源義経の事件簿⑤ 楯無伝説殺人事件

鷹山トシキ

第1話

 5月1日

 会社法が施行。

 第77回メーデーが開催。

 長野県大町市の北アルプス針ノ木岳で発生した雪崩により、3人が死亡。


 平清範の得意分野は史学だ。

 楯無は皇室や公家においては家門を表徴する宝器を直系子孫に相伝する慣習が行われていたが、平安時代後期以降は武家においても総領家嫡流では鎧や旗など家の表徴とされる武具を相伝する習慣が生まれる。清和源氏嫡流に代々伝えられた鎧の一つが楯無である。


『保元物語』や『平治物語』にその名が見られ、平治元年(1160年)平治の乱の際に源義朝が黒縅の楯無を身に着けて戦った後、美濃路を敗走中、大雪により進むことが困難になった事から、身を軽くするために雪の中に脱ぎ捨てたとされている。


 江戸時代の一説によると、それを石和五郎(武田信光)が拾って甲斐武田家に持ち帰ったというが、平治の乱当時に信光は幼児であり、この伝承には疑問が持たれる。家祖新羅三郎義光以来、相伝されてきたという武田家の伝承とも矛盾する。また、『平治物語』の楯無は黒糸威と描写されているが、菅田天神社に現存する武田家伝来の楯無は小桜韋黄返威であり、義朝着用の楯無と武田家伝来の楯無は別の物と考えられる。


 頭が良くなりたいな。頭が良くなったらノーベル賞でも取りたいな。そしたら大金持ちだ。と、俺は途方も無いことを考えていた。

 こんな危険な商売はもう辞めたい。だが、八龍を手放すのは惜しい。 

「山梨にでも行ってみるか?」

 水戸の事務所の窓から身を乗り出し、清範は煙草を吸っていた。マイルドセブンのメンソールだ。

「今から予約しても宿はいっぱいだろうな?」

 俺は言った。

「ゴールデンウィークだしな」

 トイレから恵子が出てきた。

「遅かったな?」と、清範。

「便秘なんだ」

「きったねー」

 清範は平然と女の子を傷つける。

「ひどいよ〜」

「カプセルホテルやネット喫茶なら急に行っても泊まれるかもな?」

 清範は腹を擦ってる。

「変なもんでも食ったか?」と、俺。 

 清範はトイレに入るなり、「くっせー!」と大声を出した。

「おまえ何食ったんだ?消臭剤買ってこようかな?」

「ゲンまでひどいよ」


 行方市はその頃、大量の妖怪で溢れかえっていた。

 藤原は日和坊に手を焼いていた。夏の日和、常陸国の山などに現れる。晴れを司る妖怪なので、雨天時には姿を見せないとされる。


 鳥山石燕の妖怪画集『今昔画図続百鬼』の解説文によれば、てるてる坊主を吊るして晴れを祈るのは、この妖怪の霊を祀るものとされる。

「くそ暑い!」

 那須野絵里奈を射殺したのもこんな暑いだった。  

 絵里奈はとんでもない女詐欺師だった。

 金のために男を次々殺した。藤原と源太は絵里奈に騙されていた。

 藤原があの女を殺すのも無理もない。

 

 5月3日 - 神奈川県平塚市のアパートの一室から、5人の遺体が発見され、娘を殺害した容疑で母親が逮捕。

 またこの日は『気分上々↑↑』(mihimaru GT)が発売された。


 清範の知人の渡辺剛の運転するキャンピングカーで山梨に俺たちは向かっていた。

 渡辺は私立探偵だ。

「なんかスミマセン〜」

 後部席に座る恵子が丁重に頭を下げた。

「気にしなくていいですよ」

「渡辺は女性には優しいな?」と、助手席の清範。

「一言余計だよ」

 渡辺はムスッとしてる。

 3人がおしゃべりに夢中になってる間、俺は資料を読んでいた。

 

 楯無鎧は甲斐源氏の始祖新羅三郎義光以来、甲斐源氏の惣領武田氏の家宝として相伝された「楯無」の号を持つ鎧で、御旗みはたと呼ばれる義光から受け継いだ日章旗と対になっている。御旗は甲州市塩山上萩原の雲峰寺に所蔵されている。


 戦国時代には、戦国大名となった武田氏の家中で神格視され、御旗楯無に対して「御旗楯無も御照覧あれ」と誓い出陣したという。武田信玄は楯無鎧を鬼門鎮護のため甲府から北東にあたる山梨郡於曽郷(甲州市塩山上於曽)の菅田天神社宝殿に納め、武田氏の一族である於曽氏が管理し必要に応じて持ち出されたという。


