マーキング

ネコモチ

愛した人が残した痕跡

鋭い光が目に刺さる。

まったく、酒の飲みすぎで今は頭が痛いんだ。ほっといて欲しい。

私は布団にくるまり直し、光から逃げた。今日は土曜日なんだ、ゆっくり起きてもいいではないか。 適度に涼しい冷房もついていることだし、再び眠りに就こう。私はゆっくりと息を吐き現実から目を背ける準備をする。だが、私は腐ってもお嬢様育ちだ。二十年以上続けてきた朝の生活リズムは難攻不落で、酒の力を借りても二度寝は許されなさそうである。

「……」

それでも私は安眠への門を叩き続けた。雑念を払い、意識が遠のくイメージをする。…だが門は開かず、無意味な時間が流れる。そうこうして耳鳴りが鳴り始める。私は観念してもぞもぞと布団から這い出る。

外の世界はいつもより見渡しがよくなっていた。開け放たれた引き戸の先には、一人暮らしに必要な家具とキッチンぐらいしかない。

「ああ、しまった…」

机に目をやり昨日の過ちを思い出した。そうだ、昨日私は缶チューハイを浴びるように飲みそのまま寝たんだ。こんなのお母さんが知ったらがっかりするだろう。本当に何やってんだと、昨日の自分を恨めしく思いため息をついた。だが、後悔していても何も進まないのも事実だ。まだ目覚めていない頭を無理やり起こし、作業に移る。だが、朝の弱い私は体がまだ目覚めていないことを忘れていた。足に力が入らず千鳥足で数歩歩き、片手を机についた。

「いや流石に飲みすぎだ…。コーヒー飲んで目を覚ますか。」

机を支えによろよろとキッチンに向かう。本当に深酒したのが恨めしい。動かない脳をフル回転させてなんとかお湯を沸かす準備ができた。キッチンに腰掛けぼんやりとさっきまで寝ていた寝室を眺める。一人で寝るには大きい布団、空白が残る押し入れ、倒されたドレッサーの写真立て。

「…………」

眉間に力が入っているのが分かる。そうだった。深酒した理由を思い出した…。

恋人にふられた。出て行かれた。

机に目をやると冷めたチンジャオロースが二皿ある。そう、昨日の夜ここで別れ話を切り出された。あの人は君が自由にできていないとか、負担をかけたくないとか言ってきた。私は黙り込んでしまった。あまりに突然で、衝撃的で。それで…。私はそのすべてをいいえと否定した。私は自由だと、あなたと生きていきたいと。だけどその人は悲しそうな顔をして私を諭した。私は君を今でも愛しているとも言われた。だけど、別れたいということだけは頑なに変えなかった。私がどんなに愛の言葉を述べようとも、謝罪しても、手を握っても取り下げは行われなかった。それで…。それで私は……。部屋に蒸気の音が響く。

ハッとした私は、隣に目をやった。ヤカンがけたたましく荒ぶっていた。その音は女の咆哮にもどことなく聞こえた。

「みっともないから黙りなさいな」

そっと点火ボタンを押した。ヤカンはようやっと黙った。いつもは騒がしくも心地よいキッチンだが今日は静寂に包まれている。そんな中で一人さみしくコーヒーをすする。少し苦すぎる気がするが、砂糖を入れる気にもならず黙ってすすった。


鼻歌交じりに服を選ぶ。こういう時こそ気持ちは前向きにいよう。後ろ向きだとますます気持ちが沈んでしまう。少し悩んだが、お気に入りの白いワンピースの袖に手を通した。これはこっちに引っ越してきた時に二人で買ったもので、思い出の品だ。あれからかれこれ1年たったと思うとあっという間だった。

「まぁ、それは昔のことだけどねぇ…」

思い出したくなかったなぁ…。まぁ実際楽しかったし、悔いは残ったけど心機一転!別れのあとは新しい出会いが待っている…はず。とりあえず今日は決別の偽をしようではないか!押し入れに残っていたゴミ袋を片手に、乗り気じゃない自分を鼓舞して掃除を始めよう。


残されたあの人の机の前に立つ。大半の物がもう残っていなかったが、何点か痕跡が残っていた。写真、筆記用具、テーマパークの人形…そういうたぐいのものだ。あってもいいが生きていくにはいらないもの、それらが私の部屋に残留していた。

