第2話

 6日

 俺は清範、恵子と笛吹市内を巡っていた。渡辺は道の駅の駐車場で待っている。熱があるらしい。

 八幡神社にやって来た。所在する笛吹市石和町市部は甲府盆地の北縁に位置し、笛吹川・鵜飼川に画された平坦地。中世には石和御厨の中心地域で、甲斐守護武田信光の屋敷跡が残されている(『国志』)。近世には市部村が成立し、市部村は甲州街道・鎌倉街道が通過する交通の要衝で、石和宿や石和代官所が置かれていた。


『甲斐国社記・寺記』に拠れば成務天皇5年に物部神社の社号を賜ったとされ、朝廷から尊崇されたびたび祈祷の勅命が下ったという。


 中世には甲斐国守護武田氏の歴代当主が尊崇し、源氏の氏神である八幡信仰の神社となった。鎌倉時代には甲斐源氏の一族である武田信光(石和五郎)が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したという。甲斐国では当社のほかに、韮崎市神山町北宮地の武田八幡宮や山梨市北の大井俣窪八幡神社が知られる。


 戦国期には大永5年(1525年)に武田信虎が甲府開府にあたり当社を勧請し甲府に府中八幡宮が成立した。


 また、永禄4年(1561年)には甲斐国内の諸社に対し府中八幡宮への参勤が命じられているが、一宮浅間神社をはじめ当社を含む10社が勤番を免除されている。『社記』に拠れば、天正10年(1582年)の武田氏滅亡後は、織田信長により諸堂や宝物が焼き討ちされ、社領も没収され衰微したという。


 近世には天正壬午の乱を経て甲斐を領有した徳川家康により新たに社領を安堵されており、歴代甲斐国主による尊崇を受けた。

 

 城を見終えた俺たちはクタクタに疲れていた。温泉にでも入りたいな。

 春日居町には日の出温泉とは別に春日居温泉があり、この2つの温泉を春日居温泉郷としている。温泉街を歩いていた。

 温泉宿として旅館が 1 件あるのみである。石和温泉郷の他の 2 つの温泉とは離れており、笛吹川の支流である平等川の北に位置する。北西側にはすぐ大蔵経寺山が迫っており、歓楽温泉として賑いを見せる石和・春日居の各温泉に対して閑静な場所となっている。

 俺と清範は春日居温泉でまったりした。♨

 恵子は髪が濡れるのが嫌だとかで風呂に入らなかった。


 定食屋でお昼を食べて古墳に向かった。

 🍛義経🍲恵子🍜清範

 岡銚子塚古墳は、山梨県笛吹市八代町岡にある古墳。4世紀後半築造の前方後円墳。甲府市下曽根町の甲斐銚子塚古墳と区別するため、「岡」が付けられる。山梨県指定史跡。

 所在する笛吹市八代町は甲府盆地南東縁の曾根丘陵東端に位置する。笛吹川左岸にあたり、一帯は大型古墳が濃密に分布する。標高は425メートルで、盆地を一望できる。


 1992年(平成4年)に公園整備に伴い発掘調査が実施され、全容が判明した。主軸は東西方面で、全長は92メートル。後円部径は48メートルで高さ7.5メートル。前方部幅は41メートルで高さ4メートル。斜面を掘削して基盤としている。前方部は二段築成で、正面が突出し剣先状になる。後円部は三段築成で、墳丘南側の縊れと前方部の裾付近には葺石が施されており、粘土郭も確認されている。墳丘の周囲には一重の周溝がめぐらされている。主体部は主軸と直交する後円部中央にあるが、前方部と含めて耕作による破壊が著しい。


 江戸時代後期の地誌『甲斐国志』によれば、宝暦年間に発掘が行われ、鏡や鉄刀、鉄鏃のほか斧、勾玉などの副葬品が出土したといわれ、甲斐の文人萩原元克『甲斐名勝志』には、だ龍鏡やほう製二神二獣鏡の拓本が残されており、これらは三角縁神獣鏡である可能性も指摘される。出土品は江戸時代の発掘で散逸しているが、県内最古級の特殊台系譜の初期円筒埴輪片や壺型埴輪、異形埴輪片などの埴輪類が確認されている。