 天正10年(1582年)、武田氏滅亡に際して武田勝頼の家臣の田辺左衛門尉により向嶽寺の杉下に埋められたという。その後、甲斐を領した徳川家康により回収され再び菅田天神社に戻され、江戸時代には盗難に遭い破損し、寛政10年(1798年)には補修、文政10年(1827年)に補修が行われたという。


 楯無鎧に関する文献資料で最も古いのが甲府市太田町(旧地は一条小山)の時宗寺院である一蓮寺に伝わる『一蓮寺過去帳』で、鎌倉時代の当主武田信光の阿弥号を記した箇所には、「武田氏系図」を典拠に信光が射法と楯無鎧を相伝したことが記されている。


 武田氏は鎌倉時代に信時流武田氏が安芸国守護職を継承し、甲斐では一族の甲斐一条氏が足跡を残し、南北朝時代に信時流武田氏が再び甲斐へ土着し甲斐守護職を継承している。『一蓮寺過去帳』編纂に際して用いられた「武田氏系図」は、現存する『一統系図』の前身となる系譜資料であったと考えられているが、『一統系図』では楯無鎧は信光以後に甲斐一条氏を経て信時流武田氏に相伝されたことが記されており、家督継承に際して嫡子に相伝される伝承は信時流武田氏の甲斐支配を正当化させるために成立したと考えられている。


 また、戦国時代の永禄9年(1566年)に長野県上田市の生島足島神社に奉納された信玄への忠誠を誓う起請文には親族衆武田信廉をはじめ楯無鎧について記載されているものが含まれており、戦国時代には武田家臣団の間で楯無鎧が神格化されていたことが確認されている。


 戦国期では他に楯無鎧について記されている文書や記録は見られず、近世には『甲陽軍鑑』をはじめとする軍学書や地誌類に楯無鎧に関する記録が見られる。『軍鑑』では武田信虎が自身の馬を所望する嫡男勝千代に対して「義広の御太刀」「左文字の刀脇指」「二十七代までの御旗・楯無」の相続を約束する逸話が記され、楯無については「新羅三郎御具足」であると説明されている。


 また、『軍鑑』に拠れば勝頼期の天正3年(1575年)には長篠の戦いにおいて武田方が織田信長・徳川家康連合軍に敗北した際に、武田家臣団のなかで撤退論が主張されるなか、抗戦を主張する武田勝頼は楯無鎧に対して誓約を行い、反対していた家臣らもそれに従ったという逸話が記され、武田家当主が御旗・楯無に対して誓約したことは改変できないものであったという作法を説いており、『軍鑑』が成立した17世紀初頭にはこれらの伝承が成立していたと考えられている。


 さらに、『軍鑑』に付随して成立した『甲陽軍鑑末書』『信玄全集末書』などでも楯無鎧を着用した武田信昌は合戦において矢を通さなかった霊験あらたかな鎧であったという逸話を記している。勝頼は跡継ぎの信勝が元服(鎧着の式)を済ませていなかったことから、急いで陣中にあった楯無を着せ、そのあと父子で自刃したという悲話が残っている。


 江戸時代中期の地誌類では、萩原元克『甲斐名勝志』では菅田天神社社殿内に楯無鎧が祀られていると記し、これを源頼義が後冷泉天皇から下賜された武田家累代の宝器としており、これは近世文献で楯無鎧が菅田天神社に伝来していることを記した初見であると考えられている。


 文化11年(1814年)に成立した松平定能編『甲斐国志』は楯無鎧に関する多様な伝承を記している。『国志』によれば楯無鎧は源頼義が前九年の役に際して拝領したもので、新羅三郎義光から武田氏に伝来し軍神として崇拝されたという(巻109)。また、戦国期には鬼門封じのため菅田天神社に納められ、於曽氏により管理されたことを記し、武田滅亡の際に鎧が埋められた向嶽寺大杉の下は、かつで新羅三郎義光が楯無鎧を埋め、武田信重も出奔に際して鎧を埋めたという伝承を記しており(巻75「向嶽寺」)、楯無鎧を埋納したという伝承は近世文献において確認される。


