食後に嘘とコーヒーを

水澄

第1話

 休日の朝は特別だ。

 迫る出勤時刻に合わせて忙しなく朝のルーティーンをこなす必要がなく、自分の好きなように時間を使うことができる。

 十人いれば、それこそ文字通り十通りの朝があるだろう。

 僕にとっての今日もまさにその休日であり、だからこそ、僕なりの朝が始まる。

 朝の冷え込みが強くなりだしてきたものの、冬と呼ぶにはまだ早い――そんな秋の暮れの一日は、パンを焼く匂いから始まる。

 トースト2枚と目玉焼き、ヨーグルトにトッピングのドライフルーツが少々。平日の朝は焼きもしない食パン1枚で済ませてしまうこともあるけれど、休日の朝くらいはちゃんとした朝食をとるようにしている。

 起き抜けに洗面所で顔を洗うと、その足でリビングを抜けてキッチンへと向かう。

「おはよう、朝ご飯、できてるよ」

 そんな僕を、先に起きて朝食の準備をしてくれていた彼女が迎えてくれる。寝起きで上下ともスウェット姿の僕とは違って、すでに綺麗に身支度が整えられている。

 これが、変わらない僕の――僕らの休日の朝の風景だ。


「ごちそうさま」

 先に食べ終えた僕が空いた食器を手に席を立つ。先にとは言っても、これで平日のそれに比べると倍近い時間を使っていて、僕なりにはかなりのんびりと朝食を楽しんでいる。

 食器をシンクで水に浸すと、その足でケトルに水を注ぎ、火にかける。

 休日の僕たちは、朝食の後に必ずコーヒーを飲むようにしている。そして、そこには一つのルールが存在していて、それは、先に朝食を食べ終わったほうが二人分のコーヒーを淹れるということだった。

 

 それからほどなく、ケトルの口から水蒸気が上がりだすとともに、陶器製の蓋がカタカタと笑いだす。それを待ってドリッパーを準備すると、二人分のコーヒーを抽出していく。

 正直なところを言ってしまうと、僕も彼女もこだわりが強いわけではないので、コーヒーそのものはインスタントのそれで必要十分であったりする。それでいて休日の朝だけはペーパードリップにするのは、それを淹れるために使う時間そのものを大事にしているからだ。

 ぽたり、ぽたりと滴り落ちる雫に、液面を波打たせるコーヒー。その分量が二人分に足るまでのをこそ、僕らは必要としているのだ。


「お待たせ」

 ソファーで待っていた彼女に声をかけ、カップはそれぞれテーブルに、そして僕は彼女の隣に腰掛ける。いつの間にかリビングの窓は半分ほど開けられていて、そこから吹き込んだ風が窓に引かれたレースを揺らし、コーヒーの香りを鼻腔まで運んできてくれる。

「それじゃあ、いただきます」

 そう言って彼女がカップに口をつけ、僕もそれに倣う。抜けていく香りと深い苦みは、朝食後も頭の奥にわずか程残っていた最後の微睡を綺麗にさらっていってくれる。その感覚にはどうしたって口元が緩んでしまい、半ば無意識に彼女と目を合わせては、お互いに笑みを交わす。

 穏やかに流れていく朝の時間。

「ねえ、先週の話なんだけどさ」

 彼女が口を開き、それに僕が「うん」と相槌を打って先を促す。

「あまりニュースでは取り上げられなかったんだけど、実はしし座流星群の時期だったっていうのは知ってる?」

「いや、まったく」ゆっくりと首を振る。「でも、しし座流星群ていう名前自体は聞いたことがあるよ。要は、流れ星がいっぱい見られるんだよね?」

「うん、そう。もっともここ何年かはあまり数が多くないみたいなんだけどね」

「そうなの?」

「多いときはニュースでも取り上げるしね。とはいえ、多くないとはいっても流星群自体は来ている時期だから、ゼロっていうわけでもないの」

「なるほど、だいたいわかってきたよ」

「ふふ、ありがとう。それでね、そのしし座流星群なんだけど――」

 もったいぶって溜めを作ると、彼女は明らかに不敵のそれとわかる笑みを浮かべてから、もう一度僕に向き直る。

「今年のそれで、ついに流れ星を捕まえることに成功したって、知ってる?」

 にやりと持ち上がる口角には、同じく僕も不敵に笑ってみせるのだ。


 きっかけはいつだったか、確かな日取りまでは覚えていないけれど、確か僕らが同棲を初めてすぐの頃だったように思う。

 引っ越しの直後は何かと忙しく、休日となれば何かしらの予定が入っていることがほとんどだった。そして、そんな忙しさがひと段落したその日、ようやくのまっさらな休日の朝を、僕らは今日のように過ごしていた。