 山梨県では曽根丘陵において前期古墳が展開し、4世紀中頃の小平沢古墳から4世紀後半のヤマト王権の影響を受けた県内最大級の前方後円墳である甲斐銚子塚古墳が出現するが、岡銚子塚古墳は甲斐銚子塚古墳よりは若干新しいと築造期であると推定されている。甲斐銚子塚古墳とは墳形や副葬品や埴輪の形式からも類似性が指摘されており、両者が中道地域と八代地域を代表する勢力で、両者が盟友関係にあったとも考えられている。


 5世紀代には東山地域の勢力が衰退し、古墳の築造は甲府盆地各地へ拡散する。これに伴い笛吹市八代町地域においても、丘陵地から浅川扇状地に古墳の分布が移行し、中小規模の古墳が築造されるようになる。


 笛吹市八代町米倉に所在する竜塚古墳は山梨県内では類例の少ない方墳であり、築造年代は東山地域において小平沢古墳の築造された4世紀中頃から4世紀後半の甲斐銚子塚古墳の間に相当すると考えられた。一方、近年の『山梨県史』編纂事業に伴う測量調査において、竜塚古墳の築造年代は東山地域において甲斐銚子塚古墳から丸山塚古墳(円墳)にかけての衰退期に相当すると想定されている。


 この場合、八代地域では岡銚子塚古墳以降に伝統的な墳丘形態である方墳が復活していることになり、甲府盆地では市川三郷町に所在する5世紀末の鳥居原狐塚古墳も伝統的な円墳であり、甲府盆地において伝統的な墳丘形態が採用された理由が検討課題となっている。


「レミオロメンって石和出身なんだよ」

 恵子が唐突に言った。去年のテレビドラマ『1リットルの涙』の主題歌『粉雪』はレミオロメンが歌った。沢尻エリカの演技力はすごかった。

「芸能リポーターに転職したら?」と、俺。


 5月7日 - 山形県飯豊町の民家に、同家の遠縁の24歳男が侵入、夫と長男を殺害、妻に重傷を負わせる。


 俺たちはキャンピングカーで上田市を目指していた。

「体調はいいのか?」と、助手席の清範。

「バファリン飲んだからな」

 渡辺はハンドルを軽快に操ってる。

 

 戦国時代の永禄9年(1566年)に長野県上田市の生島足島神社に奉納された信玄への忠誠を誓う起請文には親族衆武田信廉をはじめ楯無鎧について記載されているものが含まれており、戦国時代には武田家臣団の間で楯無鎧が神格化されていたことが確認されている。

 南に進み国道411号に入る。70メートル進み、小林神社を右折。県道302号を400メートル進み好運橋を左折し富士見通りに入る。広瀬で斜め右方向に曲がり、甲州街道に入る。しばらく走り、中央自動車道に入った。

 今回は恵子は参加していない。急な用事が出来たらしく、列車で茨城に戻った。

「渡辺って何で探偵になったんだ?」

 清範は言った。彼は唐突にジライヤって特撮が見たくなった。子供の頃にやってた奴だ。

『世界忍者戦ジライヤ』(せかいにんじゃせんジライヤ)は、1988年1月24日から1989年1月22日まで、テレビ朝日系列で毎週日曜9:30 - 10:00(JST)に全50話が放送された、東映制作の特撮テレビドラマ。「メタルヒーローシリーズ」の第7作目にあたる。

 世紀の秘宝“パコ”を手に入れるため、悪の忍者・妖魔一族が行動を開始した。代々パコを守り通してきた戸隠流忍者の宗家・山地哲山は、自分の養子である山地闘破にジライヤスーツを与え、パコを守ることを命じた。闘破は戸隠流正統・磁雷矢(ジライヤ)を名乗り、妖魔一族、そして世界中から挑んでくる様々な世界忍者たちと戦いを繰り広げる。

