が導入されて温泉掘削が盛んとなり、発展した。

 渡辺はサウナに入った。

「あんなクソ暑いの何が楽しいんだか……」

 俺にはサウナの良さが理解できなかった。

 俺は露天風呂で藤原と恋話をした。

「仙道の初恋っていつだ?」

「小学1年のとき、隣の席のナオって子。俺って不器用でさ?折り紙をちゃんと折れなかった。ナオに手伝ってもらってようやっと鶴が折れるようになったんだ」

「へぇ〜」

「そーゆー藤原さんの初恋の相手は?」

「ノリカって中学のときの剣道部の仲間。背は低いのに腕っぷしが強くってな?何度かキスをした。けど、卒業式前に車に轢かれて呆気なく死んでしまった。俺が刑事になったのはノリカを殺した犯人を見つけるためだ」

「犯人は捕まったのか?」

「いや、まだだ」

 渡辺がサウナから出てきた。

「いや〜熱い……民俗学者とサウナで話したんだけど、この辺に巨大な赤い髪の怪物が住んでるらしい。2メートルくらいの大きさがあるらしくって、猟友会の人が鉄砲で撃ったんだが、無傷で山へと逃げ込んだらしい」

   

 那須野は温泉に浸かっていた。  

 彼は引きこもり更生NPO法人の職員をしてる。

 昔のことを思い出していた。

 ロリコンでオタクな高校生である那須野は、中学校時代の同級生であり、裕福な家庭の息子でありながら病的な選民意識の持ち主で、学校の不良達を取り巻きにする茗荷谷に同性愛的な執着をされ、凄惨なイジメのターゲットにされていた。夏休み中には理不尽な金の要求もされ、耐え切れなくなった那須野はパソコン通信の世界に救いを求めるも無下にされるが、その時騙された男性二人と友人関係になる。夏休み最後の日、友人達とそのうちの一人の彼女、葵もやってきてのパーティに複雑な思いに駆られる時に、茗荷谷と取り巻き達が現れ、理不尽と狂気に満ちた暴力の狂宴が始まる。

 茗荷谷が事故死してしまったことは残念だ。もう、奴を殺すことができない。

 展望風呂からはライトアップされた市街地が一望できた。

 満天の星を眺めた。姉貴はあの世で何をやってるのだろうか?ある刑事に命を奪われた。 

 姉貴は世間から見たら鬼なのだろう。だが、両親が7歳のときに飛行機事故で亡くなって(そのとき姉貴は15歳)以来、親代わりとして面倒を見てくれた。姉貴を地獄に落とした刑事には恐怖と痛みを与えてから殺したい。

 

 風呂から上がった俺は夜の街に出た。闇が濃いので懐中電灯をつけた。🔦川の辺りをとぼとぼ歩いた。しばらくすると長屋門の前に辿り着いた。門は開け放しにされ、門を潜ると土蔵があった。

 木骨、外壁が土壁として漆喰で仕上げられている。この様式で作られた建物は土蔵造り・蔵造りなどといわれる。米穀、酒、繭などの倉庫や保管庫として、防火、防湿、防盗構造をもって建てられるもののほか、保管庫と店舗を兼ねて建てられるものもある。店舗・住居を兼ねるものは「見世蔵(店蔵)」と呼ばれることもあり、倉庫・保管庫として建てられるものとは分化して発展してきた。 戸前と呼ばれる蝶番が付いた扉が開いており、蔵の中で山野葵がうつ伏せに倒れていた。背中にはナイフが突き刺さっている。

「山野さん!」

 俺は思わず叫んだ。仙道の背後に犯人が忍び寄り、スタンガンを腰の辺りに押し当てた。バチバチバチ⚡音を立てて閃光が走り、仙道は気を失った。


 目を覚ますとパトカーのサイレンが聞こえてきた。俺は逃げに逃げた。誰が俺をハメた!?

 もしかして清範の仕業か?仕事なんてのは嘘で俺を殺して組織を牛耳ろうとしてるんじゃ?