 また、『国志』では武田氏滅亡に際して、滅亡の地である田野から勝頼着用の鎧を回収して菅田天神社に納めて楯無鎧と称されたと記し、江戸時代の元文年間には青木昆陽(文蔵)が甲州を調査した際に鎧櫃を見聞し、これを契機に存在が知られ、観覧者が増加し盗難され破損する事件も発生したという。


 午後2時、俺たちは健康ランドにやって来た。露天風呂やジャグジーなど格別だった。風呂から上がり、駐車場に止めたキャンピングカー内でババ抜きやりながらドラマの話になった。

 4月 - 9月まで NHK連続テレビ小説『純情きらり』が放映される。主演は宮崎あおいだ。

 4月 - 6月 のドラマは『医龍-Team Medical Dragon-』(フジテレビ系木曜劇場)と『クロサギ』(TBS系金曜ドラマ)が流行ってる。

 ゲームは恵子が勝った。


 石和地区と春日居地区の宿泊施設や源泉位置が共に隣接していることから、同一の温泉街「石和温泉郷」として実質上一体化している。実際に道路標識では「石和温泉」「石和温泉郷」としか案内がされておらず、旅行雑誌などでも同一の「石和温泉」もしくは「石和温泉・春日居地区」などとして案内されている。春日居地区の「春日居共同源泉」が、石和地区の宿泊施設や療養施設に配湯されているケースも数軒あり、その逆のパターンも存在する。


 2000年代に入って以降、石和温泉駅周辺で栄えていた従来の温泉街から離れた郊外に、日帰り入浴施設や健康ランド、ビジネスホテルなどが建設された。これらの施設でも「石和温泉」と名乗っている。

 石和温泉郷で最初に開湯したのは日の出温泉で、1909年(明治42年)までさかのぼる。すでに中央本線が開通し、石和駅(現在の石和温泉駅)も開業していたが、日の出温泉は一軒宿と規模が小さく、知られざる存在であった。

 転機が訪れたのは高度成長時代の1961年(昭和36年)で、駅南側で温泉を掘削したところ突如として大量の温泉が噴出し、「青空温泉」としてマスメディアに紹介されたことで一気に知名度が向上した。その後石和地区、さらには春日居地区でも掘削が始まり、1964年(昭和39年)には春日居地区でも大量の温泉が湧き出るようになった。これを機に石和・春日居地区とも温泉街が作られ、それまで信玄の隠し湯として知られていた甲府市の信玄の湯 湯村温泉を凌ぐ山梨県最大規模の温泉郷となり、現在に至る。


 団体旅行の需要が多かったことから、石和温泉郷が発展するとともに歓楽街も作られ、宿泊者の盛り場となった。次第に風俗店も進出し、風俗街としての一面も見せるようになる。ただし宿泊者および来訪者のニーズの変化により歓楽街および風俗街としては縮小傾向にある。なお、歓楽街は石和温泉側に集中しており、療養機関や住宅の多い春日居温泉側にはあまり見られない。日の出温泉に至っては歓楽的要素は皆無である。


 石和温泉駅から笛吹川まで近津用水路を中央に、東西約1kmにわたり温泉街が伸びている。


 全盛期の宿泊施設は大小合わせて120軒超と、その規模は熱海に次ぐとも言われていたが、現在は50程度の温泉旅館が営業している。


 宿泊施設は団体客向けの大型施設から家族向けの旅館、純和風の高級旅館など様々である。以前は宿泊前提であったが、日帰り旅行向けの施設も増えてきており、健康ランドをはじめ有料の「石和源泉足湯ひろば」という足湯及び手湯も存在する。


 共同浴場は石和温泉駅を南下し、平等川を渡った市部地区に「石和温泉」という名前の浴場が1件存在する。

 

 推理作家、八角敦夫も石和温泉に来ていた。息子の勝男は知的障害者で30になるのに九九の掛け算も出来ない。八角はネットで知能指数が急上昇する楯無って鎧の存在を知った。

 

 4日、俺たちは街に繰り出した。

 🚉石和温泉駅は相対式ホーム2面2線を有する地上駅である。駅舎は鉄骨造り2階建ての橋上式で、敷地面積は約3,288平米、延床面積は約1,740平米ある。上下ホームそれぞれ1基のエレベーターが設置され、またホーム上に待合室がある。改札内に多機能トイレを備える。みどりの窓口(営業時間:8:00 - 18:00)、指定席券売機(営業時間:初電 - 23:50)設置。JR東日本ステーションサービスが駅業務を受託している甲府駅管理の業務委託駅。以前は直営駅で管理駅として春日居町駅を管理していた。