「『探偵物語』の工藤ちゃんに憧れてな」

「松田優作か、カッコいいよな?」

「最終回でコンビニの店員に刺されて死んじゃうんだ」

「確かイチャモンをつけたことに腹を立てて刺すんだよな。最終回は古尾谷雅人も出てたよな」

「撃たれて死んじゃうけどな。入れ墨者とか情報屋とか工藤ちゃんの仲間が次々に殺されるんだ」

「で、工藤ちゃんが悪い奴らに復讐するんだろ?普段はコミカルだっただけに、豹変ぶりがおっかなかった」

 カーステからはダウン・タウン・ブギウギ・バンドの『身も心も』が流れていた。『探偵物語』の最終回で流れていた。

《夜の遠吠え〜ひとしきり激しく〜♫》

 岡谷ジャンクションで左車線に寄り、長野自動車道に入る。🛣

 5キロ近く走った。

 岡谷ICを出て、佐久方面に向かう。

 9時に出て、上田市に到着したのは11時だ。

「腹減ったな〜」

 清範がぼやいた。

 

 上田市は、2006年3月6日に旧上田市・丸子町・真田町・武石村が合併して発足した。

 千曲川右岸の旧市街は、戦国時代に真田氏が築いた上田城を中心とする城下町。千曲川左岸の塩田は鎌倉時代の執権北条氏の一族塩田北条氏の所領で、安楽寺、北向観音などの多くの文化遺産が残されており「信州の鎌倉」の異称で呼ばれる。上田市街地から北に向かうと真田氏発祥の地とされる真田郷(旧・真田町)に達する。都市圏は佐久地域にまでおよび、都市圏人口は定義次第では37万人になる。

 

 上田市は、長野県の中央からやや東北の所にあり、県庁所在地の長野市から40キロメートル、東京から190キロメートルのところにある。 市域は上田盆地全体に広がり、それを二分するように千曲川が横断している。市中心部(狭義の上田)は千曲川の河岸段丘上に位置する(標高約450メートル)。


 清範は脳内に記憶した上田市の歴史を引っ張り出した。

 奈良時代にはすでに別所温泉が開湯されていた。

 8世紀に信濃国分寺、国分尼寺が建立された。最初の国府もこの近くに置かれたとする説もある。

 奈良末期から平安時代初頭にかけての時期に、国府が松本に移る。


 938年(承平8年) - 平将門に追われて東山道を京にむけて関東を脱出しようとした平貞盛が、2月29日に追撃してきた将門の軍勢100騎と信濃国分寺付近で戦った記録が残されている。このとき貞盛は、信濃国海野古城を拠点とする信濃御牧の牧監(管理者)滋野氏の下に立ち寄っている。旧知の間柄であったとも伝わるが、正確な関係は不明である。滋野氏のみならず、他田真樹ら信濃国衙の関係者達も貞盛に加勢したが将門軍に破れたとされる。この戦闘によって国分寺は焼かれたものと考えられている。


 鎌倉幕府政所初代別当大江広元の孫大江佐房が承久の乱の後上田に所領を得たという。その子らが上田を名乗るが、1285年(弘安8年)霜月騒動で没落した。


 13世紀に鎌倉幕府の執権北条氏の一族北条氏 (塩田流)が信濃守護として三代60年間にわたって治めた。守護館は塩田城。


 1583年(天正11年)4月、甲斐武田氏の家臣・真田昌幸は、小泉氏の居城である尼ヶ淵城を改修して上田城とし、翌年城の完成とともに小県郡伊勢山の戸石城からこの城に移ったという。一方で、上田城は越後国の上杉氏に対して徳川家康により築城された城で、後に家康から昌幸に下賜された城であるとする説もある。築城後、真田昌幸は、真田氏に縁故のある海野郷(現在の東御市の一部)と原郷(市内の(旧)真田町の一部に本原の地名がみられる)の住民を招いて城下町を形成するに至る。


