第3話 一度目の火曜日
その日、俺は、小さな両手に抱えていた全てのものを失った。
坊主の読経を静かに聞いているのは、ようやく八歳になったばかりの少年には拷問に近かった。
秋の声、と書いてしゅうせいと読む風流な名前を授かった少年は、座り込心地のいいとは言えない椅子の上で、両足をぷらぷらと揺らす。その隣に居るのは、両親ではなく、何度か会ったことがあるだけの母の妹だ。少年は退屈なお経に飽きて、小さく欠伸をしてから、黒い服に身を包んだ叔母の手をそっと引いた。
「ねえ、お母さんは?」
その問いに、叔母は息をのんで目を潤ませる。どうやらまずいことを聞いたらしいと気が付いて、秋声は答えの前に問いをかえる。
「じゃ、お父さんは?
けれども、叔母はさらに目を潤ませて泣くばかりで、一向に秋声の欲しい言葉をくれなかった。秋声は仕方なく、退屈なお経を聞く体勢に戻る。けれども、やっぱりそれは耐え難い時間で、秋声はいつの間にか、眠りに落ちていた。
次に目を開けたとき、秋声はいつも自分が寝ている布団の上に寝そべっていた。服はまだ、出かける前に着せられた黒い堅苦しい洋服のままで、むぅ、と知らず唇を尖らせる。どうにか脱ごうとしたけれど、まるまるとした指先では小さなボタンを外すことが出来なくて、さらに唇を尖らせる。いつもなら、この辺りで、秋声が起きたことに気がついた母親がやってきて、そっと手助けしてやるところだが、今日はそれもなかった。
しばらく半透明のボタンと格闘した秋声は、結局着替えを諦めて、投げやりに布団の上に寝そべる。気分的には、もーいいよ、ばか、と言ったところだ。
むしゃくしゃする気持ちのまま、寝室の扉を開いた。普段ならエプロン姿の母と、小さな白いお猪口を傾ける父と、父の膝に座って何かを食べている小さな妹がいるはずのダイニングは、がらんどうだった。
真っ暗で、人の気配がない。
ならば、とリビングに視線を向けたら、そこは電気が付いていた。とてとてと小さな足で、お気に入りの小さなタオルケットを抱えたまま、秋声は母を求めて明かりの方に走る。でも、わずかに開いた襖の隙間から見えたのは、母ではなく、叔母とその夫だった。
「やっぱりうちで引き取るのが……」
「……はどう言うだろう……」
漏れ聞こえてくる声は深刻そうな響きで、聞いているだけで不安がもくもくと湧いてくる。秋声はそれ以上、その会話を聞いていたくなくて、そっと静かに背を向けて、そのまま真っすぐに玄関から外に飛び出した。
たとえ、壁に見慣れたシミがあっても。
春音が描いてしまった落書きがあっても。
お気に入りのタオルケットがあっても。
母と、父と、小さな妹の居ない場所は、秋声にとって、我が家ではなかった。
きっと、みんな、どこかに隠れてるんだ。
そう思って、秋声は色んなところを探し回った。春音が通っている保育園、秋声が好きな公園、よく保育園のお迎えの帰りに寄る駄菓子屋さん。どこに行っても、家族の姿はない。
日の落ちた暗い世界はまるで知らない場所のようで。
家族の居ない世界ではまるでひとりぼっちのようで。
「おかあさん」
か細い声で、秋声はこの世で最も、信頼できる人を呼ぶ。
返事はない。
いつもなら、それがどんなに小さな声だって、例えば声にならないような小さな音だって、気が付いて振り返ってくれるのに。目を合わせて、優しい声で返事をしてくれるのに。じわり、と丸い瞳に涙が滲む。
「そうか。君はやっぱり、こんな平和な世界でも、どうしようもなく、全てを失うんだね」
聞こえてきたのは知らない声だった。女の人かも、男の人かもよく分からない不思議な声だ。秋声はパッと振り返って、その人を見上げた。
まず目に入ったのは紺色のスカートだ。その次が白い服。水色の襟。真っ赤なスカーフが吹いた風に揺れている。そのさらにうえに、真っ白い顔が乗っかっていた。目が合うと、その人は柔らかく笑って、秋声の前にしゃがみ込む。
「やあ、初めまして、秋声くん」
はじめまして、と言いながら、その人は秋声の名前を知っていた。こてん、と首を傾げて秋声はその人に言葉を返す。
「あなた、だれ?」