 南北自由通路は幅が約6 m、全長約40 mあり、北口開設前はこのうち約33 mが供用されている。南口にエレベータ1基とエスカレーター2基と多機能トイレ、北口にエレベーター1基を備える。

 特急列車は「あずさ」朝夕2往復と「かいじ」の全てが停車する。


 午前10時過ぎ、スーパーマーケット『石和サティ』にやって来て楯無について聴き込んだがめぼしい情報はなかった。

 1990年2月に『ニチイ石和店』として開店したが、1997年4月18日の業態転換に伴い『石和サティ』となった。

 石和温泉は笛吹市にある。俺はずっと石和市だと勘違いしていた。

 戦国時代の笛吹市、甲斐国守護職だった武田氏は、武田信虎の代まで石和館(現、甲府市川田町に所在)と呼ばれる居所があった。


 1508年(永正5年)10月27日 - 坊峰ぼうみね合戦。

 坊峰合戦又は坊ヶ峰合戦とは、永正5年10月27日に武田信虎と、その叔父油川信恵により行われた合戦および12月に信虎と小山田弥太郎とで行われた合戦である。

 江戸時代 - 石和代官所が置かれた。表門は八田家書院で有名な八田家に移築されている。


 室町時代後期から有力国人や守護代・跡部氏の専横により乱国状態であった甲斐国では、戦国時代に甲斐武田氏第16代当主・武田信昌が跡部氏を排斥することに成功するが、信昌は嫡男・信縄に対して次男油川信恵を寵愛し家督を継がせようとしていた。これに反発した長男武田信縄は延徳3年(1491年)6月信昌を隠居させ、事実上、武田氏の家督を継承した。この結果甲斐は両派に属する勢力で二分され戦禍に巻き込まれる事となる。


 明応元年(1492年)7月23日には市河(市川三郷町)において信縄と信恵派の栗原信遠が激突し、当初は信昌が支援する信恵の形成有利に進んでいたが、1494年頃から形勢が逆転し、1498年には信縄有利のまま一旦両者は和睦する。さらに永正2年(1505年)には信恵を支援していた信昌が死去する。


 ところが永正4年(1507年)2月14日には信縄が病没する。家督はまだ14歳の長男武田信虎(初名は「信直」)が継いだ。


 信縄が死去し、まだ幼い信虎が継いだことを好機と見た信恵は、勝山城において挙兵した。信昌三男で弟の岩手縄美の他栗原昌種、小山田弥太郎らも信恵に味方した。


 1508年(永正5年)10月4日、信虎方は本拠の川田館(甲府市川田町)から出撃すると勝山城を夜襲した。油川方は大敗し、油川信恵、岩手縄美、栗原昌種は討死した。


 同年12月、郡内領主の小山田弥太郎(信隆)は甲府へと侵攻し、坊ヶ峰にて信虎と対峙する。当初は小山田軍が有利に進めていたが深夜に信虎方に奇襲されて信隆が討死した。


 翌1509年から1510年にかけても小山田弥太郎の跡目を継いだ小山田信有(越中守)と信虎の戦いが続き、信直の妹を嫁がせる事で両者は和睦した。


 正午前、俺たちは八田家書院にやって来た。

 八田家書院は、山梨県笛吹市石和町八田(旧東八代郡石和町八田)にある歴史的建造物。八田家御朱印屋敷に付属する別棟書院である。八田家御朱印屋敷は山梨県の史跡に、書院の建物は山梨県の有形文化財に、それぞれ指定されている。なお、表門は石和陣屋から移築したものである。


 八田家は戦国時代には甲斐守護・武田氏の家臣で、家中の財政を担う御蔵前衆(蔵奉行)を務める一方で商業活動も行う在郷商人であったという。


 甲斐国八代郡八田村(山梨県笛吹市)に居住する。『甲陽軍鑑』では武田家の代官衆(御蔵前衆)として伊奈宗普(水上宗普)・諏訪春芳・八田村新左衛門尉・松木珪琳の4人の存在を記しており、このうち八田村新左衛門尉と松木珪琳が甲斐の商人として知られる。八田家の由来書によれば、晴信(信玄)期の末木正重の子である末木家重(淡路守)を始祖とする。家重は勝頼期には末木(笛吹市一宮町末木)の地を与えられ、末木姓を名乗ったという。家重は天正9年頃に家督を嫡男の政清に譲り隠居し、武田氏滅亡後の天正15年(1587年)3月以前に死去している。末木政清(東市佑)は天正10年(1582年)の武田滅亡後、甲斐を領した徳川氏に臣従し、慶長年間に八田姓に復した。政清は徳川家康から諸役免許状(朱印状)を受けて安堵され、有力郷士となる。ほか、家重の子(政清の弟)もしくは正重の子(家重の弟)とされる末木新左衛門尉(八田村新左衛門尉)がいる。


