第3話

 上田城公園で藤原とバッタリ会って、俺はビックリした。

「最悪な日になりそうだな」

 藤原はボヤいていた。義経の仲間に馬場にヘビーダメージを与えた渡辺がいたのでさらに驚いてる

 上田城を見終えた一行は真田氏館にやって来た。

 真田氏が根小屋として日頃政務を執り、生活をしていたと考えられる館跡。いつ頃建造されたかは定かではないが、戦国時代(永禄)と推定される。上田城の築城と完成に伴い廃されたと考えられる。長野県指定文化財となり、御屋敷公園として親しまれていて、真田氏歴史館が隣接している。現在も残る真田氏館遺構は、石積のある虎口、土塁、空堀などがある。

 築城したのは真田幸綱とされる。

 真田 幸綱(さなだ ゆきつな) / 真田 幸隆(さなだ ゆきたか、こうりゅう)は、戦国時代の武将。信濃の在地領主で、甲斐国の戦国大名である武田氏の家臣。息子三人と共に、武田二十四将にも数えられる。

 幼名は次郎三郎、通称は源太左衛門、剃髪して一徳斎と号す。諸系図では幸隆と記されるが、確実な同時代史料においては幸綱と記され、また子に“隆”を通字とする者がまったく居ない事などから、永禄5年頃までは幸綱と名乗り、幸隆は晩年に改めたものであると考えられている 。「幸隆」の名に関して、『高野山蓮華定院過去帳』では一徳斎の道号に伴い「一徳斎幸隆」と記されており、道号は原則として音読みされることから、「幸隆」の読みは「こうりゅう」であるとも考えられている。


 出身は信濃小県郡の名族海野氏で、海野平合戦でいったん所領を失うが信濃に侵攻した武田晴信に仕えて旧領真田本城(松尾城)(長野県小県郡真田町)を回復。以後も武田家の信濃先方衆として活躍し、後の真田氏の礎を築いた。


 正午過ぎ、渡辺は上田市内を低速走行する1台のワゴン車を追い越す。しかし追い越した直後より、今度はワゴン車がキャンピングカーを追いかけ回してくるようになる。


 幾度となく振り切ったように見せかけては突如姿を現し、ワゴン車は列車が通過中の踏切にキャンピングカーを押し込もうとしたり、助手席の清範が警察に通報しようとケータイを手にすると、ワゴン車の助手席のパワーウィンドゥが開いて、刺客が銃を撃ちミラーが破壊された。

 清範はバックミラーに映る運転手は茗荷谷と判断。助手席にいるのは紫乃だった。


 茗荷谷たちは次第に殺意をあらわにしながら執拗に後を追ってくる。渡辺は峠道へと逃げ込むが、出がけに立ち寄ったガソリンスタンドでラジエーターホースの劣化を指摘されており、キャンピングカーは峠道の上り坂でオーバーヒートを起こしスピードダウンしてしまう。なんとか峠の上にたどり着いた渡辺だったが、運転を誤り車を岩場に衝突させてしまう。車がしばらく動かなくなってしまうが、上り坂で再びエンジンを掛けて走る。


 逃げ切ることが難しいと悟った渡辺はワゴン車との決闘を決意し、峠の途中の崖へと続く丘にワゴン車を誘い込む。車をUターンさせてワゴン車に向かって走り、正面衝突する直前に飛び降りるが、衝突の炎と煙で視界を奪われた茗荷谷は渡辺が車ごと突っ込んできたものと思い込み、そのまま崖に向かって走り続ける。崖に気づき、慌てて急ブレーキを掛けるものの、ホーンを鳴らしながら、渡辺の車もろとも崖下へと転落。辺りには2台の車が落下しながら捻じれ軋む音が咆哮のように響く。渡辺は崖から2台の残骸を見つめながら決闘から生還した事を義経や清範、藤原とともに喜んだ。