 朝食の後にコーヒーを飲みながら、見るでもなく点けたテレビに流れる朝のワイドショーをBGMに「今日はどうしようか?」なんてことを話していた。そんな折、彼女が僕から視線を逸らしたかと思うや、そのままにこう言った。

「ねえ、パンダって見たことある?」

 それまでしていた会話からするとまるで筋違いな質問に、何を突然? と思ったものだが、彼女の視線を追って、すぐに得心がいった。テレビの画面いっぱいに、ゴロゴロと転げまわってはムシャムシャと笹を頬張るパンダが映っていたからだ。

 それは、動物園でのパンダの出産を伝えるニュースだった。その後画面は動物園近隣の駅前に切り替わり、街頭インタビューでの喜びの声を伝えている。

「テレビでは何度も見たことがあるけど、実際には一度もないよ」

「そっか、私も見たことないんだよね」

 コーヒーを一口すすり、さて、これは動物園行きを提案してみるべきかななどと考えていたら、彼女がテレビの電源を落とした。それから僕に向き直って微笑み、言ったのだ。「ねえ、知ってる?」と。

「パンダってね、元はヒグマとホッキョクグマの合いの子なんだよ」


 人は会話をしているとき、無意識のうちにその流れを読んでいる。それは経験則に基づくものであり、だからこそ年齢を重ねるごとに選択肢は増えていくし、またよく見知った相手であるほど会話はよく弾み、途切れ難くなる。とはいえ、あくまで経験則に依るものがゆえ、万事に最適解を出せるとは限らない。あまりにも予想とかけ離れた問いが投げかけられれば、当然答えに窮することとなる。

 この時の僕がそうであったように。

 バッターボックスで、例えば今まで見たこともない変化球を投じられたとしよう。初見である以上当てることすら難しいかもしれないが、振ることはできる――それが野球のボールであれば。では、放たれるそれが、例えばフリスビーだったら? パイナップルだったら? 三毛猫だったら? 九分九厘、何もできない。人はその思考が疑問符に支配されたとき、絶対的に固まってしまうものだから。

 その時の彼女の言葉は、僕にとってのフリスビーであり、パイナップルであり、そして三毛猫だった。

 きっと僕は、顔いっぱいに疑問符を浮かべていたことだろう。それにも関わらず、彼女はその先を続けていくのだ。

「パンダは中国の一部地域にだけ生息する固有種だとされているけど、それは事実を覆い隠すためにもっともらしく作られた巧妙な嘘に過ぎないの」

 今となっては、なぜこんな突拍子もないことを言い出したのかはわからない。でも、どうしてかこの時の僕は、そんな彼女の創作に付き合ってみようと思ったのだ。もしかしたらそれもまた、休日の朝特有の緩やかな時間にあてられたからなのかもしれない。

「それは初耳だね」カップを置いて足を組む。「でも、どうしてそんな嘘を?」

 至極真面目なトーンで問い返すと、彼女は我が意を得たりとばかりに嬉しそうに目を細め、その弁舌は饒舌さを増していく。

「事実は小説より奇なり、とはよく言う話でしょ? この場合もまさにそれで、パンダが合いの子として誕生したという事実のそれこそまるで絵空事のようであるからして、当時の中国政府は対外的に説得力のある現在の通説を作り上げたのよ」

「なるほど、言われて確かに説得力のある話だね。それで、話は戻るけど、その合いの子というのは具体的にどういうことなの?」

「そうね、それじゃまず、ヒグマは知ってる?」

「もちろん知ってるよ」

「じゃあホッキョクグマは?」

「それも知ってる。こっちは動物園で実物を見たこともあるよ」

「なら話は早いわ。ヒグマは何色だった?」

「黒だね」

「ホッキョクグマは?」

「クリーム色――いや、この場合は白の方がいいのかな?」

「ありがとう、つまりはそういうことよ」

「いや、全然わからないよ」

 軽妙なやり取りではあったが、さすがに突っ込みを入れざるをえなかった。それなのに、当の彼女はといえば、コテンと首をかしげては「なんで?」とばかりに口をとがらせて見せる。その仕草を不覚にも可愛いと思ってしまったのだが、そうとは悟られないようにやけそうになる口元をぐっと引き締める。