 1585年(天正13年)8月 - 徳川家康がさしむけた真田討伐の大軍をむかえたが、真田昌幸は少ない兵と上田城や周辺の地理的条件を利用して、遂にこれを撃退せしめた。第一次上田合戦。


 1600年(慶長5年)- 関ヶ原の戦いのとき、真田昌幸とその子真田信繁(幸村)は、徳川秀忠が率いて押し寄せた大軍を完全に阻止し、そのため秀忠が関ヶ原の戦期を失うに至ったことは、史上名高いところである。(第二次上田合戦)


 関ヶ原の戦い後、真田昌幸は次男である信繁とともに紀州高野山に幽閉されたため、上田城は一時空城となったが、依田肥前守信守が守衛の任に当たる。その後、徳川家康の女婿となっていた昌幸の長男真田信之が、徳川方に属し将軍秀忠のもとで上田城攻撃を行う忠誠を尽くしたことが評価され、沼田藩とともに上田藩の藩主にもなり、父の地盤を受け継いだ。


 上田市の郷土料理は焼き鳥だ。すりおろしたニンニクが入った醤油ベースのたれに焼き鳥をつけたり、焼き鳥にたれをかけたりして食べるものである。昭和30年代に、上田市内の焼き鳥店で考案され、市内の家庭や店舗に広まった。さらに、たれにすりおろしたリンゴが加えられるなど、店舗ごとに個性的な味が生まれていった。


 上田ではこのたれで食べることが定着し、特別な呼び名は存在しなかった。2011年2月、市民有志により実行委員会が発足。上田地方の方言で親しい仲間に使う愛称である「おいだれ」、「美味しいタレ」、好みにより後から追加できる「追いダレ」の3つの意味を持たせた『美味だれ』と命名された。2012年には、上田市を商標権者として、『美味だれ焼き鳥』『美味だれ』が商標登録された。この料理の原形は焼き鳥店のテーブルに置かれた、たれの入ったコップに焼き鳥を浸して食べる方法であり、この場合は衛生上、大阪の串カツなどと同様に二度漬けは厳禁である。


 上田市内だけでなく近隣の千曲市・坂城町などでも同様のたれで焼き鳥を昔から食しており、にんにく醤油だれ自体は上田市だけのものではないが、近隣市町村で使用する際には特にきまった名称はなく、上記の商標の問題もあり上田市内でのみ「美味だれ」と呼称している。


 定食屋で俺たちは焼き鳥を食べた。

「楯無を見つけたら大学受験でも受けようかな?本当は大学行きたかったんだけど、金がなくて断念したんだ」と、清範。

「楯無があったら古畑や金田一も顔負けな名探偵になれる」と、渡辺。

「いいから食えよ、冷めちまう」と、俺。

 そんな3人の話を密かに聞いている者たちがいた。

 1人は印刷会社の社員、茗荷谷龍臣。もう1人は茗荷谷のセフレ、蘇我紫乃。3人目は紫乃の幼馴染で、おバカタレントの山野葵だ。

 3人も楯無を探していた。

 茗荷谷は埼玉にある印刷会社に勤務していたが、ボーナスはなくなり残業も減った。茗荷谷は安定してる公務員を目指していた。が、試験がメチャクチャ難しいらしい。楯無があれば試験に受かるかも知れない。

 葵はクイズ番組『マジカルQ』の常連客だ。賞金は1億!一生遊んでいける。鎧兜のタレント、面白いコンセプトだ。このまえ番組に出たときに《本能寺の変で信長を殺したのは?》ってクエスチョンに《豊臣秀吉》と答えて赤っ恥を掻いた。

 

