希望の話

 重すぎる命を腹に抱え、エルピスは必死に走った。この卵の親は着いて来ているだろうか。不安に思ったが後ろは振り返れなかった。

「よし! もうすぐだ!」

 エクシプが叫ぶ。目の前にはまばゆい光をたっぷりと取り込む間口があった。しかし、エクシプの背後からは床を叩く革靴の音が迫って来ていた。

「うっ」

 エルピスが光に飛び込むと、思わず目を瞑ってしまった。その瞬間むせ返りそうになるくらいの風が吹き付けてきた。

 ごうごうとうるさい風の中、エルピスはそっと目を開いた。

 エルピスの目に飛び込んできたのは差し込むような太陽の光と突き抜けるような青だった。

 見上げれば果てしなく、どれだけ手を伸ばしても届かないくらいの空。眼下には白波を蓄えた海が瞬きのように岸壁に押し寄せてくる。波が打ち付けられる度にしゅわしゅわと跳ね上がった泡が星屑のように散っていく。

「どうした? 怖いか?」

 エルピスの括り輪を外しながらエクシプが尋ねた。

 どうしてそんなに楽しそうなんだよ。エルピスの声は風に巻き上げられ溶けてしまった。だからエクシプの耳に届くことはない。


 ずっと陸地が続いてると思った。すぐ目の前にグリフォンたちの森が続いてると思っていた。エクシプと走って逃げて行けると思った。でも、鳥籠はにあった。

「最後まで着いて行くって言っただろ?」

「ああ、ここがだ」

 いつの間にか括り輪は外され翼の先まで血液が巡っていた。初めての感覚に少しくすぐったさを感じる。

「エクシプも一緒に行こう!」

「知ってるか? 片翼じゃ飛べないんだよ」

 皮肉に笑ってみせるエクシプ。いつもぶっきらぼうで粗暴なエクシプが、こんなに優しいなんて知らなかった。

「嫌だよ……嫌だ! エクシプと一緒じゃなきゃ行かない!」

「それは駄目だ。任されたんだろう?」

 そう言って腹に抱えた卵を指差す。エルピスは、はっとして涙も止まってしまった。エルピスがこうなることをわかってあのグリフォンは卵を託したのだと、このときになって初めて理解した。

「……エクシプはどうするんだよ」

「俺の心配はいいんだよ。まあ、うまくやるさ」

 そうならないことなんて安易に理解できた。違反したグリフォンは被毛になる。鳥籠の暗黙の了解だ。子供ですら知ってる。

 バタバタとうるさい足音が近づいてきた。鋭い視線で中を睨んだエクシプはすぐエルピスに向き直った。

「いいか? ここは吹き付ける風が空へ押し上げてくれる。翼を大きく広げろ。空を掴め。いいな?」

 口早にそう言うとエルピスを高く持ち上げた。廊下の奥から憤怒の表情をした監視官たちが駆けてくるのが見える。

 エルピスは卵と一緒に覚悟も抱き締めた。


 ごうっと強い風が絶壁を駆け登ってきた。

 ──浮遊感、そして落下。

 エルピスは瞑りそうになる目蓋を必死に明け続けた。そして、翼の隅々まで神経を集中させた。羽先の一枚まで風を感じるために。

 刹那、どっと見えない塊が全身にぶつかってきた。その瞬間、視界が一気に持ち上げられる。さっきまでエルピスのいたテラスはあっという間に眼下に落ちてしまった。

 わらわらと出てきた監視官に押し倒されるエクシプが見えた。

「エクシプー!」

 叫ばずにはいられなかった。うるさい風音に負けないくらい絶叫した。

「いいか! 自由に生きろ! 笑って生きろ!」

 こぼれる涙でさえもはらはらと空に吸い上げられていく。

 エルピスはエクシプの言葉を胸に蓄えると強く羽ばたいた。空が近づき太陽が一層眩しくなった。相変わらず風は強い。

 巻き上げられる風の中「お前は希望なんだから」と、そんな声が聞こえたような気がした。

 しかし、エルピスは前だけを見つめていた。そのまま飛び続けるために。吹き付ける潮風だけが少し目に染みたが、飛び続けられそうだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

グリフォンの翼 鳳濫觴 @ransho_o

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説