「よく思い浮かべてみて。ヒグマは黒、ホッキョクグマは白、それじゃあパンダは?」

「パンダは白と黒のツートンカラーだね」

「うん、だからそういうことなのよ」

「そういうことって?」

「そういうことは、そういうことよ」

 急に突っぱねるような口調で言い切られる。あれ? でもこれって、もしかして。そんな違和感から生まれた疑問を、僕はそのままに彼女に伝えてみる。

「ねえ、もしかしてそれ以上は考えてなかった?」

 一瞬の沈黙。そしてその後、彼女は残っていたコーヒーをぐいと飲み干す。それからバツが悪そうに僕を睨むと、こう言った。

「だって、まさかあなたがこんなに乗ってくるなんて思ってもいなかったんだもん」

 唐突な始まりと同様、終わりもまた唐突だった。


 そのパンダ事件――と、僕は勝手に呼んでいる――以降、予定のない休日の朝食後に滑稽な作り話をするのが僕らの定番になった。

 何度か繰り返すうちに、ルールと呼ぶほどでもないがいくつかの決まり事も出来上がった。題材は自由で、それでいて明らかに嘘だとわかるような荒唐無稽なものであること。しかして至極真剣に話し、また聞くこと。そして、嘘をつくのはコーヒーを飲み終えるまでであること。

 最初こそ彼女の思い付きで始まったはずなのに、続けていくとこれがなかなかに楽しくて、気づけば今日まで続くほどになっている。こうなるともはやこれは僕らにとっての日常であり、お互いがコーヒーを手にソファーに腰掛ければ、当たり前のように嘘をつく。だからこそ、今日のように「流れ星を捕まえた」などと言われても僕は驚かないし、それこそコンビニで「お弁当温めますか?」と聞かれた時と同じように「お願いします」と先を促すことができるまでになっている。

「それで、流れ星はどうやって捕まえたの?」

 僕が水を向けると、彼女は待ってましたとばかりに話し出す。

「それなんだけどね、今までにも色々な方法が試されてきていたんだけど、どれも成功したことがなかったの。だから、今回は原点回帰というわけじゃないけど、ものすごくシンプルかつアナログな方法を試してみたんだって」

「へえ、そうなんだ。それで、どういう方法なの」

「うん。私も知ったときビックリしたんだけどね、網で捕ったんだって」

「網?」思わず聞き返す。「それって、魚を捕るみたいな?」

「ううん、違うよ。もっとシンプルに、虫取り網。今回の流星群に合わせて天文台の職員が日本中の高い山に手分けして登って、流れ星を待ってはブンブン振り回してたら偶然捕れたんだって」

 僕の予想のさらに上をいく彼女の答えに、思わず笑ってしまいそうになる。だが、笑ってはいけない。笑わず冷静に続けるからこそ、このやり取りは面白いのだ。

「虫取り網とはまた、とびきりにアナログだね?」

「うん、とびきりというか、むしろとびっきりだね」

 それって同じ意味じゃない? 浮かんだ疑問は笑顔に変えて、彼女に返す。受け取る彼女もまた、答えを笑顔に変えていく。

「それで肝心の流れ星なんだけど、どうやら私が想像していたものとはちょっと違っていたみたい」

 潤すようにコーヒーを一口。僕もそれに倣ってカップに口をつける。

「ちなみに、どんなものを想像していたの?」

「まずはオーソドックスに隕石だね。ただどちらかというと金属主体でできていて、ギラっと光る感じかな。それから候補はもう一つあって、それはダイヤモンドというか、宝石みたいに透き通っていて、キラキラ光っているのを想像していたんだけど、どちらも外れだったんだ」