 俺はお座敷にいる団体客を不意に見た。そこに蘇我紫乃がいたのでビックリした。

「あれ、紫乃さん!?」

「義経さん。奇遇ですね〜」

「何だ、知り合いか?」

 清範はジョッキ生を一気に飲み干し、言った。

「まぁ、いろいろな?」

「おまえも隅に置けないな。恵子ちゃんが知ったら悲しむぞ?」

「彼女とはそんな関係じゃない」

「またまた〜」

 

 🔖⛩生島足島神社

 午後2時、俺たちは生島足島神社いくしまたるしまじんじゃっていう上田市下之郷にある神社にやって来た。

 本社は、池に浮かぶ小島の上に鎮座する「池心の宮」という古代的形態を採る。本社社殿は昭和16年造営の権現造で、北面して鎮座し、摂社諏訪神社(下の宮)と正対する。本社は、諏方神社に対して「上の宮」と称される。両社の間には「神橋」と呼ばれる橋がかかるが、普段の一般参拝者は渡ることができず、諏訪神が本社に遷座する時のみ開かれる。そのほか、本社と諏訪神社全体を取り囲む四方には、諏訪系の神社特有の御柱が建てられている。


 本社本殿内には、さらに内殿がある。この内殿はかつては旧本殿として屋外にあったが、18世紀後期から19世紀に覆屋としての現本殿が建てられ、現在のような内殿となった。内殿の規模は、正面柱間三間(4.82メートル)、側面柱間二間(3.10メートル)で、屋根は切妻造の厚板張(当初は柿葺)。内部は、向かって左側二間が内陣、右側一間が外陣。外陣は、諏訪大神が半年間生島・足島両神にご飯を炊いて奉った場所であるといい、この伝承は現在も「御籠祭」での外陣を使った祭式に残っている。床は、内陣・外陣とも土間であり、内陣の土間すなわち「大地」が生島足島神社の神体とされている。なお、外陣にはかつて向拝があったと見られている。この内殿は室町時代の天文年間(1522年-1555年)の造営と見られ、長野県宝に指定されている。


 歌舞伎舞台は、間口九間(16.36メートル)、奥行七間(12.27メートル)で農村歌舞伎舞台の中で最大規模を誇る。伝えでは、明治元年(1868年)に建設され、その後校舎や集会所としても利用されたという。江戸期の農村歌舞伎舞台の典型的な姿を完全に伝えており、長野県宝に指定されている。

 そのほか、境内東方には大鳥居が建てられている。ここにも楯無はなかった。

 

 紫乃のアソコには毛がほとんど生えてない。だから逆にイキやすかった。紫乃は茗荷谷の先輩社員だ。ボーナスや残業がなくなったこともあり、紫乃はいろんな場所で体を売っていた。紫乃のパンティは汚れるほど濡れていた。2人とも印刷会社を辞める予定でいた。だから、ゴールデンウィークが終わっても出社していない。

 茗荷谷たちは上田市内にある旅館に泊まっていた。

 茗荷谷は後ろからパンティをずらして、紫乃の子宮の奥を貫いた。隣の部屋には葵がいる。

「アァッ!」

 葵に聞こえないかどうか紫乃はヒヤヒヤしていた。スグに絶頂を迎えた。


 5月8日

 あおり運転の常習犯、渡辺剛は追跡用に改造されたパトカーを奪って逃走。敏腕刑事、枝川桂太はこれを発見し追いつめたが逃げられてしまう。

 渡辺剛は沢瀉おもだかを着用していた。

 沢瀉(旧仮名遣いでは「をもだか」)の詳細は伝わっていないが、以下のような推測がなされている。

 日本の鎧は、鉄や革に漆を塗った小札こざねを糸で綴じて(これを「縅(おどし)」という)作るが、ここで数種類の糸を使ってそでしころに三角形の文様を描く手法を、オモダカの葉の形になぞらえて、沢瀉縅おもだかおどしと呼ぶ。沢瀉も、この形式の装飾が施された鎧と考えられている。

