放蕩者の末路

悠井すみれ

第1話

 多恵たえの目が赤く腫れていた。ただでさえ小さくて細くて不細工なのにみっともない。それに、アホだと思う。


「この、放蕩もんがあっ」


 こういう時は、泣くものじゃあないだろう。怒れば良い、親爺のように。そうして俺に拳のひとつもくれてやるべきだ。まあ、女や年寄りの力じゃ痛くもかゆくもないだろうが。


「祝言の日に花嫁を置いて夜遊びとは、どういう了見だ!」

「だって、俺、聞いてへんもん。来月には入隊やさかい、今は遊ばしてえや」


 たれたには触れもしないで、わざとらしく手を合わせて拝んでみると、親爺の顔が茹蛸ゆでだこみたいに真っ赤に染まった。


「……来月には入隊やから、所帯持て言うてる! 多恵さんに申し訳ない思わへんのか!? 多恵さんだけやない、ご両親も親族も、お前じぶんを待っとったのに──」


 親戚一同に頭を下げるふた親の姿を思い浮かべて、俺の頬は緩む。さぞ愉快な光景だったろうに見られなかったのは残念だった。いや、俺がいなかったからこそなったのは分かっちゃいるが。


「ああ、やかましやかまし」


 せっかくだから、親爺をもう少しみよう、と俺はひらひらと手を振って遮った。親爺どもが騙し討ちのように祝言を仕組んだ理由は分かってはいる。最近よくある、お国のために戦地に行って、死ぬかもしれない兵隊さんが独り身じゃ気の毒だ、ってやつだ。


 馬鹿馬鹿しい。


 気の毒かどうかは俺が決めることだ。残り僅かな娑婆シャバでの時間を、ひと晩たりとも面倒な祝言で取られて堪るか。頼んでもないのに恩着せがましい。好きでもない不細工な素人娘が、心の支えになると思うほうがどうかしている。もうすぐ入隊なんです、お国のために死んできます──言えば、後家でも芸者でも抱き放題だっていうのに。


 不意に、腹が立ってきたから──俺は、ふいとそっぽを向いて吐き捨てた。


「面倒やさかい、また出るわ。俺は知らへんから、親爺、謝っとけや」

「おい、直文なおふみ! 話はまだ終わってへんで! もっと兄貴を見習うて──」


 親爺の怒声には取り合わず、履物をつっかけようとする俺の行く手を、白い影が遮った。白無垢を纏ったままの、多恵だ。


「……直文さん」


 俺の名を呼んだきり、なじるでもなく縋るでもなく、涙を浮かべた目でじっとりと見上げてくる。こいつも一晩起きていたのか、顔が浮腫むくんで化粧が浮いてひどい顔だ。まるでお岩さんじゃねえか。言いたいことは山ほどあるだろうに、半身で道を塞いでおいて、口をつぐんで何も言わないのは──


「鬱陶しいわ」


 ほかに、言いようがないだろう。ひっと、鶏の首を絞めたような、嗚咽おえつの前兆のような声が聞こえた気もするけれど、俺の知ったことじゃない。ただ、面倒だから入隊まで家には帰らないほうが良いかもな、と思った。


      * * *


「──それで、あたしのとこに?」

「ああ、厄介になる。少なくとも、何日かは」


 そういう訳で、俺は情婦の家に転がり込むことにした。これまでもよくあることだったから、勝手知ったる何とやら、だ。


「構いまへんよ。たまに出てもらうかもわからへんけど」

やんな。邪魔せえへんよ」


 襟を抜いてうなじを見せてしどけなく足を崩して座り、まだ昼だというのに色香を漂わせるその女は、しばらく前まで芸者をしていた志乃しのという。

 昨年、全国で料亭の類の営業停止が通告された。座敷遊びはなくなったし、三味線を奏でることもできなくなった。芸者は強制的に茶をかされていることになるが、志乃の装いも暮らしぶりもさほど変わっていない。たぶん、芸抜きでも暮らしを見てくれる旦那が何人かいるのだろう。俺はヒモみたいなものだから、逢引の間は出て行けというなら否とは言えない。