 ケータイの時刻を見たら0:01となっていた。あの蔵に来たのは午後11時過ぎだった。

俺は西沢渓谷へと逃げた。

 西沢渓谷は滝や淵が連続して続く渓谷でトレッキングコースが整備され、比較的軽装でもその素晴らしさを堪能することができ、特に秋の紅葉は見事なので人気がある。コース最奥部には日本の滝百選に選ばれた、七ツ釜五段ノ滝やシャクナゲの群落がある。トレッキングコースは危険防止のため、反時計回りの一方通行が推奨されており、最奥部からの折り返しは渓谷の右岸上方に残る森林鉄道跡(レールが残っている)の緩やかな道を辿り西沢渓谷の入口に戻る。


 仙道逃走劇、楯無の鎧を着た那須野と遭遇する。八角、葵に次いで3人目の仙道を殺そうとするが返り討ちに合う。


 朝日がブラインド越しに差し込んでくる。

 藤原はロビーにある無料コーヒーサーバーで淹れたモカを飲んだ。

「仙道さんは一体どこに行ったんでしょう?」

 渡辺が藤原に尋ねた。

「私にも分かりませんよ」

 2人は朝食後、手分けして仙道を探すことにした。


 午前9時過ぎ、藤原は甘草屋敷にやって来た。

 甘草屋敷は、山梨県甲州市塩山上於曽にある江戸時代後期に建築された民家で、国の重要文化財に指定されている。重要文化財指定名称は旧高野家住宅。

 高野家はこの地で長百姓おさびゃくしょうを務めた家柄で、代々「伊兵衛」を名乗り、幕末には名主として苗字帯刀が許されていた。高野家は江戸幕府に納める甘草を栽培していたことから、甘草屋敷と呼ばれている。


 高野家住宅の主屋は切妻屋根の前面上部に2段の突き上げ屋根を設けた甲州民家と呼ばれる、この地方特有の建築である。江戸時代後期の建築で、蔵などの付属建物や宅地も含め、重要文化財に指定されている。

 高野家は江戸時代初期頃より薬草である甘草の栽培を始め、八代将軍徳川吉宗治世の享保5年(1720年)、徳川幕府の採薬師であった丹羽正伯により同屋敷内の甘草を検分され、その結果幕府御用として栽培と管理が命ぜられた。一反十九歩の甘草園は年貢諸役を免除され、その後同家が栽培する甘草は、幕府官営の小石川御薬園で栽培するための補給源となり、また薬種として幕府へ上納を行った。これらの経緯により高野家は古くから「甘草屋敷」と呼ばれてきた。

 主屋は江戸時代後期(19世紀前半)の建築。切妻造、屋根裏部屋を含め3階建てで、桁行13間半(24.8メートル)、梁間6間(10.9メートル)。現状は銅板葺きとするが、1960年までは茅葺きであった。切妻の大屋根には2段の突き上げ屋根を設ける。建物内部は三層構造になっており、上層階は甘草の乾燥に用いられた。上層階を設け、採光と通風のための突き上げ屋根を設けた形は、かつてこの地方で盛んに行われていた養蚕に使用された建築形式を受け継いだものである。


 主屋は南向きに建てられ、東側(向かって右)を土間。西側を床上部とする。土間の右側(建物の東端)には2室からなる「蔵座敷」がある。これは、もとは馬屋だった場所を居室に改め、隠居部屋としたものである。


 床上部は下手(土間寄り)の表側に「いどこ」、奥側(北)に「居間」があり、「居間」の東には土間に張り出す形で「台所」を設ける。「台所」と土間の境に立つ大黒柱は2階の屋根裏まで達する長大なものである。


「いどこ」「居間」の上手(西)は、床高を一段高め、田の字形に4室を配する。室名は南東が「中座敷」、南西が「奥座敷」、北東が「納戸」、北西が「仏間」となっている。「仏間」は藩の役人などの来客があった場合、仏壇を隠して床の間に変更できるように工夫されている。仏間の奥(北)には、長六畳の茶室を設ける。ここはもとは箪笥置き場であった。