 平治の乱では、義朝の次男源朝長が着用したという。敗戦で落ち延びる際に、雪中に脱ぎ捨てたという。


 平治の乱以前の朝長の生涯においては、任官の記録が確認されている。保元4年(1159年)2月、鳥羽天皇皇女姝子内親王(後の高松院)が二条天皇の中宮として立后した際、その中宮少進に任じられている。また、この頃には従五位下の位階を得ていた(『山槐記』)。同じころ異母弟の頼朝は、女院号を得た上西門院の蔵人に任じられている(『山槐記』)。


 平治元年(1159年)12月、父の義朝は反信西派の中心にあった藤原信頼と結んで京でクーデターを起こして三条殿を襲撃、その後同じく信頼と結んだ源光保によって信西は討ち取られた(平治の乱)。だが、熊野参詣に出ていた平清盛が政権掌握後信頼と険悪になった二条天皇派と手を結び二条天皇を自陣営に迎え、後白河上皇も内裏を出てしまう。


 12月26日に信頼・義朝討伐の宣旨が下り、平氏の軍勢が内裏に押し寄せた。朝長は兄の義平、弟の頼朝とともに内裏の守りについた。この時、朝長は16歳。やがて戦闘が始まるが『愚管抄』によると信頼方は合戦が始まるとすぐ京の市街地に出て、やがて六波羅へと押し寄せたが、最後は十騎程度の兵力となり敗北。都を脱出する。


 義朝は少人数となった子や一族郎党とともに京を落ち再挙すべく東国を目指すが、大原(現京都市左京区大原)の竜下越で落人狩りの比叡山の山法師が行く手を遮ったため合戦となり、義朝の大叔父の義隆は首筋に矢を受けて落馬、朝長も左腿に矢を受けてしまい、あぶみを踏みかねた。義朝が「矢を受けたか、常に鐙を踏み、敵に裏に回り込まれるなよ」と励ますと、朝長は「私は大丈夫です。それよりも陸奥六郎(義隆)殿が深手を負われています」と気丈に答えた(『平治物語』)。


 一行はなんとか山法師を蹴散らして先へ進むが、近江国堅田の浦で義隆の首を埋葬し、その後逃亡を続ける。その間、年若い頼朝は疲れ果てて脱落してしまう。一行は美濃国青墓宿(岐阜県大垣市)に着いた。ここの長者大炊は義朝の妾の一人であった。一行はここでもてなされて休息した。


 ここで義朝は義平と別れ義平は東山道へ向かった。義朝は朝長を東海道に向かう自分に同行させようとするが、朝長は傷の悪化を理由にそれを拒否。父の義朝に頼んで殺害してもらったという。


「金比羅本」『平治物語』によると義朝は甲斐信濃へ赴き兵を募るよう命じ、兄弟は承知し、直ちに宿を出た。朝長は左脚に傷を負っており、心細げに兄に「信濃はどちらの方でしょう」と問うと、義平は雲をにらんで「あっちだ」と言うと、さっさと飛騨の方へ駆け去ってしまった。朝長はひとり信濃へ向かうが、傷が悪化してどうにも進めなくなり、やむなく青墓宿へ引き返した。義朝は「情けない奴だ。頼朝ならば年若くてもこうではあるまい」と怒ったと書かれているが、古態本『平治物語』には朝長が信濃へ行こうとして引き返した話は一切出てこない。また小説家の海音寺潮五郎は『武将列伝』(文春文庫)で「仮にも息子に対してこんなことを言ったとすれば義朝の人格には重大な欠陥がある。おそらく鎌倉幕府成立以降の文献が頼朝を持ち上げようとしたあまり筆がすべったのであろう」と書いている。「金比羅本」『平治物語』ではその続きに義朝が「傷が癒えるまで、ここに留まっていろ」と言うと、朝長は「ここに居ては敵に捕らえられてしまいます。どうか父上の手で私をお討ちになり、後の憂いのないようにしてください」と懇願した。「お前は不覚者だと思っていたが、やはり俺の子だ」と言うと太刀を抜く。驚いた大炊と延寿が慌てて止めに入り、義朝は「こやつの性根を試してやっただけだ」と太刀を納めた。その夜、義朝は「大夫(朝長)は如何か」と寝所の朝長に問いかけた。朝長は「お待ちしておりました」と答えて念仏を唱えた。義朝は太刀を抜き我が子の胸を三度刺して首をはね、遺骸に衣をかけた。義朝は悲しみに涙を流した。義朝は大炊に「朝長を見ておいてくれ」と言い残すと出立した。朝長が朝になっても出てこないために、心配になった大炊が様子を見に行き、義朝の言った意味が「供養せよ」ということだと分かった。