 キャンピングカーを失った俺たちは宿探しに追われた。午後7時、別所温泉というところにやって来た。

 

 開湯時期は不明だが、古代から存在していたものと見られる。

 伝説では景行天皇の時代、日本武尊の東征の折りに発見されたと言われ、「日本最古の温泉」「信州最古の温泉」の一つに挙げられている。『日本書紀』には天武天皇が「束間温湯」に行幸し入湯しようとした際、皇族の三野王(美努王)に信濃の地形図を献上させ、軽部朝臣足瀬らに命じて行宮の造営を計画したとの記事があるが、この「束間温湯」が現在の別所温泉であるという説があり、北向観音山門前に「束間温湯」に関する解説板が立てられている。平安時代に清少納言が随筆『枕草子』(能因本)において「湯は七久里、有馬の湯(兵庫県)、玉造の湯(島根県)」(三名泉)と賞賛している「七久里ななくり温泉」が、この別所温泉のことを指すという説がある。


 平安時代末期には木曾義仲が入湯したとの伝説がある。鎌倉時代には周辺の塩田平を本拠とした塩田北条氏建立による国宝八角三重塔を有する安楽寺や北向観音が創建された。また信濃御湯として、名取御湯、三函御湯または犬養御湯とともに三御湯に数えられた。順徳天皇の著作『八雲御抄』には「七久里の湯は信濃の御湯と同じ」という記述も見え、これについては別所温泉のことを示しているとする説が一般的である。戦国時代には上田城主・真田氏とその家臣団が入湯していたという記録がある。江戸時代には上田藩主と家臣団が入湯。藩主の湯治用施設・別荘であった通称「温泉屋敷」と庭園、お茶屋(休息所)跡などが「大湯」脇に一部現存しており、調査が行われている。既に江戸時代から北条氏ゆかりの温泉地として認識されていたようであり、「御湯坪」として記録されている藩主・家臣用浴室は「北条湯」とも呼ばれ、塩田北条氏の北条義政が浴室を設けたことが起源である、と伝えられていたという。


 「御湯坪」は近代に至って上田藩が廃された後、国から別所村に払い下げられ、共同浴場「大湯」となり現在に至っている。北条氏とのゆかりや神社仏閣が点在する塩田平・別所界隈の様子を鎌倉になぞらえ、「信州の鎌倉」と例えるようになった。


 共同浴場(外湯)を中心に栄え、現在も3つの共同浴場「大湯」「大師湯」「石湯」が存在する。温泉街は大湯を中心とする「大湯地区」(別所温泉駅から徒歩7~8分程度)と北向観音周辺の「院内地区」(別所温泉駅から徒歩15分程度)に分かれているが、相互の距離は近く、10分足らずで行き来できる。大湯は木曾義仲、大師湯は円仁(慈覚大師)、石湯は真田幸村ゆかりの湯として知られている。江戸時代には更に大湯地区に「長命湯(玄斉湯)」、院内地区に「久我湯」が有ったが、1929年までに各温泉旅館が「長命湯(玄斉湯)」「久我湯」から引湯し、全旅館が内湯を整備したため現存していない。また「分去地区」で上田市営の温泉施設(社会福祉施設・外湯)として1972年開業の「相染閣」が営業していたが、施設老朽化により同じく「分去地区」内の別所温泉駅近傍、市営駐車場跡地(旧上田市立別所小学校(1996年3月統合廃止)元校地)に移転。