 仙道の姿はどこにもなかった。このまま逮捕されてくれたら自由になれるのにと、藤原は思った。

 

 那須野は子供の頃から小説家になりたかった。

 大学時代にエイト出版って会社が運営するミステリー賞に応募した。ペンネームは『茄子野与一』だ。タイトルは『SかMか』。

 第二次世界大戦後の日本で桜木達也って博士が刺殺され、武田義政って私立探偵は事件の謎に挑む。

 現場にはSかMってダイイングメッセージが残されている。武田は最初は響涼真って桜木の部下を疑った。縄で吊るされる、鞭で打たれるといったハードなSM行為を響は好んだ。だが、響は家族と一緒に家にいたというアリバイがあった。

 SかM、両方を好んだ人間なのだろうか?と、武田は謎に絡まっていた。

 武田は赤線地帯を徹底的に調べた。GHQによる公娼廃止指令(1946年)から、売春防止法の施行(1958年)までの間に、半ば公認で売春が行われていた日本の地域である。赤線区域とも。

 東京では吉原、新宿二丁目などの貸座敷(遊廓)や、玉の井(東京都墨田区東向島)、鳩の街(東京都墨田区東向島)、洲崎(東京都江東区)などの銘酒屋の看板を変え、飲食店などとして風俗営業許可を取ることになり、娼妓・私娼は女給になった(東京はカフェー、大阪では料亭など、地域によって異なる)。


 戦前から警察では、遊郭などの風俗営業が認められる地域を、地図に赤線で囲んで表示しており、これが赤線の語源であるという。終戦後のカストリ雑誌などでは「特飲街」(特殊飲食店街の略)という表現が用いられており、「赤線」という言葉が一般的になったのは、区域外への進出や人身売買事件などが大きな問題になった1950年代以降である。


 1950年に大田区武蔵新田のカフェー業者が池上に進出しようとして反対運動となり(池上特飲街事件)、参議院厚生・文部・地方行政委員会による視察、調査が行われた。結果、現行法では取り締まれないとして、建築基準法や旅館業法の改正が進められた。また、委員会では鳩の街(墨田区)の業者が「赤線区域内は一軒や二軒建つても大目に見る場合が沢山ある、併し赤線から外へ出るということはいけない」と証言した。


 1951年7月11日は、参議院文部委員会委員が三鷹駅北口付近に形成し始めた八丁歓楽街の現地調査を行っている。また1952年の衆議院行政監察特別委員会で人身売買事件が問題になり、3月4日には厚生事務次官が「赤線区域と申しまするものはないに越したことはないけれども、今日としてはやむを得ない」と証言し、黙認していることを認めた。


 東京の場合、カフェーらしくするため、1階にはダンスホールやカウンターなどが造られた。働く女性(女給)は2階の部屋に間借りをしていたが、ここが営業場所も兼ねていた。女性たちは店頭に並び、道行く客に声をかけて店に誘っており、風紀上も目に余る状態になっていた。

 赤線を調べたが無駄足だった。

 後輩探偵の突然の自殺、恋人との別れなどを経て武田は憔悴しきった。喫茶店で一人きりのクリスマスを過ごしてると頭が冴えてきた。  

 桜木を殺した犯人は2人いるのかも知れない。桜木は目を隠しされ監禁されていた。犯人の姿は見えてないが声だけが聞こえた。犯人のうち、1人のイニシャルがS、もう1人がM。 

 武田は桜木の周辺を徹底的に洗った。

 島津という戦友、前田という取り立て屋の存在が浮かび上がる。2人の声はよく似ていた。桜木は島津か前田かどっちの声だか分からなくて迷い、あんなダイイングメッセージを残した。

 犯人は島津だった。ガダルカナル島から戻ってきた2人は全く違う人生を送った。桜木はノーベル賞も夢じゃないほどの偉業を成し遂げたが、島津はチンピラに身を落としていた。夜の街でバッタリ会った桜木は有頂天になっていたのか、島津を『死んでいった仲間が憐れんでる、弱者から金を毟り取ってハイエナみたいな奴だ』と罵倒した。自分をコケにした戦友に殺意を覚え、実行に移したというワケだ。

