第4話 三度目の火曜日とこれからの火曜日

 夏耳かじは、赤く染まった空を見上げて小さくため息を吐いた。綺麗に晴れあがった空は、十一年前、秋声と別れたあの日を思い出すから嫌いだ。

 基地を出たときには真っ白だったセーラー服は、獣の返り血で全体的にほんのり赤く染まっている。辺りは静寂に包まれていて、生き物の気配はない。獣を殺したばかりの二刀から血をはらって、同時に鞘に戻す。

 じじ、と耳に直接ノイズが走って、夏耳は空を見たまま意識だけ音声に向ける。

「夏耳、そこから九時方向に二百メートル。敵……ではないかも、だけど、何かが居る。確認できる?」

 了解、と短く答えて、足のギアを入れ替える。カチン。頭の中で幻想の音がして、自分が人間から一歩遠のいたのが分かる。カチン。もう一歩。足を踏み出した瞬間、夏耳はすでに、人間の目で追える速度ではなくなっている。

 獣を殺すために、自分が獣に近づいていく矛盾。

 擦り切れそうな思考回路も、自分が走る速度に置いていかれてすぐにうやむやになった。

 二百メートルをほんの数秒で駆け抜けて、敵影と目される物体の直前で完全に速度を殺す。夏耳たち前衛の兵士が身を隠すために人工的に植えられた木の陰から、推定敵生命体の様子を窺う。

 カチン。

 勝手に、ギアが切り替わって人間に近づく。その物体には──には、そういう力があった。

 カチン。

 もう一段階、人に近づく。息が震えた。獣でも、訓練された兵士でもなく、平和な世界でくだらない日常に命をかけていた、あの頃の夏耳が顔を出す。

 あの夜、どこの世界でも変わらない姿に、救うつもりで救われた。

 熱が出た日には、飲み込んだ寂しさをくみ取って、熱が下がるまでずっと傍に居てくれた。

 遠足の時には、真っ先に駆け寄って隣でお弁当を広げた。

 中学に上がって友達が増えても、変わらず接してくれることに安心した。

 馬鹿なことをやるたびに、しょうがないなって言いながら、一緒に笑ってくれるのが嬉しかった。

 いつもぶっきらぼうなのに、大事なところでは誤魔化さずに言葉にしてくれるところが好きだった。

 大好きで、大切で、守りたくて、傍に居たくて。でも、守り切れずに、あの日、さようならをした愛おしい人。

 姿を確認した瞬間走っていた。人間のまま、走っていた。今日の日付を思い出す。あの夜から三度目の、八月十六日に火曜日が重なる日。

 痛みだらけの世界と、平穏で優しい世界が、ほんのわずかに交わる日。

「秋声!」

 名前を呼ぶ。あの日から今日まで、何度も心の中で唱えた、大切な名前。心の中で何度呼んでも返事がなくて、そのたびに苦しくて、痛くて、涙をこらえた。

「なんだ」

 その、たった三文字で、こらえた涙がぜんぶ、やわらかく溶けていくのが分かる。

「しゅうせい」

 駆け寄って、抱きしめて、もう一度名前を呼ぶ。二人分の体温が混ざり合って、境目も分からないくらい同じになるのが、あの夜みたいで懐かしかった。嬉しくてたまらないのに、目から涙が止まらない。

「いつの間に、そんなに泣き虫になったんだ?」

 ふ、と秋声が笑う。笑ったまま、頬を思い切りつねられた。

「いひゃいよ」

 文句を言えば、もともとぶっきらぼうな顔が余計にしかめっ面になった。こんなに不機嫌な顔を見るのは初めてだ。

「この大馬鹿者」

 夏耳の頬を両手で思い切り左右に引っ張ったまま、秋声は言葉を続けた。

「なーにが、さようならを言えて良かっただ、馬鹿」

 秋声の目が薄く涙の膜を張る。傷つけたのだとようやく理解して、心臓がぎゅっと痛んだ。ごめん、と口にしようとしたけれど、秋声が先にさらに強く頬をつねるものだから、うまく言葉にならなかった。