 志乃の膝を枕に寝転がると、殴られた頬を濡らした手拭いで冷やし、団扇であおいでくれる至れり尽くせり振りだった。これだからこの女のねぐらは実家よりよほど居心地が良い。


「お父さんも、親心やろうにねえ。ほんま、不孝ものだこと」


 世間並みの感想も、説教よりも揶揄うような気配があるから、腹も立たない。女の体温と白粉おしろいの匂いに埋もれながら、俺は微かに嗤う。


「息子の命を惜しんでるんや。非国民やろ」


 志乃が仄めかす通り──無理矢理に縁談を纏められかけた理由は、分かっている。


 親爺は金も伝手もあるから、たぶん戦況の本当のところ、をあるていど承知しているんだろう。誰もが薄々感じ取っていることの、実情を。日本は敗色濃厚で、学生や年寄りもかき集めているのはそのせいで、徴兵は死にに行くのも同然だということを。

 それでも死なせる順番には多少の情状酌量があるのだろうと、想像するのは容易いことだ。農家の長男。ひとり息子。妻子がいる奴。俺はそのどれでもないから、どれかに当てはめようと必死なんだ。小ズルいことだ。


「あらま、直さんはお国のために死ぬん?」


 意外そうに目を瞠った志乃の手を捕らえて、その指をむ。汗の匂いと仄かな塩気に興が起きるのを感じながら、俺は畳の上に女を押し倒す。


「ずっとふざけて生きて来たからな。首尾一貫せなあかん」

「戦争に、ふざけて……?」


 不釣り合いな形容だと思ったのか、帯を解かれながら、志乃がきゃらきゃらと笑う。だが、俺はまったくの真面目だった。人を殺して殺されるなんて、素面でやることじゃないだろう。狂気の沙汰だ。狂気の沙汰に本気で、必死で臨むのは頭がおかしい奴のすることだ。だから──俺はどこまでも不真面目にやる。親の心配も、用意された縁談も、多恵の涙も。みんなみんな、蹴り飛ばして笑い飛ばす。そうでなくちゃあやってられない。


 俺自身も、今の馬鹿げたご時世も、何もかもを嗤いながら志乃の着物をはだけようとする──と、腕を軽くつねられて制された。


「あ──妾、孕んだんで。乱暴せえへんでくださいね」

「……ほんまか」


 目を瞠るのは、今度は俺の番だった。志乃の腹に触れても、かつてと変わらず平らかで滑らかで、何らの違いも感じられないが。


「ほんまほんま。直さんの御子かもねえ」


 心当たりは、確かにあった。俺の手に自らのそれを重ねて笑う志乃がどうにも、面白くないような気もしたが。俺が文句をつける筋合いでもないのだろうが。

 それでも萎えてしまったから、俺は胡坐をかいて座り直し、首を傾ける。


「……入隊前に、親爺に言うとくか? 金、せびれるかもしらへん」


 親爺が知ったら、引き取りたがるかも、とちらりと思った。多恵がその子を抱く姿も、思い浮かんだ。だが──


「要りまへんよ。勝手に産んで勝手に育てるさかい」


 志乃は、こともなげにぴしゃりと叩き落とした。そうだ、この女は子供をどうするとも言っていない。睦言むつごとの前にちょっと釘を刺しただけで。この女がその気になれば、何人もいる旦那のそれぞれから金を引っ張ることもできるのだろう。


 心配するな、と言いたげに志乃は笑い、俺の顔を両手で挟み込んだ。蕩けるような色気を湛えた眼差しが俺を捕らえ、甘い吐息が耳元に囁く。


「ふざけたお人が、真面目なこと言うちゃあきまへん」

「……せやな。言う通りや」


 柄にもなく親だの後のことだのを考えてしまったことに気付いて、俺は苦笑する。俺は、ふざけて生きてふざけて死ぬのだ。無責任、親のスネかじり、鼻つまみ者──ずっと、そうしてきただろう。人のため、なんて考えるな。後に何か遺せると思うな。勝手な感傷を、人に押し付けようとするんじゃない。


 そんな俺に、子供なんているはずがない。そうだろう?


