第2話 二度目の火曜日

 俺は今日、生まれて初めて『穴があったら入りたい』気持ちを完全に、完璧に理解した。

 正直、死ぬまで理解したくなかったというのが本音だ。深くため息を吐く俺とは対照的に、俺の手を引く幼馴染は上機嫌だ。さっきまで全開だった不機嫌はすっかり仕舞いこまれ、今はすっかりご機嫌に鼻歌を歌いながらリズムよく階段を下っていく。

 俺が住まわせてもらっている家は、二階にふたつの子供部屋と客間、叔母さん夫婦の寝室がある。客間の前の階段を下り切ったさきはリビングで──。

 リビング?

「ま」

「あら、夏耳かじくん。こんにちは」

 制止する間もなく、女装野郎はリビングに突入し、隠れる間もなく、俺は家主と対面することになった。

 一瞬遅れて俺たちの奇妙な格好に気が付いたらしい叔母さん──夏耳かじの奇行に慣れ過ぎている──は一瞬目を丸くしたあとで、そっと笑った。その目の生温さと言ったら、三歳児の支離滅裂な発言に困り果てる従姉妹よりもずっと酷かった。

 いっそ爆笑でもしてくれた方がマシだと思うくらいの優しい対応に、穴があったら入りたい気持ちが五倍になる。

 本当にまったく勘弁してほしい。

「二人はおでかけ?」

 叔母さんは何も言わずに、小さく首を傾げる。

「そうです、そうです。執念のカレンダーに記されてた唯一の予定を完遂しに行くんです」

 俺の代わりに女装野郎は勝手に答えて「ね?」と振り返ってくる。こいつ、女装に引っ張られて言動まで女の子に寄ってないか。現実逃避のようにジト目で観察してみても特に俺の羞恥が薄れることもなく、適当に頷いて繋がれたままの手を引いた。

「遅くなったら、迎えに来てくださいね! 寄神神社に居ますから」

 俺に手を引かれるままに歩きながら、ふと夏耳は振り返って、叔母さんに親指を立てた。それがお願いする態度か、と頭を叩いてから、叔母さんに頭を下げて家を出る。

 時間的に夕方とはいえ、まだ日差しは強く、気分的にはほぼ真昼間だ。端的に言えば暑い。女装野郎に着せられた学ランは黒いうえに長袖なので、それはもうめちゃくちゃ暑い。

 せめて上着だけでも脱ごうと襟元に手をかけて、これを着た時のこいつの嬉しそうな顔を思い出してそっと手を下ろす。どうせ、神社に行って帰ってくるまでの間だけだ。暑くても、我慢できないほどじゃない。

「ねえ、秋声」

 呼ばれて、視線をあげる。俺の手を引きながら顔だけで振り返った幼馴染を、俺はどこか遠くに感じた。

「君は、いま、楽しいかい?」

 唐突な問いかけに思わず、瞬きを繰り返す。

「どうした、急に」

 そんな、似合わない真面目な顔をして。そんな、十年も先を生きてるお姉さんのような雰囲気を出して。

「いいから。ちゃんと、正直に答えて」

 夏耳は足を止めて、真正面から俺の目を見据える。その黒い瞳は、吸い込まれそうなくらい真っすぐだった。蝉の鳴き声が不意に、遠くなる。世界に、こいつと二人きり、みたいな。

 薄ら寒い想像にぞっとした。

「君はいま、生きていて、たのしい?」

 視線を逸らして、少し考える。ちゃんと、正直な気持ちを捕まえようとする。

「……たの、しい、ような気がする……?」

 疑問形で返せば、案の定幼馴染は唇を尖らせた。

「むぅ、曖昧だなァ。ま、いいか。辛くはないみたいで安心したよ」

 そう言って、夏耳は前を向いた。また俺の手を引いて、ふらふらと歩き出す。

 家の前の通りをまっすぐに突き辺りまで進んで、右に曲がればすぐに寄神神社が見えてくる。いつもはお喋りっていう概念がそのまま形になったような奴なのに、夏耳はあれきり一言も喋らない。ただ黙って、俺の手を引いて、神社に繋がる階段を登っていく。

