4.エンディング
俊は何かを言おうとした。奴が口を開く前に、自分の決心が鈍らないうちに、俺は立ち上がり、“スライム”に向かって、走り出した。
“スライム”と目が合った。不気味な笑顔が俺を見つけて、血みどろの口元がさらに笑みを深めるのを俺は見た。
柱に隠れていたおっさんが、俺の動きを見て慌てて走ろうとし、一歩目で足をくじいて転倒した。その拍子に、持っていたアーミーナイフで自分の腕を切って、おっさんは汚い悲鳴を上げた。痛みによって現実に引き戻されたのか、おっさんはのたうち回って恐怖にかられ、店の外に向かって逃げ出そうとしていた。
背後でガタンという音が聞こえた。こっちからもか細い悲鳴。俺の動きにやみくもに反応して警備員の男が逃げたのだ。俊の見立て通り、男の足音は遠ざかっていった。
その、二人の一般人の悲鳴を聞きながら、俺は自分が“勇者”ではないことに気が付いていた。
人間が恐怖を克服し、勇気をもって“モンスター”に立ち向かっていったとき、その人間は“勇者”になる。
俺は“モンスター”に向かって立ち向かっている。だけどそれは、勇気からの行動ではない。
視界の端に、まる焦げになった店員の死体が見えた。最初に“スライム”に立ち向かっていったのは、あの男だった。しかし彼は“勇者”となれず、あえなく自滅し、死んだ。なぜなら男が“モンスター”に立ち向かっていった理由が、恐怖だったからだ。
おそらく、最初に喰われていた女は、あの男と親しかったのだろう。男は彼女が喰われる姿を見て、彼女を失うことを恐怖した。その恐怖が一時的に“モンスター”に対する恐れを麻痺させ、男を怪物に向かわせた。彼の行動は、勇気からのものではなかった。
そして、それは俺も同じだ。
俺はそのことにきっと、心の奥で気が付いていた。だけどそれを認めることも、いや向き合うことすらできなかった。それは俺が、臆病だからだ。
俺は走る。倒れている椅子を、テーブルをよけて。それなりに機敏なはずだ。先月まで所属していたサッカー部では常にレギュラーを取っていた。運動神経には自信がある。
だけど“モンスター”にとって、それはあくびが出るほどに遅い動きだった。“スライム”の目は的確に俺の動きを追って。
ぷるぷる!
ある一瞬をとらえて、それは、跳んだ。
目で追えない。反応すらできない。ただ圧倒的な質量が、明確な死の気配が、俺に迫ってくるのをただ、感じる。
走馬灯のようなものだろうか。断片的に過去の光景が、目前に明滅する。その内容はすべて、奴に関するものだった。小堺俊。奴がいじめられっ子なのは誰もが知っている。そして、俺だけが……
「ああ、間に合って、よかった。」
気が付くと目の前には、四散した水色のゼリーの塊。その中からこぶしを引き抜く、俊の姿。
「……隠れてろって、言っただろ。」
「いや、だって、山上君の言ったこと、全然論理的じゃなかったし。」
にへらと笑う俊の表情には、変わりはない。だけど奴のしぐさからは、数秒前の不器用なぎこちなさは無くなっていたし、何なら少し、背が伸びたような気もする。
「びっくりしたよ、山上君の後を追って、“スライム”に立ち向かった瞬間、なんていうか……自分が世界の中心にいるみたいに、急に体が軽くなって、世界がゆっくりに見えて。これは、いけるかな、と思って、“スライム”を殴ってみたんだ。」
早口に、しかし滑らかに俊は言うと、自分の手を握り、また開いた。一度目は不思議そうに、二度目はうなずきながら、三度目からは、何かを確かめるように。
「山上君、どうやら僕は、“勇者”みたいだよ。」
こうして俺の恐怖は、現実のものになる。
俺は恐れていた。俊が“モンスター”に立ち向かい、奴が“勇者”ではなくて、殺されてしまうことを。奴を永遠に失うことを。
そして同時に恐れていた。奴が“勇者”であることを。
その恐怖から逃れるためには、俺が“勇者”であるしか、なかった。だけど、だからこそ、俺はただの、恐怖に駆られる一般人だった。
遠くからサイレンの音が近づいてくる。警察と救急の部隊が走ってくる。
その中に紛れて、仕立てのいいスーツを着た男が一人、近づいてくる。俺はその姿を見て、やめてくれ、と思った。あまりにも、早すぎる。
「小堺俊君だね。」
スーツの男は、あちこちに散らばり、救助活動をする警察官や救急隊員をしり目に、まっすぐに俺たちに、いや俊に近づいてきて、言った。
「あ……はい」
「君は今回の事件で、“勇者”になった。間違いないね。」
「はい」
「“勇者”は非常に数が少ない、貴重な存在だ。君には、国の“勇者”機関に入ってもらいたい。いや、入ってもらいたいというのは正確ではないかな。君にはその、義務がある」
男は言葉を切って、言った。
「“勇者”として、たくさんの人を救う義務が」
俺はまた、内心でつぶやいた。やめてくれ。
俊は、太陽みたいな目の輝きを浮かべて、即答した。
「はい!」
スーツの男は、即答に対して、ただ小さくうなずいた。“勇者”として選ばれた人間ならば、それが当たり前だと言うかのように。
「外で待っているよ。マスコミが騒ぎ出す前に荷物をまとめて、早く出てきなさい。」
男はそう言って、姿を消した。
俊は待ちきれないとでもいうように、弾むような足取りで自分の荷物のもとへと向かう。
奴の眼中に、俺は存在しない。俺は確信する。俺は、俊を、永遠に失った。
「これ、山上君の」
俊が自分の荷物のそばに落ちていた俺のカバンを拾い上げた。その拍子に、中から書店の紙袋が、その中身の本がこぼれ落ちてきて、奴はそれを中空でつかみ取る。
その、赤い表紙の本を見て、俊は驚いた声を出した。
「あれ、山上君、俊英、受けるんだ?」
「……悪いか」
「いや、全然。ただ、意外だったから」
クソみたいな田舎の学校じゃなくて、もっと学力が高い、それは偏差値のことじゃなくて、勉強をしていることが一種のダサい、仲間への裏切り行為を意味する環境じゃないような場所に行けば、俊はきっと、受け入れられる。そう、例えば俊英のような。
そしてそこならば、俺はクソみたいなクラスメイトの目を気にせずに、お前にもっと、近づける。そう思っていたんだ。
でも
「残念だな。僕はこれから“勇者”の機関に入るから」
俊は笑って言った。
「山上君、僕の分まで、頑張ってよ」
俺は何も言えなかった。ずっとずっと前から言いたいことはたくさんあって、それを一言も言えずにいたのは、それどころか周りに合わせて、本心と正反対のことばっかり言っていたのは、ただ俺に勇気がなかったからだ。
俊は荷物をまとめ終わった。ここで奴を見送れば、もう二度と、会うこともないだろう。
だから言うべきことは、ここで言うべきなのに。
「それじゃあ、山上君、行ってくるよ」
「……おお、頑張れよ」
ほら、やっぱり、言えない。
確かめるまでもなかった。俺は“勇者”なんかじゃない。ただの、臆病者だ。
俊は、“勇者”は、俺に手を振って、モールの出口へと歩いて行った。
俺は、ただの
▼きみ は ゆうしゃ か それとも もぶ か? K @K2816
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