「それだと僕のイメージしていたのものとも近いね。でも違っていたってことは、実際にはどんな感じだったの?」

 すると、彼女は右手を僕にかざし、親指と人差し指で一センチ程の隙間を作ると「これくらい」とその隙間を片目でのぞき込む。

「これくらいのサイズで、全体に虹色をした金平糖だね」

「金平糖? それって、お菓子の?」

 再度の確認にも、彼女は「うん」と首を縦に振る。

「丸くて、全体に小さな角がいっぱい生えた、あのシルエット」

「そうか。いや、でも意外だな、まさか流れ星が金平糖と同じ形をしていたなんて」

 僕がもっともらしくうなってみせると、彼女もまた満更でもなさそうに笑って見せる。それからまたコーヒーを口にし、カップを戻す。まだ半分以上も残っている僕のそれとは違い、彼女の残りはもういくらもなさそうだ。

 コーヒーがなくなる。それはイコールこの時間の終わりであり、つまりは、この話も終わりが近いのだろう。


 彼女が小さく息をつき、前髪を軽くかき上げては、窓辺に揺れるカーテンを見やる。

「その流れ星なんだけどね、捕まえたのが若い女性の職員さんだったんだって」

 相槌を打つでもなく、僕は彼女の横顔を眺めている。

「それでね、彼女には流れ星を捕まえることができたら、どうしてもやってみたいことがあったの」

「やってみたいことっていうと?」

「流れ星にしてみたいことといったら、決まってるじゃない?」クスリと笑うと、流し目気味の視線が僕の目を捉える。「願い事よ」

 それから彼女は両手を組み合わせると、両目を閉じてはこうべを垂れる。

「こうして組み合わせた両手に流れ星を握って、目を閉じてから小声で、それでいてしっかりと三回、願い事を唱えるの」

「なるほど。でも、どうして三回?」

「どうしてって、流れ星に願うなら三回唱えるのがお決まりでしょ?」

 言うと、彼女は組み合わせた両手に何かを唱え始める。それは本当に微かな声で、果たしてその願いを知ることは、僕にはかなわない。

「彼女は願ったの。その金平糖みたいな空からの贈り物に。そしたら、ねえ? どうなったと思う?」

「どうって」顎に手を当て、首を捻る。「そこはやっぱり本物の力というか、叶ったんじゃないか?」

 ふっと彼女の目元に涼しげな笑みが浮かび、それでもしかし、彼女は首を横に振る。

「残念。正解はね、消えちゃったんだって、流れ星が」

「消えた? でも消えたってことは、叶ったってことじゃないの?」

「それは違うよ。なんでも彼女が願い事を唱えて、その三回目を唱え終わると組んだ手の中がやんわりと光って、それから少しだけ暖かくなったんだって。それで、慌てて手の中を見てみたら、もう流れ星はなかったの」

「それじゃ、願いは叶わなかったってこと?」

「さあ? どうなんだろうね? 叶わなかったのかもしれないし、叶ったのかもしれない。だって、何を願ったのかはその彼女しか知らないんだから、叶ったのかどうかも、その彼女にしかわからないんだよ」

 彼方に視線を向けたままそう言うと、彼女はゆっくりとカップに手を伸ばしては、それを口へと運ぶ。幾分温くなったそれを口に含んでは「でもね」と呟く。

「私は、叶っていて欲しいと思うんだ」

 虚空へと放たれた言葉は吹き込んだ風に溶け、消えていく。

 テーブルに戻された彼女のカップに、もうコーヒーは残っていなかった。


 夏の終わりに、僕は彼女にプロポーズをした。

 付き合って数年、二人で暮らし始めてからもほぼ一年が経ち、なおかつその日は彼女の誕生日。ずっと機会を窺っていた中で、このタイミングがベストだと思っていた。

 二人での生活は順調そのものだったし、そもそも一緒に暮らさないかと提案したのも当然その先を見据えてのことだった。だからこそ同棲を始めるにあたって引っ越してきた今のアパートは、僕らにとっての必要十分よりも少しだけ広く、部屋数の多い間取りを選んでいた。

 その日の晩餐は、彼女の希望もあっていつも通りに自宅で食べることになった。僕はせっかくだから外食にしようと言ったのだけれど、彼女に「こんな日だからこそ家でゆっくり食べたいんだよ」と言われてはそれ以上の案などあろうものか。だから僕はどうにか仕事を切り上げると、彼女が食べてみたいと言っていたケーキを買っては帰路についた。