その人は、一瞬目を見開いて、それからぎゅっと眉を寄せた。不機嫌そうな顔だ、と初めて見るのにすぐに分かって、慌てて秋声は「ごめんなさい」と口にする。
誰なのか覚えていないけれど、たぶん、会ったことがある人なのだ。それで、秋声が覚えていないことに、腹を立てているのだろう。怒られるのは怖いから、先に謝って、恐る恐る、秋声は顔を上げた。
もう一度目が合うと、その人は水滴を含んできらきらと光る目で柔らかく笑った。
「怒ってない、怒ってない。ごめんね。君が覚えていないのは、当たり前のことなんだけど、ちょっとだけ、本当に少しだけ、それが寂しかったんだよ」
その人は早口で、何を言っているのか秋声にはひとつも分からなかった。
「あぁ、ごめんね。気にしなくていい。そうだな、自己紹介をしようか」
その人は秋声の頭をぽんぽんと撫でて、それから今度はゆっくりと言葉を吐いた。
「私の名前は
「ともだち?」
「そう。友達。そういうものに成れたらいいなと思って来たんだ。君が傷だらけにならないように、君が擦り減らないように、君の盾に成れるように」
その人の声はまた早口になって、よく分からなくなった。
「いいよ、分からなくて。ただ、忘れないで」
細い手が頬をなぞる。
「君はひとりなんかじゃあない」
冷たい肌にその人の温度が浸み込んで、温くなっていく。
「私が──」
言葉の続きは、その人の喉の奥に飲み込まれた。元々白かった顔はより青白くなって、額には汗が浮かんでいる。思わず駆け寄ってその背をさすれば、さっき熱かった肌が今度はすっかり冷え切っている。
「かじ、だいじょうぶ?」
顔を覗き込んで、背中をさすり続ける。少しでも、この冷え切った体に自分の熱が移ればいいと思った。夏耳は青白い顔で、それでも笑った。
「君は、ほんとうに、どこに居ても、変わらないね。誰かに手を差し伸べることをやめられない。その優しさが、私はいつもうらめしいよ、秋声」
眉を寄せて言葉を吐いたと思ったら、夏耳はそっと秋声を抱き寄せた。冷たい体に包まれて、秋声の熱が夏耳に移って、夏耳の温度が秋声を冷やして、境目も分からないくらい、同じ温度になる。
「でも、そこがいちばん愛おしい。だから、君は、そのままでいいよ」
囁くような声だった。言葉より、抱き寄せられた手の優しさの方が、秋声にとっては嬉しくて、冷たいのに温かくて、涙が出た。そっと体が離れて、額が合わさる。
「私が、君の盾になるから。君が、そのままで、生きていけるように」
すぐ近くで覗き込んだ瞳はまんまるで、真っ黒で、簡単には逸らせない。吸い込まれそうだと、漠然と思った。
「その、つもりだったんだけどなぁ」
不意に、夏耳は体を反らして、月を見上げた。心底憎らしそうに、夜空を睨みつける。それから秋声に視線を戻して言葉を続けた。
「この世界は、私が居た世界よりも、異物に敏感らしい」
秋声はやっぱり夏耳の話をうまく咀嚼できなくて、首を傾げる。その頭を撫でて、夏耳はさらに言葉を重ねた。
「まあつまり、このままだと、私は世界から異物として排除されてしまうわけだ。君を、ひとり残して、ね」
「かじ、居なくなっちゃうの?」
夏耳は、微笑んで首を振った。
「居なくなったりしないさ。それじゃあ、私がここに来た意味がない。でも、君はきっとすぐに私のことを忘れるだろう」
「忘れなくちゃ、だめ?」
「うん、だめ。そうでないと、私の魔法は上手にかからないんだ。今の私を君が覚えていると、世界もそれを記憶してしまう。でも、君が綺麗さっぱり忘れれば、世界の方もとりあえずは、今日の私のことを忘れてくれる」
夏耳は早口に続ける。
「それから、また誰かに見つかってしまう前に魔法をかければ、私は異物としてカウントされなくなるってわけだ。わかるかい?」
夏耳の問いに秋声は素直に首を横に振った。何を言っているのか、まるきり分からない。学校でやる英語の歌の方がまだ簡単だ。
「はは、いいよ。いいんだ。ただ、私が君を子供扱いしたくなかっただけ。ほら、君はずっと、私の兄を気取っていたわけだしね?」
夏耳は秋声の頭をそっと撫でて、目を細めた。その目があんまり優しいから、秋声は分からないままで頷いた。
いいよ、と思う。
