逃避行

添慎

第一章

六時半発の電車は、普段以上に空いていた。

幾重にも折り重なるビルの間から鮮烈なオレンジとほのかな青色が差し込み、薄い紫色の雲が悠々と流れている。


『夕焼けが一番好きなんだよね。』


聞き馴染みのある、鼻声がかった低い声。慌ててイヤホンを外し周囲を見回す。当たり前ながら、俺の周りには誰もいない。

……あれからもう三カ月も経ったのに、いつまでも引きずっている自分が嫌になる。心の中でへらへら笑ったら、途端に寂しくなった。


―不思議な人だった。とにかく優しかった。仕草も、言動も、外見も、全てが大好きだった。だが、俺が愛していたのは、彼が社会で生きてゆくために整備した仮面だった。知れば知るほど、仲が深まるほど、攻撃的で傲慢な本性が浮き彫りになる。俺だって完璧な人間ではないし、あいつにも事情がある。相手のことが大好きで、未来永劫一緒に居たいと思っていたからこそ、全部受け入れた。どう配慮して譲歩すればいいのか、自分はどう変わっていけばいいのか、自問自答を繰り返した。だけど、ある日。彼への想いが驚く程急に冷めてしまった。こちらばかり不利益を被る関係に嫌気がさしていたのだろうと、今になって思う。―


色彩に満ちていた空色が、全てを呑みこむ黒に変貌していた。電車はぐんぐんと加速し夜道を通り抜けてゆく。当たり前の事なのに、何だかやけに偉大に感じられた。ライトやレールがあるとはいえ、どこまでも広がる闇の中を躊躇なく駆け抜けている。俺も一刻も早くそうならないといけないのに、一向に前に進めず立ち往生したままだ。……情けなくて、もどかしくて、たまらない。


終点に到着した。

どこからか、潮の香りがほのかに薫る。人がまばらに交錯する商店街を、あちこちが茶色く錆び付いた電灯が照らしている。

彼はこの街が好きだった。何度も行きたいと懇願され、訪れる度に弾けるような笑顔を見せる。特段有名なわけでも、見どころがあるわけでもないのに、何が彼をそこまで惹き付けるのか分からなかった。今でもそうだ。

商店街を抜けた突き当り、老夫婦が営む小さな旅館を目指す。二人の、思い出の場所だ。



階段から目と鼻の先にある一室。鍵を開け、一歩足を踏み入れると、懐かしい匂いが鼻腔を刺激した。そうだ、彼はいつもいの一番に布団に飛び込むのだ。歩き疲れたと談笑しながら布団に横たわり、彼の手招きに応じて厚い胸元に頬を寄せる。握られた手の暖かさに安堵し、眠りについてしまうこともしばしばあった。

……まさかその手で危害を加えられるとは夢にも思っていなかった。幸せも確かにあったのだ。もう二度と戻らない日々を思い出す度、涙腺が緩みそうになる。



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