賢者の話
宿舎に入るといろいろな人がエクシプを頼って集まってきた。
翼の括り輪が食い込んで痛む人には、小さな木の板を噛ませて血の巡りをよくしたり。酷使され続けたせいで嘴が欠けてしまった人には戦闘用グリフォンからこっそり分けてもらった軟膏を塗ったり。繁殖期が来てしまい産まれた卵をどうするべきか相談する人もいた。そして、最後にエルピスの翼の点検をする。これはいつもの日課だった。
「……よし」
「どう?
「ああ、これでお前も大人の仲間入りだ」
そう言われて嬉しくないわけがなかった。まだ身体は未発達だがグリフォンの成長過程で翼の成長は成人への第一歩と言われる。風切羽が生え揃うということは次なる領域、空に受け入れられるということだった。
「エルピス、よく聞きなさい」
くるりと身を返されたかと思うと真剣なエクシプと目があった。この表情をするときはひどく怒られるときか、なにか悲しいことが起こるときだった。
※
──天地をひっくり返さんばかりの警報音。腹の底に響き、辺りは警告灯の赤で染まっていた。いつもは暗い鳥籠の宿舎も隅々までその灯りが満ちている。
戦闘用グリフォンが暴動を起こした。房の前を駆けていった監視官たちがそう話していた。それは過去に数回起こったきりで、ここ最近は音沙汰がなかった。つまり人間たちにとっては青天の霹靂だったのだ。
移動のとき以外通ることがない通路をたくさんのグリフォンが駆け抜けていく。それはエルピスたちも同様で、一同が向かう先は同じだった。
途中、騒ぎに気づいた監視官がグリフォンを捕らえていく。グリフォンたちの断末魔と監視官の怒号が赤く染まる廊下に反響した。
その狂気に脚がすくみそうになるとエクシプが背中を押し前を向かせてくれる。
「いいか、前だけ見ろ。そのまま走り続けろ」
「エクシプは?」
「安心しろ。最後まで着いて行く」
挑発的な笑いを含んだ声がエルピスのすぐ後ろから聞こえた。それは祭りを楽しむ子供のような、どこか嬉しそうな声だった。
昨夜、エクシプが話した内容。それはグリフォン解放の作戦だった。
イロアス含む戦闘用のグリフォンたちが謀反を起こす。その混乱に乗じ、複製した鍵で房を抜け出す。しかし、その段階ではまだ翼の括り輪は外さない。グリフォンの翼は大きく、狭い廊下に突っかかって邪魔になるからだ。
そして、外に出たグリフォンたちから括り輪を外し空へ逃げる。
「待ってよ、エクシプ。僕、空を飛んだことがないよ」
それどころか翼を広げたことすらない。だから練習すらしたことがないし、何より空というものを知らなかった。
エルピスは産まれてこのかた、この灰色の建物の中から出たことがない。このときになってエルピスは大人たちの言う空がとても恐ろしく感じた。
「走るのと一緒だ。大きく翼を広げて空を掴むんだ」
「掴むって?」
「やればわかる。絶対に失敗するなよ」
それなら地を駆けていった方が早いじゃないか。グリフォンの身体能力は人間よりはるかに勝る。エルピスは暴れる心臓を押さえながら思った。
そして、一つの疑問が芽生えた。
「ねえ、イロアスは?」
グリフォンの解放というのなら戦闘用グリフォンや観賞用グリフォンも解放する算段があるのだろうと尋ねた。
「いつイロアスに会えるの?」
初めて会ったときから今までイロアスは黒いフェンス越しでしか会えなかった。しかし、解放されたあとなら十分に遊べるだろう。そんな希望を孕んだ目でエクシプを見上げた。
しかし、エクシプは眉間に皺を寄せるとそのまま視線を伏せた。それはエクシプだけではなく回りの大人たちも一緒だった。
「イロアスはこの作戦になくてはならないんだ」
「どういうこと?」
所々から啜り泣く声が聞こえる。嗚咽を押し殺し身を震わせる者もいた。
この重苦しい空気にエルピスは息がつまりそうだった。まるで内臓の柔らかいところを素手で掻き回されるような、そんな心地の悪さだった。
「エルピス、いいか? お前は希望なんだ。だから、頼む。
すがるように項垂れたエクシプは小さく震えていた。そんなエクシプを見るのは初めてで、エルピスはどうしたらいいかわからなかった。
「なあ、エルピス。頼みがあるんだ」
エルピスは振り返る。声をかけたグリフォンの手には大きな卵があった。
「僕の卵を持っててくれないか?」
「でも」
「エルピスに頼みたいんだ。だって君は希望なんだろう?」
大切そうに、愛おしそうに卵を撫でるその手から目がそらせなかった。
だから親に育てられたことはない。いろいろな房の見ず知らずのグリフォンたちから世話をしてもらい育った。そして、いくつか房を移った先にエクシプはいた。それからはずっと一緒だった。
グリフォンのルールやマナー。翼や鉤爪の手入れのしかた。嘴の磨きかた。外の世界のこと。
まるで本当に冒険をしているような気持ちになって、毎夜楽しみに話をせがんでいた。何よりも楽しみだったのはグリフォンの暮らす森の話。そしてある時名前をもらった。
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