夜の黒猫

海鼠さてらいと。

夜の猫

なんの脈絡もなく、目が覚めた。

先程まで奇妙な夢を見た気がする。長くて、複雑で、それでいて·····いや、忘れた。僕はベッドからゆっくりと降りる。違和感。部屋がいつもの何倍も広い。何かの錯覚か、そう思って目を擦ろうとする手が、黒い毛に覆われていた。

「これは·····」

動揺と共に発しようとした言葉が喉で変換され、にゃあと高い声が出た。紛れもなく、猫の鳴き声だ。何とかして電気をつけ、姿見を覗き込む。僕の目の前には真っ黒な黒猫が1匹、居た。それは僕の動きと同じ動きをする。鏡はただ、僕が猫になった事実を淡々と説明していた。

(夢·····だろうか)

さっきの夢の続きだろうか。それにしては意識がはっきりとしてる気がするけど。しばらく考えていたが、答えは出ない。時計を見ると、午前3時を7分過ぎている。僕は慣れない四足歩行で階段を降り、玄関へ向かう。なんとか内鍵を解除して扉を開ける。ここまでほとんど意識外の行動だった。気づけば僕は、広い闇と対峙していた。昼の景色は夜を吸い込み、黒く黒く染めている。所々に点在する古びた街灯と月光だけが、闇を仄かに照らし出していた。

(いこう)

それを見て何を思ったか―僕は夜へと一歩を踏み出した。この行動に具体的な意味なんて無い。ただ、黒猫になった今の姿で、夜を探索したいと思ったんだ。夜は優しく僕を受けいれ、僕の体を闇に隠した。耳鳴りがする程静かだ。すっかり静止した街の中で、僕という生き物だけが動いている。僕の体と夜の闇の輪郭が曖昧になって、夜に溶け込んでいく。そんな感覚を全身に覚えながら、僕は歩く。目的地なんてものは無い。この時の僕はただ衝動的で、帰り道さえ考えていなかった。ナニカの力で独りでに動いているブランコを横切り、時折見かけるぼんやりと浮かんでいる白い影を無視して、歩いた。

「にゃぁ·····」

どれ程歩いただろうか。僕は川の前で足を止めた。夜空に浮かぶ綺麗な満月が照らし出す水は轟々と流れ、今の体じゃ渡れそうもない。でも、僕はどうしても向こう側へ行きたかった。理由は·····分からない。

(喉が·····乾いたな)

僕は音を立てて流れる川に首をのばし、舌を伸ばして水を掬うように飲んだ。今は真夏だってのにその水は驚く程冷たかった。冷たくて、冷たくて。それでももう少しだけ飲みたい。後、少しだけ。

「あっ·····」

突然·····ナニカに背中を押された。体が前のめりに倒れ、水しぶきを上げて水中に落下した。激しく流れる水の中で体が揉まれ、肺に水が雪崩込む。僕は為す術なく流されていく。どれぐらいそうしていたのか。肺が爆発しそうな程苦しくて、もう死ぬ·····そう思った時、突然強い力で体が引き上げられた。水面から勢いよく飛び出した僕はごろごろと草の上を転がる。何が起きたか分からないけど突如与えられた酸素を貪るように吸い、苦しくてぜえぜえと荒い声が出る。

「あの·····大丈夫?」

声が聞こえた。聞き慣れないような、昔よく聞いたような。僕はようやく息を整えて四足で立ち上がると、声の方に視線を向ける。

「君は·····」

そこには、1匹の猫がいた。体が真っ白で、綺麗に澄んだ青い瞳をした猫。首に赤い首輪が付けられたこの猫を、僕は知っている。

「しゃ、シャロ·····!」

シャロ。僕が小さい頃から飼っていた猫だった。突然の愛する飼い猫との出会いに驚きを隠せない。だってシャロは去年·····。

「久しぶり、フユキ」

その猫、いやシャロはそう言って、僕に笑顔を向けた。

「シャロ、どうして」

何を言えばいいか分からない。何から質問すればいいのか分からない。思考が混線して訳が分からなくなっている僕に、シャロは擦り寄る。

「いい?まだこっちに来たらダメ」

シャロはそう言って、僕の顔を舐めた。暖かい唾液が夜の冷たさを癒して、凍っていた心を溶かしていく。

「フユキ、貴方と過ごせて、幸せでした」

「フユ·····キ·····」

シャロにそう言われて初めて、自分の名前を思い出した。同時に頭の中で黒い思い出が浮かび上がっていく。

「シャロ·····僕は」

そこまで言って―シャロが背を向けて歩き出した。

「シャロ?どこへ行くの?·····帰ろう」

僕はシャロの後を追いかける。追いかけていてしばらくすると、数本の丸太で作られた粗末な橋が川を繋いでいるのが見えた。シャロは歩みをとめず、橋の向こうへ行こうとする。

「待って!」

何度目かの僕の必死の呼びかけに、シャロはようやく足を止めてくれた。分かる。この橋の向こうに行けばもう戻れなくなる。せっかく会えたシャロと別れたくない。それなら、一緒に――

「ダメっ!」

「·····っ」

橋を渡ろうとしたら振り向いたシャロに両足で突き飛ばされ、僕は橋の前で尻もちを着いた。シャロは優しくて、寂しい目をしながら僕を見た。

「貴方は生きて·····またね」

「まっ·····」

そう言い、シャロは川の向こうへ歩き出す。慌ててそっちに行こうとした僕の目の前で橋は音を立てて崩れ、川の中に飲み込まれた。シャロの居なくなった夜の世界で、川が流れる音だけが残った。

「··········戻ろう」

僕は涙を拭いて、元きた道を戻る。道中、シャロの思い出が頭の中を支配した。きっかけはもう何か覚えていない、ほんの些細な事だった。それが徐々に大きくなって、心の中を蝕んだ。そして生きるのが辛くなって、何度も自殺行為をした。それでも死ねなくて。目を覚ました時にいつも隣に居たのは、親ではなくシャロだった。僕は絶望の中でシャロに救われていたんだ。そんなシャロが去年の夏頃に、死んで、僕は――

「僕は·····生きなきゃ·····」

 



「··········」

僕は病室で目を覚ました。

頭がクラクラする。過剰服用の副作用だろうか。よく分からないけど、僕は今生きている。僕が起きたのを確認した看護婦が医師と親を呼びに行ったけど、どうでもいい。

「シャロ·····」

僕はあの夜の世界でシャロに生かされた。

だからもう·····この世界を生きるだけだ。

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夜の黒猫 海鼠さてらいと。 @namako3824

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