 俺たちは運良く民宿に泊まることが出来た。丁度キャンセルがあったらしい。民宿内には大浴場がなかった。ニュースを見ながら途中のコンビニで調達した弁当を食べた。

📺車の残骸から紫乃と茗荷谷の遺体が見つかった。さらに、横浜の石井琢朗内野手が、史上34人目の通算2000本安打を達成した。

「あんときは俺はもうダメかと思ったぜ、ナベさん運転うまいな?」

 俺はそう言って、柿ピーを頬張った。紫乃のことは少し可愛そうだと思った。耳が聞こえないってことはかなり辛かったはずだ。

「あの車高かったんだぞ」

 渡辺がボヤいた。

「茗荷谷たちは何で俺たちを襲ったのかな?」

 缶ビールのプルトップを開けながら藤原が言った。

 俺は殺し屋だ。俺を恨んでる人間なんて50人じゃ効かないんじゃないか?茗荷谷や紫乃もその中の1人かも知れない。

「おまえら食べんの遅いな、俺風呂行ってくる」

 そう言うと清範は座布団から立ち上がった。

 清範は木曽義仲が入ったとされる大湯にやって来た。

 義仲は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍と呼ばれている。


 河内源氏の一門で東宮帯刀先生を務めた源義賢の次男として生まれる。幼名は駒王丸。義賢は武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んでその娘を娶るが、義仲の生母は遊女と伝えられる。義仲の前半生に関する史料はほとんどなく、出生地は義賢が館を構えた武蔵国の大蔵館(現・埼玉県比企郡嵐山町)と伝えられる。


『平家物語』や『源平盛衰記』によれば、父・義賢はその兄(義仲にとって伯父)・義朝との対立により大蔵合戦で義朝の長男(義仲にとって従兄)・義平に討たれる。当時2歳の駒王丸は義平によって殺害の命が出されるが、畠山重能・斎藤実盛らの計らいで信濃国へ逃れたという。『吾妻鏡』によれば、駒王丸は乳父である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曽谷(現在の長野県木曽郡木曽町)に逃れ、兼遠の庇護下に育ち、通称を木曾次郎と名乗った。異母兄で義賢嫡男の仲家は義賢の死後、京都で源頼政の養子となっている。


『源平盛衰記』によると「信濃の国安曇郡に木曽という山里あり。義仲ここに居住す」と記されており、現在の木曽は当時美濃の国であったことから、義仲が匿われていたのは、今の東筑摩郡朝日村(朝日村木曽部桂入周辺)という説もある[注釈 4]。諏訪大社に伝わる伝承では一時期、下社の宮司である金刺盛澄に預けられて修行したといわれている。こうしたこととも関係してか、後に手塚光盛などの金刺一族が挙兵当初から中原一族と並ぶ義仲の腹心となっている。

 

 治承4年(1180年)、以仁王が全国に平氏打倒を命じる令旨を発し、叔父・源行家が諸国の源氏に挙兵を呼びかける。八条院蔵人となっていた兄・仲家は、5月の以仁王の挙兵に参戦し、頼政と共に宇治で討死している。


 同年9月7日、義仲は兵を率いて北信の源氏方救援に向かい(市原合戦)、そのまま父の旧領である多胡郡のある上野国へと向かう。2ヵ月後に信濃国に戻り、小県郡依田城にて挙兵する。上野から信濃に戻ったのは、頼朝あるいは藤姓足利氏と衝突することを避けるためと言われている。


 翌年の治承5年(1181年)6月、小県郡の白鳥河原に木曾衆・佐久衆・上州衆など3千騎を集結、越後国から攻め込んできた城助職を横田河原の戦いで破り、そのまま越後から北陸道へと進んだ。寿永元年(1182年)、北陸に逃れてきた以仁王の遺児・北陸宮を擁護し、以仁王挙兵を継承する立場を明示し、また、頼朝と結んで南信濃に進出した武田信光ら甲斐源氏との衝突を避けるために頼朝・信光の勢力が浸透していない北陸に勢力を広める。


 寿永2年(1183年)2月、頼朝と敵対し敗れた志田義広と、頼朝から追い払われた行家が義仲を頼って身を寄せ、この2人の叔父を庇護したことで頼朝と義仲の関係は悪化する。また『平家物語』『源平盛衰記』では、武田信光が娘を義仲の嫡男・義高に嫁がせようとして断られた腹いせに、義仲が平氏と手を結んで頼朝を討とうとしていると讒言したとしている。両者の武力衝突寸前に和議が成立し、3月に義高を人質として鎌倉に送ることで頼朝との対立は一応の決着がつくが、後にまた対立する。