 作品の出来は我ながらスゴいと那須野は自信を持っていた。だが、結果は落選だ。数年後に八角が『藤の牛島殺人事件』で大賞を獲った。

 本を読んで那須野は怒りに震えた。

 時代は第3次世界大戦開戦後の2025年。情報局の関係者が、「SかM。悦楽苑」という言葉を残して死んだ。 一方子供も戦時下の奉仕活動に携わるようになる中、手持ち無沙汰にしていた足利甲斐の元に、悦楽苑が藤の牛島にあるラブボの名前であることを知った情報局の職員、桜樹達也が訪れ、足利甲斐を追い出したうえで中森陽菜に、大物スパイとされる"SかM"の正体を突き止めるように命じた。

 ところが偽名で捜査に乗り出した陽菜が見たものは、そのことを知った甲斐が先回りし変名を用いて『悦楽苑』に来ているという予想外の状況だった。 かくして、甲斐と陽菜はセフレであることを悟られぬようハラハラしながら生活を送るのだった。  

 八角に作品を盗まれたと直感的に悟った。

 八角はエイト出版創業者の近親者だったのだ。

 パソコンで打ち込んだ原稿をプリントアウトしてエイト出版社に送った。原稿は返却しないと『公募ガイド』には記載されていた。

 八角は死に際に、『おまえら無能者は権力者に毟り取られて当然なんだよ。悔しかったら這い上がってみろよ』と那須野をコケにしてきた。

『風雲荘』に八角が泊まるのを渡辺って探偵に突き止めてもらい、灰皿で頭や肩を殴り身動きを封じ込め、宿のタオルで首を絞めて殺した。フロッピーディスクの入ったバッグを奪った。整形し、奴の原稿を奪いベストセラー作家になるって計画だ。

 それにしても楯無の鎧が重い、那須野家は武田氏の重臣だ。あの蔵に山野葵が忍び込んだときは心臓が止まるかと思った。葵は楯無を狙っていたようだが、楯無は自分の部屋に保管しておいた。忍者みたく背後から忍び寄り、葵の背中をナイフで刺した。

 残り1人で俺は最高級の頭脳を手にすることになる。そうすりゃ、横溝や乱歩も唖然とする作品を書くことが出来る。

 どうせ殺すなら藤原にしよう。

 那須野は七ツ釜五段滝にやって来た。

 背中がヤケに熱くなった。背後に鎧兜を着た男が立っており、そいつは那須野の体を日本刀で突き刺していた。夥しい血を迸らせ那須野は絶命した。

  

 俺は自分をコケにした那須野を葬ることに成功した。

 俺は二俣吊橋から分岐して北上し、東沢に入った。吊橋の先が入渓点の入口で、路肩に「立入禁止」の警告が掲げられており、沢登りの技術や経験のない一般のハイカーが入ると遭難の危険がある。基本的に道はなく、ほぼ遡行となる。入渓してしばらくは平坦な河原歩きが続く。ゴルジュ帯が見えたあたりから登山道があり、ゴルジュを高巻きできる。さらに進むと田部重治の著書『笛吹川を遡る』により紹介されたホラノ貝と呼ばれる法螺貝の内部に似た螺旋形状のゴルジュが見られる。再びゴルジュを高巻きし、「山の神」と呼ばれる祠を過ぎると再び河原に出る。ここから、スラブのナメと滝が続き、非常に美しい景観の渓谷となる。冬季に氷瀑となりクライマーに人気のある乙女の滝、東のナメ、西のナメを過ぎると分岐があり、左が金山沢、右が釜ノ沢である。釜の沢上流には、魚留の滝、千畳のナメ、両門ノ滝、ヤゲンの滝等が続く。俺はさらに上流に遡行した。甲武信小屋へと辿り着いた。


 余談だが那須野が身に着けていた楯無は武田家に絡むもので源氏八領とは関係がない。

 

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源義経の事件簿⑤ 楯無伝説殺人事件 鷹山トシキ @1982

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