 屋敷地は甲府盆地東部、標高273メートルの沖積低地上に位置する。笛吹川の旧河道沿いで、八田家書院の南には甲州街道が通過し、街道沿いには石和八幡宮や日蓮宗寺院の遠妙寺(ともに笛吹市石和町市部)などが所在している。江戸時代の絵図によれば八田家屋敷は規模が大きいものの、現在では多くの郭群は宅地化されており、八田市之丞屋敷地が残る。屋敷跡は東西120m・南北150mの変形方形。周囲は濠、東側一部と北側には幅7~10mの土塁と堀が築かれている。屋根は茅葺の入母屋造。


 屋敷内の邸宅などは、武田氏滅亡の際に焼失したという。江戸時代後期の安政6年(1859年)には、八田家の南を流れる笛吹川において水害が発生し、その影響を受けて書院に仮設した建物が主屋となっていたが、近代には1940年(昭和15年)に再建された。書院は主屋の南側に位置し、江戸初期の建物。築造年代は同家に所蔵されている『永々日記』寛政4年(1792年)条や、八田家の菩提寺である真言宗寺院・願念寺(笛吹市石和町八田)の書付から慶長6年(1601年)であると判明する。


 1961年(昭和36年)12月7日には八田家書院が山梨県指定有形文化財(建造物)に指定され、土蔵棟札と古記録4点(「永々日記」「家政歴年誌」「地相図面」「八田村古絵図」)が附(つけたり)指定となっている。1969年(昭和44年)11月20日には八田家御朱印屋敷が山梨県指定史跡となった。


 書院の間取りは西に奥の間、中央に中の間、東に三の間の東西三列、および玄関から構成される。総じて簡素な意匠であると評され、上級武士を招いた記録のあることから接客や応待の場であったと考えられている。

 

 書院を出てルミエール旧地下発酵槽に赴いた。笛吹市一宮町南野呂にある、現存する日本最古のヨーロッパ型横蔵式ワイン醸造専用の地下発酵槽、および半地下貯蔵庫である。1901年(明治34年)に施工建築されており、「再現することが容易でないもの」として、1998年(平成10年)4月21日に、国の登録有形文化財に登録された。🍷


 日本最古のワイン醸造用地下発酵槽のあるルミエールワイナリーは、甲府盆地の東部に点在する扇状地のひとつである、京戸川扇状地の下部中腹にあり、周囲をブドウ畑に囲まれた標高約360メートルの傾斜地に位置している。


 ルミエールワイナリー(旧社名、甲州園)は、1885年(明治18年)当地南野呂の旧家、降矢ふりや家の降矢徳義とくぎにより、勝沼を中心とする甲府盆地東部一帯で江戸時代より栽培される甲州ブドウを利用した葡萄酒の製造・販売を営む降矢醸造所として創業された。


 その後、2代目である降矢虎馬之甫(こまのすけ)により1894年(明治27年)企業体に改組され、生産量の拡大および販路の開拓が行われ、以降屋号を「甲州園」として長年にわたり葡萄酒醸造業を営み、1992年(平成4年)に同社のワイン商標「ルミエール」に社名変更し今日に至っている。


 同社の立地する京戸川扇状地の傾斜地は、水はけが良くブドウ栽培に適していただけでなく、扇状地の地中を流れる伏流水による地下水を利用した天然の冷却効果を得られることから、定温性に優れた地下式のワインセラーやタンクを造成するのにも適しており、2代目虎馬之甫自らヨーロッパ式の石蔵発酵槽を参考に設計し、また神谷伝兵衛(シャトーカミヤ・神谷バーの創設者)の指導を受け、1901年(明治34年)4月に、扇状地の傾斜を利用した日本初のヨーロッパ型横蔵式ワイン醸造専用半地下貯蔵庫、地下発酵槽が建設された。