 4月、平氏は京の兵糧の供給地である北陸道の回復を図り、平維盛を大将として北陸に出陣。越前国で火打城の戦いに勝利した平氏軍は、加賀国に入っても連戦連勝で破竹の進撃を続ける。義仲は今井兼平に6千の先遣隊を率いさせ、平氏軍の平盛俊による先遣隊が陣を張る越中国の般若野を奇襲する(般若野の戦い)。この奇襲が功を奏して平家軍は越中・加賀国の国境にある礪波山倶利伽羅峠の西に戻ることになる。


 5月11日、義仲は倶利伽羅峠の戦いで10万とも言われる平維盛率いる平氏の北陸追討軍を破り、続く加賀国での篠原の戦いにも勝利して勝ちに乗った義仲軍は沿道の武士たちを糾合し、破竹の勢いで京都を目指して進軍する。6月10日には越前国、13日には近江国へ入り、6月末に都への最後の関門である延暦寺との交渉を始める。右筆の大夫房覚明に書かせた諜状(通告文書)の内容は「平氏に味方するのか、源氏に味方するのか、もし悪徒平氏に助力するのであれば我々は大衆と合戦することになる。もし合戦になれば延暦寺は瞬く間に滅亡するだろう」という些か恫喝めいたものだった。7月22日に義仲が東塔惣持院に城郭を構えたことが明らかとなる。また、源行家が伊賀方面から進攻し、安田義定ら他の源氏武将も都に迫り、摂津国の多田行綱も不穏な動きを見せるようになる。25日、都の防衛を断念した平氏は安徳天皇とその異母弟・守貞親王(皇太子に擬された)を擁して西国へ逃れた。なお平氏は後白河法皇も伴うつもりであったが、危機を察した法皇は比叡山に登って身を隠し、都落ちをやりすごした。


 7月27日、後白河法皇は義仲に同心した山本義経の子、錦部冠者義高に守護されて都に戻る。『平家物語』では、「この20余年見られなかった源氏の白旗が、今日はじめて都に入る」とその感慨を書いている。義仲は翌日28日に入京、行家と共に蓮華王院に参上し、平氏追討を命じられる。2人は相並んで前後せず、序列を争っていた。 30日に開かれた公卿議定において、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家という順位が確認され、それぞれに位階と任国が与えられることになった。同時に京中の狼藉の取り締まりが義仲に委ねられることになる。義仲は入京した同盟軍の武将を周辺に配置して、自らは中心地である九重(左京)の守護を担当した。


 8月10日に勧賞の除目が行われ、義仲は従五位下・左馬頭・越後守、行家は従五位下・備後守に任ぜられる。16日になると、義仲は伊予守、行家は備前守に遷った。『平家物語』ではここで義仲が朝日の将軍という称号を得て、義仲と行家が任国を嫌ったので義仲が源氏総領家にゆかりのある伊予守に、行家が備前守に遷ったとしているが、義仲と差があるとして不満を示したのは行家のみで、義仲が忌避した記録は見られない。


 後白河法皇は天皇・神器の返還を平氏に求めたが、交渉は不調に終わった。やむを得ず、都に残っている高倉上皇の二人の皇子、三之宮(惟明親王)か四之宮(尊成親王、後の後鳥羽天皇)のいずれかを擁立することに決める。ところがこの際に義仲は今度の大功は自らが推戴してきた北陸宮の力であり、また平氏の悪政がなければ以仁王が即位していたはずなので以仁王の系統こそが正統な皇統として、北陸宮を即位させるよう比叡山の俊堯を介して朝廷に申し立てた。


