第二章

どうやら眠っていたらしい。午前四時五十分。まだ外は暗い。

もう一度寝る気にもなれなかった。部屋の隅に置いた荷物を解き、身支度を整えて部屋を出る。エレベーターに乗り込みボタンを押すと、ガタンと音をたて下降し始めた。この感覚もどこか懐かしい。商店街を抜け、住宅地を抜け、かつて賑わっていた面影を残す辺鄙な遊園地を抜ける。どこに向かっているか、自分でも分からない。ただただ直感に従って歩いていた。


気が付くと、小さな海岸に辿り着いていた。


雄大な海原と、波打つ音、容赦なく打ち付ける風だけが響いている。俺は波打ち際近くに座り込む。服が濡れようが構わない。膝を抱え、顔を伏せる。海が鼓動している声にただただ耳を澄ませた。


どのくらい経っただろう。太陽が水平線から顔を出し始めた。真っ暗な世界に光が差し込み始める。少しずつ色づいてゆく世界は美しかった。

……俺は靴を脱ぎ、海の中へと歩みを進める。どうせなら、気持ちが晴れやかな状態で向こうへ行ってしまいたい。海水が肌に触れ、ひんやりとした冷たさが全身を襲う。足の指の間を通り過ぎる砂粒がくすぐったい。心臓の音が高鳴っているのが分かる。徐々に体が沈んでゆく。不思議と恐怖はなかった。むしろ心地が良い。このままずっとこうしていたい。


だが、そんな感情はすぐに打ち消される。大きな波が襲い掛かってきた。人の力で対抗できるわけもなく、あっという間に岸へ運ばれる。


「……死なせてくれないのか。」

『死ぬなんて簡単に言うもんじゃないよ。』


……幻聴だろうか。いや、だが確かに海の方から聞こえた。疑う余裕もなく、俺はこぶしを握る。


「何も知らないくせに。生きろというだけなら誰でもできる。無責任だ。」


自分でも驚くほどの怒りが湧いてきた。とめどもなく体が震える。だが、そんな俺の様子を海は穏やかに見つめていた。


『こんなところで死んではいけない。君の本心は、生きたいと、変わりたいと叫んでいるよ。』


静かに波が揺らぐ。気が付くと、俺は胸の内を明かしていた。


「……いつまで経っても、あいつの影がしがみついてくるんだ。苦しく痛くてしんどい記憶と、同じぐらい幸せだった記憶が蘇る。いつまで経っても脳裏から消えてくれない。嫌なんだ……。もうこれ以上蝕まれたくない……。早く、早く解放されたい……。」


堰を切ったように言葉が溢れ出す。頬を伝って落ちる雫が、波に溶け込んでいく。体のあざは消えたのに、砕かれた本心は一向に戻らない。恨めしくて、……悲しくてたまらない。途切れ途切れの言葉に、海はただただ黙り込んでいた。


不意に水面が大きく揺れる。刹那、視界いっぱいに光が広がる。ゆっくり目を開くと、一人の青年が佇んでいた。

目の前の光景を理解できなかった。そこにいたのは、紛れもなく壮真だったからだ。

手を伸ばしかけたその時、大きな波が彼に被さった。輪郭を保っていた姿がぼやけ、打ち消される。存在が透明になるほど、俺の心はなぜか軽くなる。


『……私にはこれぐらいのことしか出来ない。』


一時の幻から覚め、俺は再び立ち上がった。そっと手を伸ばし波に触れると、じんわりと温もりを感じる。


『立ち返るな。君は君自身の人生を勝ち取る義務がある。執着など突き放してやりなさい。君なら大丈夫だ。』


そういうと、海は静かに口を閉ざした。


「……ありがとう。」


俺は海岸を後にした。どこからか漂う味噌汁の香りに、空腹感を覚えた。久しぶりの感覚に、心が少し弾む。

……俺は、このトラウマとずっと向き合い続けることになるのかもしれない。以前はそれが本当に嫌で、怖くて、何よりも恐れていた。でも今は違う。それでもいい気がしている。


傷だらけでもいい、泥まみれでもいい。歩んでさえいれば、霧は晴れるのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

逃避行 添慎 @tyototu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