触覚を研ぎ澄ましたい男

eLe(エル)

悪魔の取引

 悪魔は一人の不幸な男を探していた。


 今日も取引を持ちかけようと手当たり次第眺めていると、一人の小太りな男に行き着いた。


 男は四十代だが平社員で、いわゆる仕事が出来ない男だった。物覚えも悪く、何をするにも非効率的。優柔不断でその癖危機感もないから、大した金も持っていない。


「おい、お前」


「え? 私ですか?」


「あぁ。俺は悪魔だ」


「はぁ」


 男は驚く様子もなく悪魔と対峙たいじした。案外きもは太いのかもしれない。それとも、単に信じていないだけなのか。


「おいおい、悪魔だと言ってるんだぞ。魂を取られるだとか、この瞬間に殺されるだとか、危機感はないのか?」


「そう言われましても。もしそうだとしたら、もう取られているはずです。わざわざ悪魔が話しかけるとしたら、何か取引を持ちかけてくるのかと思いまして」


「へぇ、見かけによらず頭は回るようだな。その通り、お前と取引をしてやる」


 悪魔は男の目を見据みすえて、こう言った。


「不幸なお前に、五感の一つをきわめさせてやる。ただし、一つだけだ」


「五感?」


「あぁ。人間の持つ視覚、聴覚、嗅覚きゅうかく、味覚、触覚しょっかく。どれか一つだけ、常人離じょうじんばなれした感覚になる」


「なるほど。ちなみに、もし一つ選んだ場合は、他の感覚はどうなるのでしょう」


 悪魔は五感をさずける代わりに、寿命の半分を貰う。だが、それは五感を授けた後にでも要求出来る。今もらうか、後で貰うかを悪魔が独断で決められるのだ。


 悪魔の常識として、不幸な人間は寿命が短い。反対に、不幸な人間が挽回ばんかいし幸せを得ると、寿命は伸びる。取引を持ちかけた悪魔の判断で、五感を授けた後、五年後に徴収することも出来る。


 今貰うか、五年後に貰うか。五年後に貰うというのは、いわば投資だ。本来ならさっさと寿命を徴収ちょうしゅうして死んでもらうのが効率がいい。


 だが、この男は元々期待していなかったが、話してみると整然せいぜんとした受け答えに、悪魔は少しだけ期待してしまう。


「お前は幸運だ。感覚はもちろん、他に代償は何もらない。俺はお前が人間の中でも不幸な奴だと見て、同情してやっているのさ」


「そうですか。それなら、触覚を下さい」


「うん? 悩まなくていいのか?」


「えぇ」


 男が疑うこともなく承諾しょうだくしたことには内心しめたものだったが、即断即決には驚きを隠せなかった。男は単に何も考えていないのだろうか。


「俺はお前の不出来さを知ってるぞ。大した能力も無く、怠惰たいだな性格を改善する気もなく生きてきた。そんなお前が、生まれ変われる唯一のチャンスだ。本当にいいんだな?」


「いいですよ。だって、触覚が一番有用ですから」


 悪魔は他の人間にも五感を授けていたが、触覚を選ばれるのは初めてだった。それにも関わらず男は随分と確信を持って触覚を選んでいる。故に、好奇心から。


「ほう。どうしてそう思う?」


「人間、冷感や温感、圧力、痛覚といったものまで触覚で認知しています。つまり、人間にとっての高機能なセンサーの役割を果たしているのが触覚です」


 男は流暢りゅうちょうに話し始める。悪魔は黙って耳を傾けていた。


「触覚が極められるのであれば、買い物をする時、触るだけで品質を簡単に見極めることが出来るでしょう。それに、対人関係においても空気の流れや居心地の良さを見極めることで、より円滑な対話を進めることが可能になるかと」


 もしかしてこの男は、仕事が出来ないわけではなく、能力に恵まれなかっただけなのではないか。いや、能力がないわけでもない。単純に怠惰な性格が災いしただけで、きっかけがあれば大成したのかもしれない。


 悪魔は男の寿命を、五年後に徴収することに決めた。故に、それを今説明する義務はない。


「お前の言いたいことは分かった。確かに、そういうこともあるかもしれないが、俺には関係ない。お前がそうしたいのなら、俺は授けてやるだけだ」


「えぇ、私にも願ってもないことです。お願いします」


 そう言って男は最後まで平然としていた。


 悪魔は指を鳴らす。


「これでお前には特別な触覚が備わったはずだ」


「おぉ、確かにこれなら便利そうです」


 男は確かにその感覚を得ているようだった。


 悪魔としても男に投資することを決めた手前、それとなく、


「お前は聞いていたよりも有能そうな男だ。その力で仕事に励むといい。今からでも挽回は出来るだろう」


 と励ますと、男が言う。


「はぁ。しかし、私は昨日リストラされたばかりでして」


「何?」


 悪魔は想定外の告白に、眉をしかめる。だが男は知らん顔で、突然財布を開けると、古汚い手持ちかばんの中に小銭をぶちまけていった。


「おい、何をしているんだ」


「何って、折角便利な能力が備わったものですから」


「それとこれと、何の関係があるんだ」


 悪魔が言うと、男はカバンの中に手を入れて、初めて笑みを浮かべた。


「一々財布から小銭を取り出すのが面倒で仕方なかったので、助かりました」






 了


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触覚を研ぎ澄ましたい男 eLe(エル) @gray_trans

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