 しかし天皇の皇子が二人もいるのに、それを無視して王の子にすぎない北陸宮を即位させるという皇統を無視した提案を朝廷側が受け入れるはずもなかった。摂政・九条兼実が「王者の沙汰に至りては、人臣の最にあらず」と言うように、武士などの「皇族・貴族にあらざる人」が皇位継承問題に介入してくること自体が、皇族・貴族にとって不快であった。朝廷では義仲を制するための御占が数度行なわれた末、8月20日に四之宮が践祚した。兄であるはずの三之宮が退けられたのは、法皇の寵妃・丹後局の夢想が大きく作用したという。


 いずれにしても北陸宮推挙の一件は、伝統や格式を重んじる法皇や公卿達から、宮中の政治・文化・歴史への知識や教養がない「粗野な人物」として疎まれる契機となるに十分だった。山村に育った義仲は、半ば貴族化した平氏一門や幼少期を京都で過ごした頼朝とは違い、そうした世界に触れる機会が存在しなかったのである。


 また義仲は京都の治安回復にも期日を要した。養和の飢饉で食糧事情が極端に悪化していた京都に、遠征で疲れ切った武士達の大軍が居座ったために、遠征軍による都や周辺での略奪行為が横行する。9月になると「凡そ近日の天下武士の外、一日存命の計略無し。仍つて上下多く片山田舎等に逃げ去ると云々。四方皆塞がり、畿内近辺の人領、併しながら刈り取られ了んぬ。段歩残らず。又京中の片山及び神社仏寺、人屋在家、悉く以て追捕す。その外適々不慮の前途を遂ぐる所の庄上の運上物、多少を論ぜず、貴賤を嫌わず、皆以て奪ひ取り了んぬ」という有様で、治安は悪化の一途を辿った。京中守護軍は義仲の部下ではなく、行家や安田義定、近江源氏・美濃源氏・摂津源氏などの混成軍であり、義仲が全体の統制が出来る状態になかった。


『平家物語』には狼藉停止の命令に対して、「都の守護に任じる者が馬の一疋を飼って乗らないはずがない。青田を刈って馬草にすることをいちいち咎めることもあるまい。兵粮米が無ければ、若い者が片隅で徴発することのどこが悪いのだ。大臣家や宮の御所に押し入ったわけではないぞ」と義仲の開き直りとも取れる発言が記されている。


 後白河法皇は19日に義仲を呼び出し、「天下静ならず。又平氏放逸、毎事不便なり」と責めた。立場の悪化を自覚した義仲はすぐに平氏追討に向かうことを奏上し、法皇は自ら剣を与え出陣させた。義仲は、失った信用の回復や兵糧の確保のために、戦果を挙げなければならなかった。義仲は腹心の樋口兼光を京都に残して播磨国へ下向した。


 義仲の出陣と入れ替わるように、朝廷に頼朝の申状が届く。内容は「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」「平家横領の院宮諸家領の本主への返還」「降伏者は斬罪にしない」と言うもので、「一々の申状、義仲等に斉しからず」と朝廷を大いに喜ばせるものであった。10月9日、法皇は頼朝を本位に復して赦免、14日には寿永二年十月宣旨を下して、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与える。


 義仲は、西国で苦戦を続けていた。閏10月1日の水島の戦いでは平氏軍に惨敗し、有力武将の矢田義清・海野幸広を失う。戦線が膠着状態となる中で義仲の耳に飛び込んできたのは、頼朝の弟が大将軍となり数万の兵を率いて上洛するという情報だった。驚いた義仲は平氏との戦いを切り上げて、15日に少数の軍勢で帰京する。20日、義仲は君を怨み奉る事二ヶ条として、頼朝の上洛を促したこと、頼朝に宣旨を下したことを挙げ、「生涯の遺恨」であると後白河院に激烈な抗議をした。義仲は、頼朝追討の宣旨ないし御教書の発給、志田義広の平氏追討使への起用を要求する。