「掃除しますか」

これは決別だ。この思い出は遠く、遠く、はるかに遠くのかなたに投げ捨ててしまおう。写真を手に取る。二人は花火をバックに笑顔で移っている。初めて恋人としていった遊園地。ただ恋人同士になっただけ、それだけなのにお互い距離感が分からず会話があまり弾まなかった初デート。だけど最後は甘い会話を交わし、笑いあった過去の話。少し迷ったけど、この笑顔を見るだけでただ辛いだけだ。写真立てから写真を取り出しごみ袋に捨てた。思い出を捨てるのはやはり心苦しいな…。そんなことを考え、ゴミ箱の写真を見ていたらふつふつと疑問が生まれ始めた。

何故私は理不尽に捨てられたのだろう。あんなに愛し合ったのに。あんなに求めあったのに。あんなに許しあったのに。あの人は本当に私のことを想って別れたのだろうか…。嫌気が指した?不倫?将来性の有無?それとも本当に…。ああ。ああ。考えるだけ。考えるだけ憎しみが。考えるだけ憎しみが、憎悪が増していく。消さねば。部屋から、記憶から、痕跡を。私は部屋から質の痕跡をすべてごみ袋に詰め込んだ。でも、まだだ、まだあるはずだ。寝室を後にし、私は残されたものを集めに行った。

 

 写真、アルバム、ゲーム、本、整容品、人形…。押し入れからリビング、キッチン、トイレ、浴室からあらゆるあいつに関するものを集め、壊し、捨てた。そのたびに憎しみと怒りが胸を満たしていく。だけど、もうこれでお終いのはずだ。あいつとの思い出が詰まったユーエスビーを叩き潰してから捨てた。これでもう思い出さなくて済むはずだ。ふと時計を見ると短針が一時を過ぎていたころだった。

「おなかすいたなぁ…」

 お昼を食べ忘れていたようだ。ただ、今日ぐらい遅めのお昼でもいいだろう。私はゴミ袋を片手に玄関に向かう。今日は何を食べようか…。たまには焼肉とかもいいかな…。そんなことを考えながら行くと、見慣れない箱が下駄箱の上に合った。ラムネ色の箱にはペンギンが描かれており、箱にはKOOLと書かれていた。煙草だ。もちろん私の物ではない。あの人の物だが、タバコ自体を見るのは初めてだ。私に気を使って裏で吸っていたのは知っていたのだが…。

 「私の知らない側面…」

 ぽつりと言葉を漏らし、私は煙草を手に取った。使いかけのソレからは懐かしい匂いが香る。

 「…薫っ」

 たまらず箱から一本の煙草を取り出し、ドラマと同じように咥えた。口の中が薫りでいっぱいになっていく。かすかに清涼感のある煙草は遠い思い出を呼び起こす。咄嗟に傍らにあったライターを手に取る。恐る恐る点火するとオレンジ色の焔が立つ。ほのかに右手が照らされ、温かみを帯びていく。その焔をぎこちなく煙草の先端に近づけてみる。ジュッという音と共に白煙が立ち込める。呼吸をするたびにいとおしい香りが舌をなぞる。

 「あぁ…、ああぁぁ…‼」

 薫だ。薫がそばにいる。愛おしい薫。朝も夜も、健やかなときも病める時も、共に生きてきた薫が目を瞑るとそばに立っている。愛している。今でもまだ、まだ愛している。捨てられてしまったけれども、遠くに行ってしまったけど、それでも…!

 「ゲホッ、ゲホッ」

 タバコを吸いこみすぎてむせ返った。口から白煙が漏れ出て、離散していく。

 「行かないでぇ…」

 情けない声を出しながら吸いなおす。煙が目に染みたのか涙があふれだす。そのせいでさらにむせ返る…。それでも私は吸うのをやめなかった。吸うたびに薫の存在が明確化されていき、恋しさも蘇っていく。煙草を吸っている間だけは二人でいられる気がする。嗚咽を漏らしながら、玄関を白くさせながら、大事にタバコを吸い続けた。そして煙草を一本吸い終わるたびに慟哭が玄関に木霊した。


 ひとしきり泣いた後、外食をした後の帰り道に煙草を一箱買って帰った。口の中はまだあの人がかすかに残っている。そして玄関についてから気づいたことなのだがお気に入りのワンピースに匂いがしみ込んでしまったのだ。捨ててしまおうか悩んだのだが結局は押し入れの奥に大切にしまった。

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マーキング ネコモチ @nekomochi1129

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