 この発酵槽は主に赤葡萄酒の発酵に使用され、大量の原料ブドウを投げ入れ、発酵後職人が槽の中に入り、手作業でブドウを破砕して仕込みを行っていた。


 その後、金属製醸造タンクの普及に伴い、地下発酵槽は使われなくなった時期があったが、登録有形文化財の登録を契機に、地下発酵槽での醸造が再び行われるようになった。


 4日の夜、俺は泥酔して自殺しようとしていた富豪を助ける。富豪は俺を命の恩人として宿『風雲荘』に呼び、酒を酌み交わす。富豪の名前は八角敦夫といった。


 しかし翌朝、酔いの醒めた八角は昨夜のことをすっかり忘れていて俺を追い出してしまう。その夜、また酒に酔った八角と街で偶然再会すると彼は俺を覚えていて歓待し、朝まで店で飲み明かす。朝になって宿に戻ると、その宿の近くの街角で聴覚障害の娘が体を売っている。俺は八角から金をもらうとその金で聴覚障害の女に洋服を買ってやった。

「こんなことはもうやめろ」

 八角の高級車に娘を乗せて家まで送り、手を握って別れる。女は義経を親切な金持ちと思い込んで慕うようになる。

 娘の名前は蘇我紫乃そがしのといった。

 

 6日早朝

『風雲荘』で八角敦夫が殺害されてバッグが奪われる事件が発生。八角は十数カ所を鈍器のようなもので殴られ、首を絞めて窒息死したようだ。

 俺は偶然、キャンピングカーで八角の書いた『藤の牛島殺人事件』を読んでいた。笛吹市内のコンビニで車中泊した。

 時代は第3次世界大戦開戦後の2025年。情報局の関係者が、「SかM。悦楽苑」という言葉を残して死んだ。 一方子供も戦時下の奉仕活動に携わるようになる中、手持ち無沙汰にしていた足利甲斐の元に、悦楽苑が藤の牛島にあるラブボの名前であることを知った情報局の職員、『桜樹達也』が訪れ、足利甲斐を追い出したうえで中森陽菜に、大物スパイとされる"SかM"の正体を突き止めるように命じた。

「性癖のことかと思ってたわ」と、陽菜。

 ところが偽名で捜査に乗り出した陽菜が見たものは、そのことを知った甲斐が先回りし変名を用いて『悦楽苑』に来ているという予想外の状況だった。 かくして、甲斐と陽菜はセフレであることを悟られぬようハラハラしながら生活を送るのだった。


 高校生の時、藤の牛島に行ったことがある。

 藤の牛島駅は、埼玉県春日部市牛島にある、東武鉄道野田線(東武アーバンパークライン)の駅である。駅番号はTD 11。

 駅の近くに牛島のフジがある。埼玉県春日部市牛島にあるフジ(ノダフジ)の巨木。国の特別天然記念物に指定されている。フジ(ノダフジ)の栽培品種「ノダナガフジ」(別名:紫長藤)の原木であり、その総状花序の長さから栽培品種として「九尺藤」とも呼ばれている。


 春日部市街地東方、利根川の旧流路の名残りである大落古利根川の左岸、標高約6メートルの中川低地に位置しており、現在は周囲を住宅地で囲まれている。牛島のフジは紫フジの巨木であり、園芸品種としては日本最大のもので、全体の根回り9.2メートル、総面積700平方メートルに及ぶ藤棚の枝張りは東西約34メートル、南北14メートルである。ヤマフジに似ているが、ヤマフジは上から見てつるが左巻きなのに対して、フジ(ノダフジ)は右巻きで無毛であるため区別できる。


 毎年4月下旬から5月上旬にかけて開花し、花の最盛期には総状花序の長さが最長2メートルにも達し、多くの見学者でにぎわう。明治時代には総状花序の長さは約3m近くもあったという。樹齢は1,000年とも1,200年とも言われ、伝承によると弘法大師(空海)御手植えと伝えられている。当所は元真言宗寺院、連花院の境内であったが、1874年(明治7年)に廃寺となり、その後何度か所有者が変わったが、現在は所有する小島家による有限会社藤花園により管理公開されている。1928年(昭和3年)1月18日に国指定の天然記念物となり、1955年(昭和30年)8月22日には特別天然記念物に格上げされている。また、1989年(平成元年)には新日本名木百選に選定されている。2000年(平成12年)5月5日には、埼玉新聞社の「21世紀に残したい・埼玉ふるさと自慢100選」に選出された。

 

 鎧は上田市にあるって噂もある。また、岐阜にあるって噂もある。  

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