 帰宅した僕を待っていたのは、彼女の手料理だった。彼女自身は「いつも通りだよ」というものの、食卓に並んだ品々を見るに腕によりをかけてくれたのは明白で、そのうえ品数も多かった。普段ならば供されないアルコールまでも卓には用意されていて、さすがにそれだけは彼女も「今日くらいはね」と言ってはにかんでいた。

 主役は彼女のはずなのに、あたかも僕がゲストであるかのようなもてなしの数々。それなのに当の彼女は終始楽しそうであり、だからこそ僕は、ますます彼女に僕以上の幸せをと思わずにはいられなかった。

 ささやかでありながら満ち足りた晩餐を終えた後、僕らはリビングのソファーに並んで腰かけた。お互いの肩を持たれ掛け合い、彼女の肩に預ける僕の重さが、また同時に感じる彼女の重さが心地よい。

「話があるんだ」

 僕が言うと、すぐ隣で「うん」と返事がある。それを聞いて、僕は次の言葉を紡いでいく。

「結婚しよう」

 きっとそれを言うときは緊張でガチガチになるのだろうと想像していたのに、その言葉は驚くほどに自然に、それこそ開けた窓から風が吹き込んでくるかのようにするりと告げることができた。

 だからだろう。僕はまるで想定していなかった――いや、違う。むしろ想定してしまったのだ、そのプロポーズを当然のように受けてくれるだろう彼女の返事を。

「ありがとう」

 彼女がそう答えるまでは、僅かばかり間があった。

「私からも話があるんだ」


 話し終えた彼女に、場には沈黙が満ちていく。僕らはお互いに口を開くことなくテーブルの上のカップ――すでに空になった彼女のそれと、半ばほども残った僕のそれ――を見つめていた。

 半ばほど開かれた窓からは、時折風に乗ってか微かな雑踏が聞こえている。

 僕はカップに手を伸ばし、それでいて飲むでもなくそこに目を落とす。随分と温くなったそれは、きっと淹れたてよりも強い苦みを僕にもたらすだろう。

 カップの奥で黒々とたゆたう液面が映す僕は、果たしてどんな顔をしているだろう? 知りたいと強く思う反面、それ以上に見たくないとも思う。

「コーヒー、飲み終わっちゃったね」

 僕らの会話において、沈黙を破るのはいつだって彼女からだ。それは出会った当初も、それから先も、そして今日にあっても変わらない。

 彼女がカップを手に立ち上がる。そのままキッチンへと向かい、シンクに置く。蛇口から流れる水の音が聞こえてきて、それはおそらく置かれたカップへと注がれているのだろう。

 そんな中、僕は今もってカップを手に持ったまま、その残りを飲み干せずにいる。

 なぜって、そうでないと僕にとってのこの時間が、「嘘をつく時間」が終わってしまうから。

「私、そろそろ行くね」

「行くって、まだ少し早いんじゃない?」

「うん、予定よりだいぶ早いけど、こうしていてもしょうがないからさ」

「ああ、そっか。うん、そうだね」

 振り向くことなく、背中越しに返事をする。

「時間もあるし、駅までは歩いて行こうと思うんだ。ほら、それに今日は天気も良いしね」

 そう言うと、彼女がリビングのカーテンを開けていく。途端、ソフトフォーカスだった陽光に、凛とした角が立つ。

「駅まで歩きで大丈夫? それに――」

 言いかけて思わずリビングのドアを見てしまう。そこを開けた廊下の先には、彼女のスーツケースが置いてある。


 あの日、僕のプロポーズに彼女は言ったのだ。「結婚はできないよ」と。どうして? と問い返すこともできない僕に対して、彼女は「ごめんね」と俯いては申し訳なさそうに首を振った。

 落ちた沈黙が濡らした画用紙に絵の具を一滴垂らしたかのようにゆっくりと、だが確実に広がっていき、その滲みが一面を満たした頃、彼女が再び口を開く。

「私ね、再来月から海外に行くんだ」

 え? 突然のことに、その声は音にならない。

「夢がね、叶うかもしれないの」

 そして続く一言に、言葉にできなかった「どうして」の先を知る。

「先方に急な欠員が出て、私が呼んでもらえることになったんだ。相談もしないで返事をしてしまったのは悪いと思ってるけど……このチャンスは逃したくなかったから」

 静かな口調ではあるものの、その言葉尻からは確かな決意がにじんでいる。

「もしもこの話がなかったら、きっと喜んでプロポーズを受けていたんだと思う。そのくらい私自身、ある程度自分の夢っていうものに見切りをつけだしていたところはあったから。でもね、先方から連絡をもらって、僅かながらも可能性が残っているんだってなって、気づいたの。やっぱりまだ、私は夢を諦められないって」