 義仲の敵はすでに平氏ではなく頼朝に変わっていた。19日の源氏一族の会合では法皇を奉じて関東に出陣するという案を出し、26日には興福寺の衆徒に頼朝討伐の命が下された。しかし、前者は行家、土岐光長の猛反対で潰れ、後者も衆徒が承引しなかった。義仲の指揮下にあった京中守護軍は瓦解状態であり、義仲と行家の不和も公然のものだった。


 11月4日、源義経の軍が布和の関(不破の関)にまで達したことで、義仲は頼朝の軍と雌雄を決する覚悟を固める。一方、頼朝軍入京間近の報に力を得た後白河法皇は、義仲を京都から放逐するため、義仲軍と対抗できる戦力の増強を図るようになる。義仲は義経の手勢が少数であれば入京を認めると妥協案を示すが、法皇は延暦寺や園城寺の協力をとりつけて僧兵や石投の浮浪民などをかき集め、堀や柵をめぐらせ法住寺殿の武装化を計った。さらに義仲陣営の摂津源氏・美濃源氏などを味方に引き入れて、数の上では義仲軍を凌いだ。


 院側の武力の中心である源行家は、重大な局面であったにもかかわらず平氏追討のため京を離れていたが、圧倒的優位に立ったと判断した法皇は義仲に対して最後通牒を行う。その内容は「ただちに平氏追討のため西下せよ。院宣に背いて頼朝軍と戦うのであれば、宣旨によらず義仲一身の資格で行え。もし京都に逗留するのなら、謀反と認める」という、義仲に弁解の余地を与えない厳しいものだった。


 これに対して義仲は「君に背くつもりは全くない。頼朝軍が入京すれば戦わざるを得ないが、入京しないのであれば西国に下向する」と返答した。九条兼実は「義仲の申状は穏便なものであり、院中の御用心は法に過ぎ、王者の行いではない」と義仲を擁護している。義仲の返答に法皇がどう対応したのかは定かでないが、18日に後鳥羽天皇、守覚法親王、円恵法親王、天台座主・明雲が御所に入っており、義仲への武力攻撃の決意を固めたと思われる。


 11月19日、追い詰められた義仲は法住寺殿を襲撃する。院側は土岐光長・光経父子が奮戦したが、義仲軍の決死の猛攻の前に大敗した。義仲の士卒は、御所から脱出しようとした後白河法皇を捕縛して歓喜の声を上げた(『玉葉』同日条)。義仲は法皇を五条東洞院の摂政邸に幽閉する。この戦闘により明雲や円恵法親王が戦死した。九条兼実は「未だ貴種高僧のかくの如き難に遭ふを聞かず」と慨嘆している。義仲は天台宗の最高の地位にある僧の明雲の首を「そんな者が何だ」と川に投げ捨てたという。20日、義仲は五条河原に光長以下百余の首をさらした。


 21日、義仲は松殿基房(前関白)と連携して「世間の事松殿に申し合はせ、毎事沙汰を致すべし」と命じ、22日、基房の子・師家を内大臣・摂政とする傀儡政権を樹立した。『平家物語』は義仲が基房の娘(藤原伊子とされる)を強引に自分の妻にしたとするが、実際には復権を目論む基房が義仲と手を結び、娘を嫁がせたと見られる。


 11月28日、新摂政・松殿師家が下文を出し、前摂政・近衛基通の家領八十余所を義仲に与えることが決まり、中納言・藤原朝方以下43人が解官された。12月1日、義仲は院御厩別当となり、左馬頭を合わせて軍事の全権を掌握する。10日には源頼朝追討の院庁下文を発給させ、形式的には官軍の体裁を整えた。