 古態本『平治物語』では義朝は「なんとかついてこられないか」と朝長を励ますが「無理です」と朝長が答えたためやむを得ず、義朝は朝長を殺害した、と記載されている。


 その後、尾張国で義朝は長田忠致の裏切りにあって殺され、首は京へ送られた。


 大炊は朝長の亡骸を丁重に埋葬したがやがて平氏の知るところとなり、墓は暴かれ朝長の首を取られて、京の六条河原に義朝とともに晒された。朝長の首は守役だった大谷忠太が奪い返し、遠江国豊田郡友永村(現静岡県袋井市友永(ともなが))に埋葬した。そのため朝長の胴の墓は岐阜県大垣市に、首の墓は静岡県袋井市に二つある。


 江戸時代の俳人松尾芭蕉は青墓の朝長の墓所を訪れて「苔埋む蔦のうつつの念仏哉」と詠んでいる。


 また、修羅能の演目に朝長の死を扱った『朝長』がある。


 剛は頼長の末裔なのだ。沢瀉は着用した者にどんな罪でも免れる作用をもたらす。

 

 枝川は日本各地に出現する怪物を討伐する『マルス』のメンバーでもあった。

 上田市内に鬼熊って怪物が出没した。

 歳を経た熊が妖怪となったもの。人前に姿を現すことは滅多にないが、夜更けに山から人里に現れ、人のように直立歩行しながら家畜の牛馬を捕えては山へ持ち帰って食らうという。


 力が非常に強く、猿などは掌で押しただけで殺してしまう。また、山中で鬼熊が6、7尺もあろうかという大石を谷底へ落とすのを見た人がおり、その石を人の手で動かそうと試みたところ、10人がかりでも動かなかったという。この石は鬼熊石と呼ばれ、今でも木曽山中にあるといわれる。


 鬼熊を仕留めるには、大木を井桁のように組んで藤蔓を使って巣穴の口をふさぎ、その奥にさまざまな木を突っ込むと、鬼熊は行き場を失って穴の口へ出て来るので、そこを狙って槍で突き、鉄砲で撃ち取るという方法がある。享保年間初期に鬼熊が仕留められたことがあり、その皮を広げたところ、畳6畳分もあったという。

 北海道では、人を襲う羆を鬼熊と呼んで恐れていたという。

 5月9日正午前、枝川は鬼熊に呆気なく殺されてしまった。

 

 友人だった枝川の死を知った藤原刑事は自分達をコケにした報復として鬼熊を襲撃すべく行動する。しかし、鬼熊はどこにも現れなかった。


 その頃、渡辺剛が山梨県警の馬場刑事らに逮捕されるが、不起訴となり、失態を犯した彼は清範に脅され、馬場を襲撃。彼が運転していた車両が渡辺により横転させられた挙げ句、火を点けられ、馬場は重傷を負った。    


 車両火災で再起不能となった馬場の被害を見て恐怖した藤原は自身も暴走の狂気に囚われるのではないかと危惧して辞職を申し入れるが、藤原の腕を惜しんだ上司の提案を聞き入れて休暇を取り数週間の旅行へ出発。 