「ごめんもすまんもすみませんも申し訳ないも聞かない。受け取らない。許さないから覚悟しろ、女装大馬鹿野郎」

 じっとりと睨んでくる秋声は最後にとんでもない悪口を言ってから、ようやく頬を放してくれた。両頬はすっかり熱をもって、じんじんと痛む。さすっていたら、秋声が突き刺さるような強さでこちらを見ていた。首を傾げながら、視線を合わせる。秋声はあの日より少しだけ背が伸びたらしく、見上げる形になった。

「夏耳、あの日の会話をやり直そう」

 秋声の言葉は唐突だった。でも、どれのことかは明確だったから、迷うことなく口を開く。あの日と同じように、まっすぐに秋声を見つめた。

「君はいま、生きていて、たのしい?」

 同じように問いかける。あの日のことは、ほんの少しも色あせないまま、ずっと夏耳の中にある。

「あぁ、たのしいよ」

 記憶を塗り替えるように、秋声が答える。曖昧な答えじゃなく、断言してくれたことが嬉しかった。それだけで──

、毎日、すごくたのしい」

 両目を見開いて、秋声を見る。じわじわとその姿が滲んでいく。誰に確認しなくても、自分が泣いているのだと分かった。頬を熱い液体が滑り落ちていく。

 あぁ、いつも。

 いつもこうして、秋声は夏耳の押し殺した願いまで掬い上げて、叶えてくれる。

「だから、もうどこにも行くな。さようならを言えて満足なんて、言うな」

 射抜くように見つめられて、震えた吐息で名前を呼ぶ。涙が熱かった。心臓が熱かった。ちゃんと見たいのに秋声の顔がぼやけて見えないのが悔しかった。

「ちゃんと欲しがれ。くれてやるから」

 ぎゅっと、強く、秋声を抱きしめる。背中に優しく手が回る。本当はずっとこうしたかった。ずっとこうして欲しかった。

「いっしょにいたい」

 押し殺した欲が首を擡げて、口から音になって飛び出していく。

「うん」

 秋声はそれを優しく頷きながら聞いてくれる。

「君のいちばんがほしい」

「おう」

「さようならより、またねって言いたい」

「うん」

「手を繋いで歩きたい」

「いいぞ」

「ちゃんと抱きしめてほしい」

 そう言えば、背中に回る腕に力が入る。それでも、まだ全然弱くて、優しくされているのが分かってくすぐったかった。

「好き、って、言ってもいいかい?」

 肩に額を擦りつける。秋声は吹きだすように笑って、低く、掠れた声で許しをくれた。

「好き」

 本当はずっと、溢れそうなくらい、好きだった。ちいさな仕草のひとつひとつが、愛おしくてたまらなかった。この世界のあなたと似ているところ。違うところ。探すたびに、好きになった。ずっと、ずっと、言いたくて、でも壊してしまうのが怖くて言えなかった。

「うん」

 優しく、背中を撫でられる。

「俺も好き」

 優しい声が、落ちてくる。

 幸せにもしも形があったら、私のそれはたぶん、秋声の形をしている。秋声が少し体を離して、額と額がくっつく。柔らかく髪が混ざるのがくすぐったくて、思わず笑った。

「約束しよう、夏耳かじ

 あの夜の夏耳のように、秋声が言う。

「俺たちは、何度、八月十六日が火曜日に重なっても、それでもずっと、一緒に居よう」

 止まりかけた涙がまた溢れだして止まらなかったけれど、それでも笑って頷いた。

 こんな幸せな約束、他にない。

「うん、約束だ、秋声」

 差し出された小指に、自分の小指を絡める。あの夜と同じように、あの夜とは真逆の約束を交わす。秋声の部屋にあった十一年分のカレンダーを思い出して、夏耳はうれしくなって少し笑った。


 だって、今度の予定は、十一年分のカレンダーでも書ききれない!

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