 寿永3年(1184年)1月6日、鎌倉軍が墨俣を越えて美濃国へ入ったという噂を聞き、義仲は怖れ慄いた。15日には自らを征東大将軍に任命させた。平氏との和睦工作や、後白河法皇を伴っての北国下向を模索するが、源範頼・義経率いる鎌倉軍が目前に迫り開戦を余儀なくされる。義仲は京都の防備を固めるが、法皇幽閉にはじまる一連の行動により既に人望を失っていた義仲に付き従う兵は無く、宇治川や瀬田での戦いに惨敗した(宇治川の戦い)。


 戦いに敗れた義仲は今井兼平ら数名の部下と共に落ち延びるが、21日、近江国粟津(現在の滋賀県大津市)で討ち死にした(粟津の戦い)。九条兼実は「義仲天下を執る後、六十日を経たり。信頼の前蹤と比するに、猶その晩きを思ふ」と評した。享年31。26日、検非違使が七條河原で義仲と郎党高梨忠直、兼平、行親らの首を獄門の前の樹に掛けた(『吾妻鏡』)。


『平家物語』には、義仲が幼い頃から苦楽を共にしてきた巴御前との別れ、兼平との語らい等、巴や兼平の義仲へのお互いの苦しいいたわりの気持ち、美しい主従の絆が書かれている。


 温泉の効能:一般的適応症、慢性皮膚病、慢性婦人病、きりきず、糖尿病など。

「いい湯だな〜、いい湯だな〜」

 清範は思わず鼻歌を歌った。

  

 5月12日

 キトラ古墳の白虎が、奈良文化財研究所飛鳥資料館(奈良県高市郡明日香村)にて公開される。


 恵子は訪問ヘルパーとして水戸市にある八角邸にやって来た。一晃は亡き八角が40歳のときに出来た子供で、かなり溺愛されていた。母親は一晃が生まれてすぐに病で亡くなってしまった。

 一晃は戦隊ヒーローの絵本を楽しそうに読んでいる。ある時、恵子が目を離したすきに一晃が給水塔によじ登ってしまい、以前にも同じことがあったため恵子が警察から警告を受ける。

「あぶないことはもうダメだよ」

 恵子が叱責すると一晃はワーワー泣いた。

 恵子は八角邸の書斎に大きな金庫があるのを知った。印税がたくさん眠ってるに違いない。

 恵子は思わずニヤリと笑った。

「一晃君ってさ〜カッコいいよね?」

 恵子はYシャツのボタンを外して色仕掛けした。

「とっ、突然どうしたんですか?」

「実はさ、ウチの父が不治の病なの」

「えっ、何の病気なんですか?」

「肺の病気。手術にお金がかかるんだ〜」

 そのとき、キッチンに置いてある黒電話がけたたましく鳴り出した。☎七曲署にでも置いてありそうだ。

 恵子は受話器を耳に当てた。相手は何も喋らない。無言電話だ。「全くなんなの」邪魔されて恵子はイライラしていた。

「でさ〜、さっきの続きなんだけど……」

「何の話でしたっけ?」

 これだから知的障害者は!

「あ!」

 突然、一晃は大声を上げた。

「ビックリした!」

「パパを殺したのは源義経かも知れない」

 恵子の脳裏に仙道源太の横顔が浮かび上がる。

「パパが殺される前の晩、義経にパパが弓矢で射抜かれて殺される夢を見たんだ」

 こんなことを言うってことはサンタクロースも信じてるかも知れない。

 もしかしたら、さっきの電話は八角を殺した奴の仕業かも知れない。殺人鬼はこの金庫の中身が狙いなんじゃ!?

「一晃君、逃げるわよ!」  

「どうして!?」

「話はあとよ!」

 八角邸は偕楽園のすぐ近くにある。今頃はツツジが綺麗だ。八角邸を後にして、恵子はパルサーの後部席に一晃を乗せた。助手席にはポーチを置いた。

 恵子はエンジンをかけ、ギアをドライブに入れパルサーをゆっくり走らせた。

 

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