お前じぶん、ほんま良いええ女やなあ」

「でしょう」


 志乃の胸に、それこそ赤子のように抱かれるのは良い気分だった。何もかもを忘れて、甘えられるようで。この女が俺を理解しているなんてことは恐らくなくて、都合の良い女を演じているだけかもしれないが。そんな上っ面のなさけこそ、きっと俺にはお似合いだった。


      * * *


 部隊長殿は、俺が特別攻撃隊に志願することが意外でならないようだった。


「お前が……お前までが、行ってくれるか……!」

「はっ、後顧の憂いがない身です。お国のために身命を賭すのは光栄であります!」


 不真面目で不出来な兵隊が一念いちねん発起ほっきしたように見えるのかな。こいつ、ちょっと泣いてるな。俺は笑うのを堪えているがな。


 だって、笑うしかないだろう。負け戦と言ってもここまでとは思っていなかったぞ。体当たりで一機一殺とか、相手はアメリカさんなんだぞ。日本兵ぜんぶをぶち込んでも追いつかないだろうに。こんな簡単な算術が、どうして誰もできないんだ。


 狂ってる。ふざけてる。お笑い沙汰だ。まともな人間のやることじゃない。なら──俺が笑ってこなしてやるしかないだろうが。何も持たないように、残さないように生きていた俺なら、こんな茶番もさらっと演じてやれるはずだ。妻子の写真をお守りにしている連中よりもずっと、身軽だろうからな。


 志願しようとして足が震えてる奴を尻目に、一番に手を挙げてやるのは爽快だった。勝手に感激している奴らにもっともらしく接するのは、笑えて愉しくてならなかった。俺は、最後まで軽薄で不真面目に生きて死ねるのだ。




 出撃の時は、高高度から敵艦に接近する。未熟な操縦士でも発見されにくく、作戦の成功確率は比較的高い。雲を突き抜けた上空の光景はどこまでも青く輝いていて美しかった。最後に見るには、なかなかの眺めなんじゃないだろうか。あとは訓練通りに突っ込めば特別進級だ。家にも年金がたっぷり入る。そう──思った瞬間に、しばらく呼び起こしていなかった面影が頭に浮かんだ。家。実家。酸素が薄くなったからか。頭が朦朧としちまったのか。親爺の、お袋の、兄貴の。そして──


 多恵は、結婚したと聞いた。めでたいことだ。あいつなら良い主婦になるんだろう。志乃からは、何の音信もないが、たぶん上手くやっているだろう。俺の子かもしれない赤ん坊を、女手ひとりでも育てるはず。


 俺は──いてもいなくても良い存在だ。そうなるように、生きてきた。そうするほかないだろうが。物心ついたころから戦争戦争で、いつかこうなると分かってたんだから。真面目に生きてどうなる。すぐに死ぬのに。心残りがない人生は気楽なもんだっただろう。あいつらだって悲しまない。悲しませるよりは何も感じないほうがずっとマシだ。寂しくなんてない。悲しくも、悔しくも。今になってもしも、を考えるな。考えてどうする。怖く──ない。


 雲の切れ間に敵艦の姿が見えて、俺は訓練通りの動きをなぞれていることを知った。次は、降下。狙われるが切り抜けろ。堕ちるなら敵艦に、少しでも中心部の近くに。少しでも多く道連れにしろ。


 目の前に対空砲の火花が炸裂し、轟音が耳を聾する。気圧の変化で鼓膜が圧迫されて脳が揺れる。そんな中で、俺は呟いた──のだろうか。あるいは、心の中で?


「死にたないなあ」

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放蕩者の末路 悠井すみれ @Veilchen

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