 彼女が言い終えると、それまで肩にあった重さが無くなる。それに気付いた僕はいつの間にか伏し目がちになっていた体を起こして彼女を見やると、目が合った。

「だから、ごめんなさい」

 頭を下げる彼女には、思わず手が伸びかける。だが、先の彼女が発した決意を思い出してか、その手で肩に触れることはできなかった。それから、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開く。

「待たせてもらうことは、できないのかな?」

 そんな僕に、彼女は頭をあげないままに首を振る。

「いつになるのかわからないものに、待っていてなんて言えないよ」

「それでも構わない。君のためなら、いつまでだって待つさ」

「そう言ってもらえるのはすごく嬉しいけど、でも、やっぱりだめなの。だって、私がそれに応えられる時っていうのは、すなわち私が夢を諦めた時ってことだから」

 それはつまり、彼女が夢を追い求めるうえで、僕の存在が障害になるということに他ならない。僕自身、彼女には夢を叶えてほしいと願っている。そして、願っているからこそ、引かなければいけないと誰よりも理解してしまう。

「そっか。なら、仕方がないね」

 うまく声に出せていた自信がない――それくらい、消え入りそうな声だった。

 肩を落とした僕に、彼女が小さく笑う声が聞こえる。

「身勝手な女でしょう? だって、自分の恋人がこんなにも愛してくれているというのに、自分の夢をとるというのだから」

 まるで嘲るかのように笑っては、彼女はようやく頭を上げる。だが、笑っているはずの彼女の瞳からは、今も涙が溢れては頬を雫となって伝っていく。

「そんなことないよ」

 僕は言う。そう、そんなことないのだ。むしろそんな彼女を見て、どうして身勝手な女だなんて思えようか。

「だって僕は、そんな君をこそ愛してしまったんだから」

 精一杯の強がりで笑顔を見せると、彼女は堪え切れないといった様子で再び顔を伏せてしまう。それでも二度、三度と鼻をすすると、ゆっくりと顔を上げる。

「ありがとう」

 嘲りのそれではない笑顔に、またも涙はついと流れ落ちるのだった。


「大丈夫だよ。時間ならあるし、それに、今日ぐらいは歩いて行きたいんだ」

「そっか」

 それだけ言うと、また会話が途切れる。何かを言うべきだと思ったけれど、その言うべき何かがわからない。だから結局、出てきた言葉はありきたりなものになってしまう。

「今日まで、ありがとう」

「うん、私の方こそ、ありがとう」

 彼女は今、どんな顔をしているだろう? でも、見てはいけない。なぜって、それが僕にできる精一杯であり、また唯一の強がりであるからだ。

「それじゃ行くね」

「うん、気をつけて」

 彼女の足音が響き、次いでドアノブに手をかけたところで、彼女が呟く。

「さようなら」

 今日まで変わらなかった、僕らの朝の日常。でも、それが今、終わる。

 ずっと変わらずに続いてほしいと思っていたし、続くとも思っていた。けれども現実はえてして想像程に上手くはいかないものであり、だからこそ、僕らにも別れが訪れる。

 食後に嘘とコーヒーを。

 だからこそ朝だけは、お互いに咎められることなく嘘をつくことができる。この手にコーヒーがあるうちは。

 そして今日、この瞬間。彼女はそれを手放し、僕は残した。

「ああ、さようなら」

 この一言を告げるために。

 彼女はリビングを出ていき、程なくして玄関のドアの開く音がする。そして、わずかな靴音を残滓にドアが閉まる。まるで音の消えてしまった空間にあって、律義に鳴るオートロックの施錠音がやたら大きく聞こえる。

 本当に、休日の朝は特別だ。

 今もまだ、僕の手の中には飲みかけのコーヒーがある。


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食後に嘘とコーヒーを 水澄 @TOM25

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