そんなに優しい目をする夏耳のすることなら、きっと、ぜんぶ、自分のためなのだろうと、そこだけは理解した。
「ありがとう。じゃあ、話を戻すけれど、魔法をかけて世界を誤魔化し続けるとしたら、私の持ってきた魔力はきっと、そう遠くないうちに無くなってしまう。そうしたら今度こそ、世界は私を見逃さないだろう」
「かじが居なくなっちゃう?」
「うん。居なくなっちゃうよりも、もっと酷いかもしれないな。消えるんだ。君の記憶からも、世界の記憶からも、誰の心からも、みーんな、私が居た痕跡が綺麗さっぱり消えてしまう」
肩をすくめてみせる夏耳に秋声は、ぎゅっと自分の肩を抱き寄せた。
「それは、さすがにちょっと不味いからね。なんせ、私の命は君に拾ってもらったものだ。なるべく長生きしないと困る」
夏耳はまっすぐに秋声を見た。
「だからね、秋声」
ひとつ、声が低くなる。
「約束をしよう。十一年後、また八月十六日が火曜日に重なる日、私は君にさようならを言う」
小指が差し出されて、秋声はその細い指と夏耳の顔を見比べる。お別れの約束なんて、これまでしたことが無かったから、どうしたらいいのか分からない。
「約束して、秋声」
夏耳は小指を差し出したままで、待っている。
「じゃ、じゃあ、かじもやくそくして」
やけになって、秋声は叫ぶ。お別れだとか、消えちゃうだとか、そんな悲しいことじゃなくて。
「それまで、ずっと、いっしょだって、やくそくして!」
別れるときには絶対またねって言うだとか、喧嘩をしてもちゃんと仲直りするだとか、そういう優しい約束が欲しかった。ずい、と秋声も小指を差し出す。夏耳は少し面食らったように、目を見開いていたけれど、驚きが去ると顔全体でにっこりと笑った。花が綻ぶような笑みだった。
「うん。いいよ、約束しよう、秋声」
そっと小指を絡める。
「私たちは、別れの日まで、ずっと一緒に居る」
たとえ、この夜の他の全てを忘れても、この約束だけは忘れないように、秋声はじっとその小指を見つめた。
「じゃあね、秋声。十一年後、八月十六日、火曜日」
「かようび」
「そう。その日付、その曜日に、ちょうど私の世界と君の世界が繋がるんだ。君の家の近くにある、寄神神社でね」
「よがみじんじゃ?」
「寄る辺の神様、世界を繋ぐ門」
言いながら、夏耳は胸元から取り出したメモ帳にさらさらと約束の日時を書いていく。
『八月十六日、火曜日、寄神神社、よる四時』
渡された紙をじっと見つめる。
「これは、きっとすぐに白紙になっちゃうだろうから、帰ったら別の紙に君の手で書き直して」
こくりと頷きながら、秋声は受け取った紙を大事に握りしめる。夏耳は名残惜しむように、最後にもう一度だけ秋声の頭を撫でた。
「じゃあね、秋声。きっと、すぐに会いに行くよ」
囁くような声で、目を覚ます。どうやって帰ってきたのか、まるで定かではないけれど、そこはいつもの自分の部屋だった。はあ、と深く息を吐きながら、額を押さえる。
突然いろんなことを思い出したせいか、頭が痛かった。それでも、忘れないうちにとあの夜に聞いたことをノートに書き連ねていく。情報を整理して、やるべきことを明確にする。
目的地は明確だ。
あとは道筋さえわかれば、歩き始められる。ぎり、と奥歯を噛みしめたら、シャー芯が勢いよく折れてノートの上を転がった。小さな痛みが胸を軋ませる。それは徐々に大きく、強い痛みになって、耐えられなくて、目を閉じた。
あの夜、頭を撫でてくれた手の力加減を、温度を、声を、秋声はもう覚えていない。夏耳と過ごしてきた多くの日々も、そのほとんどがもう朧気だ。あまりにくだらないことばかりの日々だったから。当たり前だと、思っていたから、日記もつけないままだった。痛みを飼いならして、目を開ける。見えない誰かを探すように、ノートを睨んだ。
「首を洗って待ってろよ、女装大馬鹿野郎」
呟いて、席を立った。
やらなくてはいけない事は多い。考えなくてはいけないことも、山ほどある。でも、真っ先にやることは、もう決まっていた。
手書きで、十一年分のカレンダーを作るのだ。
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