 ゆらゆらと揺れる黒髪も、膝丈の紺のスカートも、見覚えなんてあるはずがないのに、こうして歩くのは初めてではない気がした。ずっと前、もう、覚えてもいないくらい幼い頃に、赤いスカーフを見たような。

『君は、ひとりなんかじゃあない』

 柔らかく響く、その声を、俺は、確かに知っている。

『君はきっとすぐに、のことを忘れるだろう』

 そう言って、少しだけ悲しそうに笑ったその人を、俺は、確かに覚えている。

 階段を登り切る。するり、と掴み損ねた記憶のように、夏耳の手が離れていく。思わず手を伸ばしたけれど、俺の手が届く前にそいつは二歩前に進んだ。そのまま鳥居をくぐって、賽銭箱の奥に回り込む。

「おい。お前、なにして」

 るんだ、と続けようとした声は喉から出なかった。

 目の前には、海があった。より正確に言えば、賽銭箱の奥にある本殿の戸を開いたさきに、海があった。想像するよりもずっと軽い動作でその戸を開いた夏耳は、淡く夕暮れに染まった砂浜に足を踏み出そうとして。その前に、俺の方を振り向いた。

「おまえ、は」

 声が勝手に震える。夏耳の両目には涙の膜が張っていて、それが光を反射してきらりと光る。

「君は、私の全てだった」

 小さな独白が落ちる。

「痛いことと、苦しいことと、寂しいことしかないあの場所で、君だけが、私を照らしてくれた」

 そんなのは、知らない。

「君だけが、私に、温度をくれた」

 そんなこと、俺はしていない。

 夏耳は一度短く息を吸って、それから目を細めた。まるで、俺が光そのもので、その光が眩しくて仕方がないみたいに。

「でも私は、君を救えなかった。私の世界の君は、悪意と敵意の間ですり潰されて死んでしまった」

 夏耳の声に、ほんの小さな怒気が混じる。

「そう、私の世界の君は死んだ。たくさん苦しんで、痛い思いをして、それでも何も救えずに。何の救いも得られずに。」

 どこかの世界の自分を想像する。それは物語のなかのキャラクターみたいに現実味がなかった。

「でも、そんな終わりは馬鹿げている。そんな終わりがあっていいはずがない。だから、私は命を賭けて、君に会いに来たのさ」

 おどけるように、夏耳が肩をすくめる。夕暮れの角度が増して、その顔に濃い影が落ちる。ゆっくりと夏耳は言葉を紡ぐ。

「秋声、私はもう、君の前から消えてしまうけれど、どうか、忘れないで。

君の人生には、君の、輝かしくも辛いことで溢れているだろう未来には、誰かが、命を賭ける価値があるんだって」

 遠くで、四時少し前から始まる地区内の放送が流れ出す。目の前の光景も、夏耳が語る話も、何もかも現実味がないのに、そんなのはいつも通りの日常で。

 そのちぐはぐさが痛かった。

 これは、夢でも何でもないと、突きつけてくる音が憎らしかった。

「あぁ、もう、本当に時間だ」

 夏耳が放送を追うように、視線をあげる。

「これで、本当にさようならだ、秋声」

 ゆっくりと夏耳の細い指先が伸びてくる。温かさも、冷たさも感じない、境目すら曖昧な同じ温度。

「あぁ、良かった。……さようなら、やっと言えた」

 頬に触れていた感触が消えて、掴もうと伸ばした手は空を切って、夏耳は嘘みたいな海岸線に消えていく。音もなくゆらぐ波の合間に消えていく。その背中が見えなくなっても満足気に微笑んだ顔だけが、網膜に焼き付いている。

 さようならが言えてよかった、なんて。そんな馬鹿げたことを、心の底から言ってみせた声だけが、鼓膜に張り付いている。

 ひとりでにしまった戸の前で蹲る。涙が静かに頬を滑り落ちる。絞り出した声は掠れて震えていた。

「馬鹿野郎……!」

 ――ありがとうくらい、言わせてくれよ。

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