 

 5月11日

 藤原は長野県上田市にある上田公園にやって来た。上田城を中心に整備された都市公園(総合公園)である。🏯

 上田城は上田盆地の北部に位置し、千曲川の分流である尼ヶ淵に面していたので、築城当初は「尼ヶ淵城」と呼ばれることもあった。北に太郎山、南に千曲川があり、築城前は土豪小泉氏の古い城館が存在した(現在、二の丸より西側の小泉曲輪と呼ばれている場所)と伝えられる。城の南側は千曲川に接し、北側と西側に矢出沢川を引き込んで総構えとし、唯一の攻め口である東側にも蛭沢川や湿地帯などがある。


 上田城は末期、信濃国小県の真田氏館(真田本城)の真田昌幸が真田氏当主であった1583年(天正11年)に築城が開始された平城である。1585年頃に真田氏館などから本格的に拠点を移したと考えられている。天正11年、天正13年、天正18年と何度かの過程を経て築城をされたものである。上田を含む信濃国は、支配していた武田勝頼を甲州征伐で滅ぼした織田信長が本能寺の変で横死した後、天正壬午の乱と呼ばれる争奪戦が行われた。甲州征伐で生き残った真田昌幸は、臣従する相手を次々変えたうえに徳川家康についたが、天正壬午の乱の戦後処理を巡り対立。1585年(天正13年)の第一次上田合戦で攻め寄せた徳川軍を撃退した。


 その後に天下人となった豊臣秀吉亡き後に起きた関ヶ原の戦い(慶長5年)で西軍についた真田昌幸は、連動する第二次上田合戦でも東軍別動隊の徳川秀忠軍をよく防いだ。本戦で西軍が敗れたため、昌幸は紀伊国の九度山に配流され、翌1601年に上田城は徳川軍に徹底的に破却され、堀も埋められた。


 江戸時代には上田藩の藩庁が置かれていた。昌幸の嫡子である真田信之は関ヶ原の戦いで東軍についたため、上田など真田領を安堵されたが、上田城が破却されていたため元々の居城である上野国沼田城を本城とし、上田城三の丸跡地に屋敷を構えて統治を行った。この頃、城下町の整備が行われた。真田信之は江戸幕府に対して元和7年(1621年)に城の再整備・拡張を申請するが却下され、元和8年(1622年)9月には信濃国松代へ転封された。後は小諸藩より仙石氏が移封された。仙石忠政は破却されたままの上田城の再建を申請し、寛永3年(1626年)から現在の上田城が普請されることとなった。真田氏時代の縄張りをも利用していると推測されているが、徹底破却の後に近世城郭として新たに築城された。本丸には櫓7棟、櫓門2棟、それらを繋ぐ塀が普請された。現在ある本丸の3棟の櫓(南櫓、北櫓、西櫓)など建物の外壁は煤と柿渋で防水した板を用いた下見板張の黒い外観である。二の丸にも櫓や櫓門を再建するため、櫓台なども構築されたが、寛永5年(1628年)4月20日仙石忠政の死により工事は中断され、これ以上の増築は行われないまま、仙石氏の転封および松平氏(藤井松平家)に藩主家が交代し、幕末を迎えた。


 明治以降は、破却や城外への移築が行われて城内には石垣と櫓(西櫓)が1棟残るのみであった。昭和期に、移築されていた本丸の櫓2棟が元の位置に復元され、平成期には櫓門や塀などが木造復元されている。

 本丸跡にある真田神社は、上田合戦で「落ちなかった」城であることにあやかり、受験生の祈願も多い。神社境内には古井戸があり、「城外への抜け穴になっていた」との伝説がある。三の丸の藩主居館跡には、松平氏時代の屋敷門と堀が残されている。同地は現在上田高校の敷地として利用され、門は学校の正門として使用されている。

 城を眺めていると、「おい」と声をかけられた。

 藤原のよく知ってる奴がそこにはいた。

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